終話 報酬の品

夏の始まり

 京天門邸で実行された、真夜中の花嫁奪還作戦からおよそ一週間。

 梅雨明けが発表された京都の夏は、蒸し釜の中のようにじめじめとした暑さに飲み込まれている。


 灼熱地獄となった太陽の下から逃れ、ようやく居候する安アパートの一室に帰り着いた竜道院りんどういん舞桜まおは、既に冷房の効いた涼やかな風を全身に浴びて生き返るような心地になった。


 汗をかいて、軽く肌に張り付いた夏服のシャツが気持ち悪い。早くシャワーを浴びようと思いつつ、胸元のリボンを外しながら家主が先に帰ってきている六畳間へと進んだ。


「静夜、今帰った。……どうしたんだ? そんな深刻そうな顔で……」


「え? あ、いや、……なんでもない」


 慌てて何かを隠す不審な挙動。少女は目を細めて、ローテーブルの下にあるものを窺った。


「……もしかして、やっと例の報酬が届いたのか?」


 それは舞桜も一度見た記憶のあるものだ。静夜が隠そうとしたことからも推察できる。


「……」


「黙秘したところで、こんな狭い部屋の中で隠し通そうとするのは無理があるぞ?」


 舞桜がすごむと、静夜は観念して手にしていたものをテーブルの上に広げる。

 出てきたのは、折りたたまれた二枚の便箋と、見覚えのあるファイルだった。


「……帰ってきたら、ポストに入っていた」


 部屋の隅にはその二つを包んでいた大判の封筒が捨てられている。差出人の名前は案の定、先日静夜たちが駆け落ちを手助けした京都のロミオとジュリエット、紅庵寺こうあんじ陸翔りくと京天門きょうてんもん椿つばきからのものだった。

 便箋には、今回の件で協力したことへの感謝と謝罪。そして簡単な近況報告が綴られている。


「……どうやら、コイツらはまだ絹江きぬえの真意には気付いていないようだな」


 幸せ一杯という二人のお花畑のような脳内が透けて見える手紙にざっと目を通し、舞桜は半分呆れたため息をつく。


「ま、二人も今は忙しくてきっとそれどころじゃないんだよ。でもそのうち気付く。その時になって何を想い、どうするのかはあの二人次第だけどね……」


 ちなみに、この二人の駆け落ちは当然、《平安会》内部で話題となった。大々的な追及や糾弾がされるような事件としてではなく、いわゆるスキャンダルやゴシップとして京都中の陰陽師たちを騒がせたのだ。


 竜道院羽衣はごろもはこれを愉快と言って笑い飛ばし、その他の竜道院一門の大人たちは、娘や《陰陽師協会》に出し抜かれた京天門絹江を嘲笑った。

 蒼炎寺一門はむしろ何も言わず、紅庵寺陸翔のことには何も触れないようにと箝口令かんこうれいが敷かれたらしい。


「……そういえば、アイツらに新居を融通したのは、あの坂上だったな。随分と気に入っているようだが、いったいどんなところを手配したんだ?」


「バリアフリーの行き届いた神戸のタワーマンションって言ってた。コンシェルジュもついてるような高級物件らしいけど、最近羽振りがいいんで格安で譲ってあげたんだとさ……」


 京都からの移住先については、不動産業者にもいくつかコネクションを持っていそうな大学の友人に依頼したのだが、候補に上げられたところがどこも同じような高級マンションばかりだったので、静夜は反応に困った。


「アイツ、最近調子に乗ってないか? 駆け落ちならもっと安くてぼろいアパートに住むのが様式美だと思うが……。ここみたいな」


「最後の一言は余計だよ。……でも、例のクラブの経営も上手くいってるみたいだし、ちょっとは仕方ないんじゃない? っていうか、康介こうすけは出会った頃からだいたいあんな感じだよ」


「……まあ、こっちの手紙は正直どうでもいい。重要なのはそっちのファイルだろ?」


「……」


 テーブルの上に残っているファイルの話になると、静夜は表情を硬くし、口を噤んだ。

 これこそが、今回の二人の駆け落ちを手伝う報酬として一番初めに提示された品だ。

 最初は二人の話を断るつもりでいた静夜が協力を余儀なくされた人質ならぬ、物質。


 このファイルをちらつかせて遠回しに脅迫してきた椿と陸翔の話によると、このファイルは世界に一つしか存在せず、内容を知っているのは作成に関わったごくわずかな人間だけで、一切他言しないという約束までしたが、どこまで信用していいのやら。


 そもそも、このファイルが作られるに至った経緯すら、舞桜にとっては謎でしかなかった。


「……で? お前はもう中を見たのか?」


「……うん」


 重々しく頷く静夜を見て、舞桜は中身の重大さを自然と推し量る。

 夕暮れが近くなっても鳴り止むことのないセミの鳴き声が部屋の中にいても聞こえて来て、冷房の涼しさを忘れさせた。


「……それは、私が見てもいいものなのか?」


「……見たい?」


「興味はあるが、……お前がどうしても見せたくないのなら、見ないでおいてやる」


 舞桜にも一応、ファイルの中をあらためる権利はある。しかし静夜の様子から察して、少女はその判断を彼に委ねた。

 青年は、テーブルの上に置いたファイルをしばらくじっと見つめた後、それを手に取って机の下に隠した。


「……ごめん」


 つまり、見せられない、ということだ。


「……分かった」


 舞桜は短く返事をし、着替えを用意してからシャワーへ向かう。


「あと一応……」


「……何だ?」


 六畳間とキッチンを隔てる扉を閉める直前で、静夜は舞桜の背に向かって声を掛けた。


「……このファイルのことは、本人には絶対に言わないで欲しい。こんなファイルがあることはもちろん、それを僕が隠し持っていることも含めて、絶対に……」


「……ああ、分かっている」


 彼の必死さを背中越しに感じ取り、少女は素直に頷いた。


 中身を見なくても、舞桜はあのファイルが何についてまとめたものなのか知っている。


『クラブ・ブルーサファイア』の店内で、京天門椿と紅庵寺陸翔に初めてあのファイルを突き付けられた時、表紙をめくった一項目には、表題としてこう記されていた。



『――三葉みつばしおりに関する報告書』



 と。

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