第6話 氷山の竜
北極星を目指して、海の上を飛ぶ。太陽が昇って沈み、もう一度登った頃、クオンとザクロは故郷の城よりも大きい氷山にたどり着いた。
飛ぶのにも疲れていたクオンは、そこで翼を休めることにした。
空は真っ青に晴れているが、海には点々と雲のように、白い氷が浮かんでいる。
「ううう、寒い……」
「そんなに寒いの? 陸で待ってればよかったのに」
「ダメだよ、クオンだけ行かせるなんて」
「多分、鞍のおかげで守られてるんだろうから、絶対降りちゃダメだよ。降りたらきっと、凍っちゃう」
足元は固いが、クオンが一歩足を進めるごとに、深い爪痕が残る。表面の硬くなった白い雪が削れ、奥の氷が顔を出す。深い青の氷の向こうに、海の水が透けて見える。
空気が澄んでいる。山の端で、氷のかけらが海に落ちた。
「こんな寒いところに竜なんているの?」
ザクロの体が、背中の上でわかりやすく震えている。分厚い鱗のおかげでクオンはそれほど寒さを感じていないが、確かに体が動かしづらいような、肉がこわばっているような感覚がする。
「いるかもしれないし、いないかもしれない。少し、温まっていこう」
首を後ろにそらして、できるだけ弱く炎を吐き出した。ちらちらと揺れる炎が、雪や氷に反射する。
「わあ、あったかい。ありがとう!」
気をつけていないと、兄はあっさり凍死するだろう。今からでも陸に送り返すべきかもしれない。
炎の熱が、じわじわと雪を溶かしていく。雪の表面が水っぽくなり、透明になり、氷の中が見えてくる。
「クオン! 見て! 氷の中!」
ザクロが大声を出して、地面を指差す。垂れる水でよく見えないが、確かに何かある。
「もっと炎出してみて。あれが出てくるまで溶かして見よう」
クオンはうなづいて、炎を強くした。溶けた氷が、しっとりと輝く。順調にどんどん溶けて、氷に深いお椀のような穴が広がっていく。
氷の中に閉じ込められていたのは、船だった。古びてはいるが、立派な帆船だ。黒い帆には、竜の顔の下に二本の骨が交差している絵柄が描かれている。
炎で開いた穴を覗き込み、ザクロは感嘆の声を上げる。
「おっきい船だ! かっこいい!」
「もうちょっと溶かしてみようか」
再び炎を吐き、氷を溶かす。もう少しでマストが氷から出て来そうだ。これ以上火を近づけると燃えるかもしれないと思い、一旦火を吐くのをやめる。
穴の中に降りてみる。四方を氷に囲まれたが、風が当たらないおかげか穴の外よりも寒さがましになった気がした。
「進行方向、異常なしであります、クオン船長!」
進行方向もなにも、穴の中に入ってしまえば氷しか見えないのだけれど、楽しそうなザクロを見て、水を差す気が失せた。
「そうですかザクロ一等兵。引き続き警戒に当たってください」
家ではよくこうしてごっこ遊びをしたものだ。本物の船の上でやれるというのは、すごく贅沢な気がする。
「うわっ!?」
不意に氷の砕ける音がしたかと思うと、クオンの前足が氷を突き破っている。
「この下、空洞みたいだ」
足の爪を動かしてみる。問題なく動く。この氷の下には、広い空間があるのだ。
爪を立てて、氷を削る。バターでも削るようにたやすく、クオンの爪は氷の床をえぐる。中に入れるだけの穴を開けると、クオンはそこから体をねじ込んだ。
船は氷漬けになっていたわけではなかった。氷山の中に空洞があり、そこに船が入っていたのだ。
「すごいね、天然のボトルシップだ」
こんなものが、自然にできるわけがない。きっと、ここには何かがある。
「おうおう、獲物が自分から飛び込んで来やがったぜ」
どこかから、いかにも野蛮そうなしゃがれた声がした。
見張り台から下を見るが、動くものはなにもない。
「クオン、これって……」
船の甲板には無数の骸骨が立っていた。どれも汗じみた作業着をまとい、仕事中のようなポーズのまま固まっている。
「幽霊船!?」
鞍の上のザクロが、ひしっとクオンの背中にしがみついた。
「落ち着いて兄さん。幽霊なんていないよ」
「僕はちょっと前までドラゴンもいないと思ってたよ」
「よく探しに行こうって探検してたじゃないか」
「いると思ってた方がロマンあるじゃんか」
骸骨たちはどれも、その場に佇んで一歩も動かない。さっきの声の主はどこにいるんだろうか。
「坊ちゃんたち、降りて来な。ゲッヘッヘ」
またどこかで誰かの声がした。さっきのよりも歳を取っているような、滑舌のはっきりしない声だ。
「そっちから来たらどうなの?」
「ちょっ、クオン! やめようよ! もう出ようよ!」
どこからともなく、歌が聞こえてくる。酒灼けで喉が荒れているような、喉が痛そうな歌だ。海賊は強いんだぞ、酒はうまいんだぞ、海は広いんだぞ、ガキはすぐに大きくなるぞと歌っている。ひとしきり歌い終えると、今度は別の声が同じ歌を歌い始めた。
「この中、ちょっとあったかいね。ここなら鞍から降りても平気なんじゃない?」
「えぇ……怖いよ……」
「大丈夫だって。骸骨が動くなんてそんなこと、あるわけないだろ? ちょっと探検していこうよ」
恐る恐る、ザクロが鞍から降りた。すると一瞬でクオンの目の前からザクロの姿が消える。一拍おいて、足元の方から情けない悲鳴が聞こえてきた。見ると、さっきザクロが降り立った場所の床が、腐って抜けている。
「ヒャァァ! おばけ! 骸骨! クオン助けて!」
ふうとため息をついて、クオンは見張り台から飛び降りる。骸骨が一体、ザクロの下敷きになっている。この骸骨は、他のものと違って大きな帽子をかぶり、ゴツいコートを羽織っている。歌が止んだ。
「船長!」
この船には不似合いな幼い声が響いた。
「グフッ」
白い影がザクロに体当たりして弾き飛ばした。家の近所で一番偉そうにしていた猫と同じくらいの大きさだ。
「船長になにするんだよお前!」
「えっ? あっ、ごめん」
キッとザクロを睨みつけて、牙をむいて怒っているのは、小さな竜だ。白と黒のまだら模様の、ざらついた皮膚をしている。不思議なことに、翼もないのに宙に浮いている。長い髭と長い体が竜にたゆたっていて、まるで空気の中を泳いでいるようだ。
「君は?」
「俺はこの船の乗組員だ! そんでそこの潰されてバラバラになってんのが船長だ!」
「わー! ごめんなさい船長さん! 恨まないで! 呪わないで!」
慌ててザクロが船長の上から飛び退いた。その拍子に頭蓋骨が転がり、眼窩の空洞がザクロの方へ向いた。
「ヒィ! ごめんなさいごめんなさい!」
「大丈夫だよ兄さん。もう死んでるんだから」
「死んでるとは何事だクソ坊主! 俺はまだまだ現役だぜ!」
威勢のいいダミ声だ。きっとこの声が、乗組員に指示や激を飛ばしていたのだろう。
「わあごめんなさい! ほらクオンも謝って!」
「ええ……僕なにもしてないのに」
「はっはっは、いいってことよ!」
豪快に笑う船長の声に合わせて、小さな竜の喉が震えている。それに気がついて、クオンは思わず笑いが漏れた。
「君、すごく芸達者だね」
「ん!? な、なんのことだ!?」
竜が小さな前足で船長の骨をかき集めている。爪で骨を傷つけないように、少しずつ集めて人の形に組み立てていく。
ザクロも竜を手伝い始め、骸骨を組み立てて立たせ、コートを被せる。これで、船の指揮をとるリーダーの完成だ。
「ははは、優しさが身にしみるぜ」
「身の部分、ないけどね」
「もう! クオン! そういうこと言わないの!」
わかってしまって意識すると、どうしてザクロは気がつかないのだろうと滑稽に思えてくる。船長の声は、竜が出している。やはり、死人が動くなんてこと、ありはしないのだ。
船の甲板を見渡す。今にも動き出しそうな骸骨たちが、あちこちでロープを掴んでいたり、ブラシを持っていたりする。しかし、誰も動かない。帆は広がらないし、舵は動かない。錨が下されることもない。甲板から埃が取り払われることもない。
「君は、ここで一人なの?」
クオンが聞くと、竜は目を釣り上げて牙を剥く。
「一人じゃないやい! 俺はここでみんなと一緒にいるんだ! 卵の時に拾われてからずっと! 俺はここの乗組員なんだ!」
「ひとりじゃないか。誰も返事をしないから、自分で声を真似してる。そうでしょう?」
「……お前嫌いだ!」
小さく炎を吐きかけると、竜は一目散に骸骨たちの群れの隙間を走り抜け、船室の中へと去ってしまった。
「ああ! 待って!」
ザクロが竜を追いかけようとしたが、ちょうど目の前で骸骨が一体、酒瓶片手に座り込んでいて、ぶつからないように急停止してつんのめる。
「なんでそういうこと言うのさ!」
「え、だって」
「あーっと、クオンの大きさじゃ、ここからは入れないね。どうしようか」
「外から行こう。窓から覗けば、見つかるかもしれない。
周囲の骸骨たちに気をつけて、クオンはそっと飛び上がる。ゆっくりと船体の隣へ降下していき、窓の中を覗き込む。光の差し込まない船内は、暗く湿っている。この寒さでは生きていけないのだろう。クモやネズミですらいない船内は、静かだ。
一つ目の窓の中は、食料庫だった。干し肉や酒がカチカチに凍りついている。二つ目は、書斎だった。おそらく、船長の部屋なのだろう。壁には地図が貼り付けられ、机の上には望遠鏡やコンパスが散らばっている。机の端に、異様に大きい卵の殻が飾られている。三つ目は物置だった。大砲の弾や銃や剣。大量のコインになんだかよくわからない置物。ロープやフックの予備が乱雑に置かれている。
どれも、長い間動かした気配がない。動くものはなにもない。この船は、死んでいる。
竜は、四つ目の食堂らしき部屋にいた。何人かの骸骨がテーブルにつき、もう空っぽになった大皿を囲んでいる。その皿の上で、竜は体を丸めて、さっきの歌を口ずさんでいる。
「さっきはごめんね。クオンも悪気があって言ったわけじゃないんだ。この船でなにがあったの?」
ザクロが聞くと、竜は歌うのをやめた。
「特になにもねえよ。なにもないけど、みんな動かなくなっちまった。そんで流されてるうちに氷に囲まれた。なんとか氷漬けにならねえように頑張ったが、俺の小せえ炎じゃこれが限界だ」
竜と人では、時間の感覚が違うと、森の竜は言っていた。この幼い竜は、人間の時間に置き去りにされたのだろうと、クオンは見当をつける。
「船ごとは無理でも、君一人出るくらいならなんとかなるんじゃない?」
「みんなを置いては行けねえ。みんなの体は船に乗ってて、俺が喋れば声もする。会話だってできる。『よう、この二人はお前のお友達かい?』ううん、今初めて会ったんだ。……ほらね」
「君はどうやって生きてるのさ。こんなところじゃ、お魚も取れないでしょう?」
「大丈夫。霞を食べて生きてるから。俺、もともと雲の竜なんだ。よくわかんねえけど、雷と一緒に転げ落ちて、ここに流れ着いたっぽい」
氷を透かして、青い光が入ってくる。きっと今、外は昼なのだろう。木の壁に差し込んだ光で、氷のおうとつが見えてくる。
「おいお前、お前だよ水晶の竜。お前はなんでこの兄ちゃんといるんだ? 俺はこの船にいるのが当たり前で、この船が大好きだからここにいる」
「僕は……」
クオンは思った。このままだと、きっと僕はザクロに置いていかれるのだろう。ずっと先の未来、僕の鞍の上には、今よりもひと回りふた回り大きなザクロの骸骨が乗っているのだろうか。
「まあ、お前はそのままだと兄ちゃんより先に死にそうだけどな」
「そうなの。だから竜の涙を集めてるんだ。一粒でいいから分けてくれないかな」
「お前ら二人、お互いが大事だってんなら、涙なんか集めずに適度なところで砕け散ったほうがいいと思うぜ。でないと俺みたいに、気持ちが凍りついて動けなくなる」
「そうなのかな」
クオンはじっと、雲の竜を見る。
「いいや。死んだほうがいいなんて、そんなことはあるわけないよ。僕はクオンに生きていて欲しい」
「それは無責任ってもんだぜ。俺たちは、足並みをそろえることなんてできやしない。お前の基準で生きていくと、こいつは苦しむことになる」
「苦しいのなら、君はこの船から出るべきだ。ここにいるから、気持ちがここから動かないんだ。外へ出ればい」
クオンが言うと、竜の尻尾が軽く机を叩いた。テーブルに乗っている骸骨の手が、カタカタと揺れる。
「俺やっぱりお前嫌いだ。お前だってわかっているはずだろう。竜は同胞と故郷を大事にする生き物。俺は船の仲間を捨てられない。それは、お前も一緒だろう?」
言い返せなくて、クオンは言葉に詰まる。もしあの日、母さんに追い出されなかったら、家を離れることができただろうか。実際、無理やりついてきた兄さんを、振り切ることができなかった。ついてこなくてもいいと、思っていたはずなのに。
「クオンは僕がいなくても生きていける。きっと大丈夫」
なにを勝手な。クオンはそう言いかけて、やめた。
「……いいぜ。涙はやろう。だが一つ条件がある。歌ってくれ」
「歌? さっきの?」
「海賊の歌だ。昔は、みんなで働きながら声を揃えて歌ったもんだ。でも、一人じゃ合唱はできないから。久しぶりにやりたいなって」
「うん。わかった。歌うよ」
雲の竜は、飛び上がって尻尾で窓を開けると、幼い声で歌い始めた。それに二人も声を合わせる。一節歌うごとに、竜は声色を変えていく。船室の中を泳ぎまわりながら、竜は声を張り上げる。
威勢のいいダミ声、年寄りのガラガラ声、滑舌の悪いくぐもった声、酒灼けのひどい声、歯が抜けたようなふやけた声。様々な声が、竜の口から現れる。海は広くて果てしない。海賊は強い。ガキはすぐに大きくなる。それらの言葉はクオンとザクロの声に重なって、氷のボトルシップの中に響く。
どれくらい歌っていただろうか。満足したのか、竜は歌をやめた。
「この歌な、俺が来てから歌詞が変わったらしいんだ。よその船じゃ、海と酒と海賊の部分しか聞かねえから、気になって船長に聞いたんだ。そうだ、思い出した」
ポロポロと、竜の瞳から涙が溢れる。それは皿の上に落ちて、少しずつ凍りついていく。
「うん、俺は決めたよ。この船を連れて旅に出よう。みんなを連れて、いろんなところに行こう。」
「一人で動かせるの?」
心配そうにザクロが聞くと、雲の竜は首を横に振った。
「今は無理だ。でも俺は大きくなる。いずれは文字どおり、この船を引っ張っていけるくらい。そうしたら、俺が船長だ。俺がこの船を、氷から出してやる。竜が幽霊船を引き連れるなんて、かっこいいだろ?」
竜は涙をひとかけら、爪でつまんでザクロの方へ差し出した。ザクロはそれを受け取って、ぽちゃんと角の水筒へ放り込む。
「うん。かっこいい」
「きっとみんな、それまで待っててくれるさ」
街へ行く→5へ
渓谷へ行く→7へ
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