カップルの覚悟
3限目の講義が終わるチャイムが鳴り響く。
学生食堂では4限目に講義のある学生が席を立ち、入れ替わりに講義を終えたばかりの学生が軽食を手にして空いたテーブルを探していた。
静夜たちは食べ終えた昼食の食器を返却し、突然の訪問客と向かい合うように席を替えて座り直す。幸い、三人が揃って受けるはずだった一般教養の講義は担当する教授の都合で休講となっていた。
「……二人だけで生きていくための訓練、とはいったいどういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ、月宮君。俺たちはこれから家の助けを一切借りずに自分たちだけの力で生きていかなくちゃいけない。二年前の一件でこういう身の上になってしまったからね。特に外出するときは様々な問題に直面するだろうから、それらにうまく対処していくために、こうしていろいろな場所に赴いて予行演習みたいなことをやっているんだよ」
「って言っても、やっていることはただのデートとあまり変わらないのよね」
自分たちの行動の意義を雄弁に語る車椅子の彼氏と、謙遜して控えめに笑う盲目の彼女。
先日対面した時も思ったが、二人は既に結婚している本物の夫婦だと言われても違和感のない空気感を醸し出していた。
「でも、それって危険じゃないですか? 目の不自由な
失礼かもと思いつつ、
この大学のキャンパスと同様、京都の街もまた親切なところとは言い難い。大通りは車の交通量が多く、歩道には常に人がいて、自転車だってよく通る。
健常者である静夜でさえ街中を歩いていて危ないと思うことはしょっちゅうなのに、目と足の不自由なカップルが二人だけで出歩いていたら、怖い思いをするだけでは済まないかもしれない。
しかし、当の本人たちは穏やかに笑ってその心配を
「大丈夫だよ。目に見える危険には俺が気を配って彼女に教えているし、いざという時には裏技だってある」
「……裏技、ですか?」
「月宮君は、〈
「……えっと確か、法力を空中に飛ばして相手を攻撃する中距離格闘術、ですよね?」
質問の意図が読めないが、静夜はとりあえず持っている知識を絞り出して答えた。
〈蒼炎寺拳法〉。――正式名称〈
その特徴は、法力の込められた拳や蹴りが間合いの外にいる相手にも届くというもの。
また、虚空を掴んで相手を投げ飛ばす技や、離れた場所にいる敵を締め落とす技なども存在し、完全に間合いを無視した攻撃を可能にする異端の武術として知られている。
「武術と陰陽術をかけ合わせた流派は全国的にもいくつかありますが、〈蒼炎寺拳法〉はその中でも特に武術らしくなく、最も陰陽術らしい特異な流派だと言われています。しかしだからこそ応用が効き、分派の流派も多く存在している……。陸翔さんの
「へぇ……。さすがこの一年、京都で《陰陽師協会》のスパイをやっていただけのことはあるね。よく調べている」
「いえ、これくらいはただの教養ですよ」
「月宮君の言う通り、俺の生まれた紅庵寺家は本家に近い分家筋の中でも分派の流派を多く伝えている一族だ。それは今も変わらないし、逆に紅庵寺流の技が本流に逆輸入されて使われることも近年では多い。俺の母親が蒼炎寺家の出身であることにはそういう背景もあるんだ」
「で? それが、二人で街をデートすることとどう関係するんですか?」
ずっと話を聞いているだけだった
彼の言う通り、蒼炎寺拳法の仕組みとこのカップルが二人で街を出歩く際の危険性の二つは全く結びつかないように思われた。
だが、
「その、蒼炎寺拳法の本流にも認められる紅庵寺流の技術の中に、『目を使わなくても周囲の物の位置や人の動きを感知できる奥義』というものがあるのよ」
「え?」
康介の質問に答えたのは、蒼炎寺の生まれではない
「ま、まさか……、それを椿さんに伝授したんですか?」
「ああ。二人で生きていくためにはあった方がいい力だと思ってね」
紅庵寺家の長男である陸翔は悪びれることなく、むしろ力強く頷いて肯定した。
己の判断に後悔も間違いもないと確信した、堂々たる表情で。
「……」
あまりの衝撃に、静夜は開いた口が塞がらなくなっていた。
「……せ、静夜君、それってやっぱりあかんことなんやろか?」
「そ、そりゃあそうでしょ、栞ちゃん。だってこれってつまり、最重要企業秘密の流出と同じだろ? いくら相手が婚約者でも、ライバル関係にある一族の人にそんな『奥義』なんてつくほどの技を教えちゃダメだって!」
固まってしまった静夜を挟んで小声で言い合う
彼らの言うことはまさしくその通りで、陸翔の行為は最悪の場合、破門の処分すらあり得る重大な掟破りに他ならなかった。
「彼は何も悪くないわ。私が教えて欲しいと無理に頼んだのよ」
椿は強い表情で彼氏を庇う。
「蒼炎寺拳法はその性質上、普通の武術よりも高度で精密な立体的空間認識能力が求められるの。人間が本来持っている五感だけではなく念の力を第六感として機能させ、自身の知覚を飛躍的に向上させる技術があることは以前から噂されていたから……。そうでなくても、私の母のように視覚以外の感覚を研ぎ澄ませば、普通の人と変わらない生活が出来ると私は信じているわ。……でも、歩けない彼を支えて生きていくためには、紅庵寺流の蒼炎寺拳法を体得する必要があると思ったのよ」
「紅庵寺流のってことは、もしかして他の技も?」
「えぇ。まだまだ修行の最中だけどね」
「……」
再びの絶句。清々しく微笑む椿に後悔の色はなく、隣に座る陸翔は複雑な面持ちを即座に振り払って彼女と同じように表情を引き締めた。
これが、二人の覚悟だというのか。
万が一、家の者にこのことが知られれば処分は免れない。結婚するまでもなく、二人は生まれ育った家と故郷を追い出されることになるだろう。
それを厭わない決意と決断。
二人だけで生きていくと口にした、その実践。
椿と陸翔は、自分と相手以外の全てをかなぐり捨てて、一緒に新たな人生へと踏み出そうとしている。
それは、真っ直ぐに太陽へ向かって伸びていく向日葵のように輝いていて。
それは、
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