京天門の母

「先輩! 舞桜ちゃん! アタシらも行くッスよ!」


 萌依めい萌枝もえは急いで椿たちの後を追おうとする。だが、静夜と舞桜はその場にとどまったままで、燃え盛る絹江きぬえ女史をじっと見つめていた。


「……静夜、……これは〈証明〉が失敗したのか……?」


「……そう、……かもしれない……」


 炎に包まれた絹江女史は、娘を捕らえていた眼球のあった中空を見上げたまま立ち尽くしている。黒い影しか見えない背中には、事実を受け止めきれない驚嘆と、大切な何かを失った哀愁が滲み出ているように感じた。


 彼女の〈証明〉の力をもってすれば、あのような炎は一瞬のうちに消し去ることが出来るだろう。いくら意表を突かれたと言っても、陸翔りくとを抱えて走り去る娘を引き留めて連れ戻すことは簡単にできたはずだ。

 それが出来ていないということは、〈証明〉が終了し、その効果と力が失われたことを示している。


「……〈証明〉って失敗したらどうなるんスか?」


 異様な雰囲気を察した萌枝が静夜に歩み寄って尋ねて来た。

 静夜も、話に聞いただけの知識しかないが、その結末はとても印象深くて記憶に残っている。


「……〈証明〉は自分の〈存在の定義〉を体現するものだから、それに失敗したら、自身の〈存在の定義〉を保てなくなる。……名前を持たない妖がいずれそうなるように、〈存在の定義〉を失った人間は、この世界から消滅してしまう……」


 目の中に入れてまで守ろうとした娘に拒絶され、母親は見守るべき子を失った。

 彼女の〈存在の定義〉を間違っていると否定した紅庵寺陸翔も殺し損ねたまま。

 京天門絹江の〈存在の定義〉は今、完全に打ち砕かれてしまったのだ。


〈証明〉とはまさに、自身の存在と命を懸けた一世一代の発表会。己の人生の集大成であり、何もかもを曝け出して、自分の存在を世界に証明する大舞台。

 強力な力を得る一方で、その代償となるのは己の全て。


 かつて『鉄壁の巫女』と謳われ、『雷槍の乙女』と呼ばれた親友、竜道院りんどういん環那かんなと共に京都の街を背負って戦った陰陽師は、娘の幸せを願い過ぎたが故に歪み、愛した娘によって倒された。


 だがやはりそれは、陸翔も言い放ったように、京天門絹江らしくない最期であると、静夜も思った。


「――いいえ。これでよかったのです。……むしろこれこそが、私の望んだ結末です」


 炎が晴れる。

 焦げ跡一つない京天門絹江は、少し着崩れた和服を直してその最期を見届けようとしていた静夜たちの方を振り返った。


 焦って身構える。が、既に彼女に戦意はなく、両目も閉ざされて、いつも通りの落ち着いた品のある佇まいに戻っていた。


「……これでよかった、とはどういうことですか?」


 困惑したまま静夜が問いかける。絹江女史は穏やかに微笑んで答えた。


「言葉通りの意味です。私は最初から、あの子にあの殻を破って外へ出て行って欲しかったのです。……それともなんですか? あなたたちも陸翔と同じように、私の〈証明〉が娘を無理矢理監禁して都合の悪い現実を排除するだけの術だと思っていたのですか?」


「え? 違うんですか?」


「……失礼ですね。私はそこまで意地の悪い母親ではありませんよ? ……ですが、静夜の仮説はほとんど当たっていました。あのまま私が陸翔を殺していたとしても、娘を守り抜いた私の〈証明〉は無事に成功していたでしょう。しかし、それとは別にもう一つ、私の〈証明〉には答えがありました」


「……それが、子どもが自ら親の結界を打ち破って外へ飛び出すこと、だったのか?」


 舞桜が絹江女史の想いを汲み取って代弁する。

 目を閉ざしたまま彼女は慎ましやかに笑った。


「あの眼球を模した結界は、外からでは絶対に壊せないようになっていました。破れるとしたら内側からだけですが、それも決して簡単ではなかったはずです。それを見事に砕き割ったということは、もう私が守ってあげる必要もなくなったということでしょう。……子どもはやがて親の想像を遥かに超えて大きく育つものです。『星火燎原せいかりょうげん』、ですか。まさに手が付けられないほどの大きな炎になりましたね、椿……」


 屋敷の外へ飛び出して行った娘を想い、天を見上げる母親。その顔はとても晴れやかで清々しく、長い梅雨の終わりを思わせた。


「私のこの見えない目は、子の成長を見守り、巣立つ子どもを見送って、子どもたちが幸せになる様を見届けるためにあるのです。それが京天門絹江の〈存在の定義〉の証明、〈掌上明珠しょうじょうめいしゅ〉のかいです」


 明かされた真の〈証明〉の内容は、まさに絹江女史に似つかわしいものであり、胸の中にストンと落ちるように得心がいった。


「で、でも、それならどうして最初から二人の結婚を認めてあげなかったんですか? こんな回りくどいことに、いったい何の意味があったんですか……?」


「分かっていませんね、静夜。私が素直に賛成してしまったら、あの二人は京天門家と蒼炎寺家の公認になってしまいます。いくらあの竜道院羽衣はごろもが約束したと言っても、竜道院一門の人たちはこれを面白く思わないでしょう? それに同門の人たちだって今の二人の結婚を快く思ってくれる人は多くありません。私たちが二人の仲を認めた上で結婚し、なおかつ京都で暮らそうとすれば、絶対にいろんなところから陰口を叩かれます。二人は肩身の狭い思いをするでしょうし、場合によっては余計な争いの火種にもなりかねません。……それならいっそ私が全力で反対して、邪魔をして、この街から追い出してしまえば、二人は親の反対を押し切って結婚した親不孝者で、京都を出て行った裏切り者ということになり、あの二人にちょっかいを出そうとする輩はいなくなります」


「……それだけでなく、あの二人を陰陽師としてのしがらみや、御三家特有の煩わしさから解放してやることも出来る。だから〈証明〉まで使って、本気であることをアピールしたのか」


 絹江女史の話を聞いて、舞桜も彼女の考えを見透かした。


「でもここまでやっておいて逃げられたとなれば、京天門家は蒼炎寺一門から非難されませんか? 竜道院一門だって馬鹿にしてくるでしょうし、この一件に僕たち《陰陽師協会》が関わっていたと知られればそれこそ何を言われるか……。絹江さんは、本当にこれで良かったんですか?」


 彼女にどのような意図や思惑があったとしても、表向きは親が子どもの暴走を止められなかった監督不行き届き。特に二人を見事に取り逃がした京天門絹江に対する嫌味は相当なものになるだろう。


 絹江女史は、そんな静夜の心配を満面の笑みで振り払う。


「大丈夫です。子どもたちが幸せなら、親が何を言われようとも気にはなりません。そんなものは些細な問題に過ぎないのです」


 一部の曇りもない純粋な本心からの言葉に、静夜の胸は少し苦しくなった。


(……すごいな。この人は……)


 この京都に、彼女以上に強い母親がいるだろうか。

 とても今の静夜や舞桜が戦いを挑んで勝てるような相手ではない。


 京天門椿の奪還という当初の目的は果たしたものの、この戦いにおける本当の勝者は、京天門絹江だったのではないかと、その場にいた《陰陽師協会》京都支部の学生たちは誰もがそう思った。


盲目の母親の閉ざされた瞼からあふれる涙は、娘を身籠ってから今日までの月日における万感の想いに彩られている。

 今の彼女の瞼の裏には、どんな景色が映っているのか。


 初夏の夜の静けさに酔いしれながら、静夜たちもまた親子の思い出に胸の奥を熱くさせた。

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