第5章 走り去る梅雨

序 二人の日課

「――我が名に集え、我が身を満たせ、我が魂を彩り染めよ! されば汝らの儚き願いは、我が命に宿りて報いるべし。我ら散り際の刹那に咲き誇らん! ――開門!」


 桜の花が深緑の眩しい葉桜に染まり変わった頃。

 人除けを済ませた妙心寺みょうしんじの境内では、今夜も月明かりの下、一人の少女が返り咲きの桜を花開かせていた。


 妖の憑依が完了したのを見届けて、向かい合う青年はおもむろに.357マグナムの拳銃を両手で構える。

 眉間を狙って放たれた一発の銃声が、開始の合図だ。


 少女は桜色の長い髪を振り乱しつつ銃弾を的確に回避し、自らの愛用する38口径のオートマチックを左手に握る。暗闇の中から反撃のマズルフラッシュが立て続けに光った。

 青年は左へ走って仏堂の石階段の脇へと滑り込み、身を隠す。


 これを目視した少女は人間ならざる跳躍力で砂利の地面を蹴って即座に距離を詰め、射線を確保してからもう一度銃撃を加えようと自動式拳銃を構えた。


 しかし、そこへ隠れたはずの青年の姿はどこにも見当たらない。


 ――バン!


 心臓をも震わせる重低音の銃声は、少女の背後から聞こえて来た。

 青年は隠形の結界に潜んで飛び出し、先んじて少女の後ろへ回り込んでいたのだ。

 少女はすぐさま振り向き、右手で呪符をかざす。


「――〈堅塞虚塁けんさいこるい〉、急々如律令!」


 札を起点として展開を始めた防御の結界が被弾の寸前で間に合った。


「――囲い込め、〈桜火おうか〉!」


 さらに少女は、完成し切らない結界を盾にしたまま桜色の火球を四つほど生成して撃ち放つ。

 青年が後退しても、桜火はそれを追尾して逃さない。〈禹歩うほ〉を使って空中を縦横無尽に駆け回っても振り切ることは叶わなかった。

〈禹歩〉の回数が尽きて青年が着地を余儀なくされる隙を狙い、少女は唱える。


「――爆ぜろ」


 右手の拳を握ると同時に、四方を取り囲んだ火球は中央の青年を巻き込んで爆散した。

 確かな手応えを感じながら、少女はなおも油断しない。


 事実、予想に反する異常はやはり起こった。


 爆裂した〈桜火〉の炎上に、不自然な白い煙が混ざっている。

 そして微かに聞こえる、――ジュワァア、と水分が高熱によって瞬間蒸発する特有の音。


 再び背後に影が躍った。


 抜き身の刃が夜色の霞を纏って、月明かりを飲み込む。


「――月宮流陰陽剣術つきみやりゅうおんみょうけんじゅつ、八の型〈破月はづき〉」


 横一文字に小太刀を薙ぐ。

 必勝を確信した青年の不意打ちは、少女の背中をたなびく髪ごと斬り裂いて右から左へと抜けていく。刃に込められた呪詛によって憑霊術ひょうれいじゅつは解呪され、妖の加護を失くした少女は敗北する。そんな作戦だった。


 青年は瞠目する。斬撃が少女の身体をすり抜けたのだ。虚空を切った愛刀〈夜鳴丸よなきまる〉を握る左腕は、勢い余って自身の身体をねじらせた。


 桜色の少女はまるで蜃気楼の幻となり、見えている身体には実体がない。

 切り離された胴体の断面は、桜色の炎となって揺らめいていた。


 少女はそのまま振り返り、愕然とする青年の眉間に直接銃口を突き付ける。

 どうやら、身体を透過させたままでも、撃てるらしい。


 刀を振り切った直後の間隙。斬り返す二の太刀は間に合わない。

 青年の負けが決まった。


 衝撃に押し倒された青年は仰向けに倒れて夜空を仰ぐ。

 少女が用いたあの力は、自身の存在から実体の器を取り払い、相手の攻撃をすり抜けて躱す幻術の一種だ。

 確か名前は、


「――〈花霞はながすみ〉」


 少女がそう呟くと同時に、自動式拳銃から排出された空薬莢が石畳に落ちてカランと音を立てた。



 青年、月宮つきみや静夜せいやは全身に負った火傷を呪符で癒しながら、未だ額に残る鈍痛に顔を顰める。


 模擬戦に勝利した少女、竜道院りんどういん舞桜まおは、離れたところに立てた防弾ガラスの人型の的に向かってひたすらに射撃とリロードの反復訓練を繰り返していた。


 自慢の憑霊術は既に解呪し、夜の暗闇に溶け込む艶やかな黒髪は少し湿り気を帯びた南風に流されて美しく靡く。

 用意していた弾倉を全て撃ち切る頃になってようやく、静夜の治癒が終了した。


「……はぁあ。全身に清水を浴びて火力を弱めても、このくらいが限界か……。やっぱり〈桜火〉も模擬戦では禁止にしないとダメだね」


「はぁ⁉ ふざけるな! それだと私の訓練にならないだろうが! ただでさえ言霊ことだまを禁じ手にされて試合運びに不便しているのに、これ以上のハンデが必要か?」


「憑霊術ありの模擬戦では君が全戦全勝。それに、毎晩燃やされて丸焦げにされてたら、命がいくつあっても足りないよ!」


 舞桜の〈桜花〉には、今のところこれといった対抗手段が存在しない。せいぜい結界で炎の侵食を防ぐ程度で、月宮流陰陽剣術の如何なる呪詛を用いても、あの桜色の火焔は決して消せないし、いなせない。

 少女がその手に灯す炎を真っ向から打ち破るすべは、月宮一族に伝わる伝説の霊剣〈覇妖剣はようけん〉を除くと、他には何も確認できていないのだ。


 静夜に出来たのは、清めた水を込めた手榴弾で迫り来る炎を弱体化させ、炎熱をやり過ごし、爆発を目くらましにして少女の背後に回り込むところまで。

 そんな捨て身の戦法も、少女には軽くあしらわれてしまったし、静夜の連敗記録はまだまだ続くことになりそうだった。


「……それにしても、こうして毎晩ここでお前を相手に戦闘訓練をするのは、いい加減飽きて来たな。新鮮味がなくて、何というか刺激が足りない」


「刺激、ねぇ……」


 お嬢様のわがままがまた始まった。


「静夜、これは前々から聞きたかったことだが、お前のその、敵の背後を取りたがる立ち回りは、癖なのか? やたらと多い気がするんだが?」


「え? ……ああ。確かに言われてみればそうかも」


 指摘されて初めて気が付いたような感嘆が青年の口からこぼれる。

 今までその習性を全く意識してこなかったというか、無意識のうちにやっていたということはやはり、それは静夜が対人戦闘を行う際の癖なのだろう。


 物心ついてからの静夜が組み手をする相手と言ったら、それは専ら家族だった。

 育ての父は、月宮流陰陽剣術の師匠で現役時代は『斬殺鬼ざんさつき』やら『人喰い鬼』やらと呼ばれ、恐れられていた月宮兎角とかく

 義理の妹は、義父から〈覇妖剣〉を受け継いだ半人半妖の陰陽師、月宮妖花ようか

 真っ向勝負を挑んで勝てるような相手では到底なかった。


 文字通りの怪物たちを前に、凡百の力しか持たない長男に出来たのは、あらゆる手を尽くして相手を欺き、死角からの一撃を叩き込み、一矢報いることくらい。

 その経験が、今の彼の戦い方の基礎となっていると言っても過言ではなかった。


 そして、日に日に目覚ましい成長を遂げる竜道院舞桜は、京都では禁忌とされる憑霊術の真価を発揮させ始め、今ではそんな怪物たちにも引けを取らないほどの力を振るうようになってきた。

 だからこそ静夜は、無意識のうちに少女の背後を取ろうとして、その動きを読まれてしまっている。


 先程の模擬戦でも、後ろからの攻撃はあっさり躱されてしまったし、舞桜が静夜と一緒に暮らし始めてからもうすぐ五ヶ月だ。六畳一間の狭い下宿の部屋で寝食を共にしていることもあって、二人は出会ってからの月日以上に、互いのことを理解し始めている。


 繰り返される変り映えのしない訓練に、少女が退屈を感じるのは無理もないことだった。


「《平安会》から降りてくる仕事も、雑魚の掃除や、他の陰陽師が暴れた後の片付けといった実戦に発展しないようなものばかりで、全く張り合いがない。もっとこう、私の力を存分に振り回せるような、面白そうな依頼はないのか? 支部長殿?」


「そんなこと言われても……」


 続く文句に青年はまたしても頭を抱える。


 静夜が支部長を務める《陰陽師協会》京都支部は現在、《平安会》側の窓口を務める舞桜の腹違いの兄、竜道院星明せいめいの仲介で、仕事の斡旋を受けて活動している。


 四月の初旬に起こった、東の祠からの〈青龍の横笛〉盗難事件。それに伴う妖の活性化と青龍の眷属、土竜もぐらの暴走。


 竜道院羽衣はごろも黄竜おうりゅう、青龍の介入によって収束したこの騒動をきっかけに、京都支部は《平安会》からの管理と監督を本格的に強要されるようになってしまった。


 また、理事会の都合で優秀な陰陽師を一人解任することとなった静夜たちは、もともと酷かった人手不足がさらに深刻化し、京都支部の存在を快く思わない《平安会》からの腹いせもあって、彼らに回される仕事は、それこそ舞桜が憑霊術を使わなくても済むような雑用や簡単なおつかいばかりとなっている。


「あの双子の忍者も、最近は仕事どころか、ここでの鍛錬にすら顔を見せなくなって……、あの奔放姉妹はどこで何をしているんだ?」


 止まらない不平不満の矛先が、今度はこの場にいない同僚たちにも向けられた。


「……あの双子だったら、仕事も訓練もそっちのけで思いっきり大学生活を満喫してるよ。姉の萌依めいは学内の演劇サークル、妹の萌枝もえはインカレのテニスサークルに籍を置いて、今日は二人揃って他のサークルの人たちと一緒に合コンだってさ」


 上司に対する報告なのか、先輩に対する自慢なのか、静夜と同じ大学に入学したばかりの双子の姉妹からは、大学生活楽しんでますよアピールが定期的に送られてくる。SNSへの投稿も頻繁に行っているようで、まさにイマドキの女子大生と言った具合だ。

 その情報を聞いた舞桜は「あの二人らしいな」と、呆れたため息をこぼす。


「まあ、あの二人なら、必要な時にはちゃんと動いてくれると思うし、それに今は僕たち京都支部も含め、みんな四月からの新生活がようやく落ち着いて来たばかりの時期なんだ。少しは肩の力を抜いて、ゆったりと構えてもいいんじゃないかな?」


 静夜はなるべく優しい口調で、やきもきと駄々をこねる少女を宥めてみる。


「相変わらず、お前は呑気だな」


「そう言う君は、相変わらず厳しいね」


 静夜に対してはもちろん、何より自分自身に対して。


 朱色の瞳が放つ鋭い眼光は、常に己の現在と、自分が掴みたいと願う未来と、そこへたどり着くまでの険しい道行きを見つめている。


 それは決して悪いことではないけれど、たまには足を休めて、道を逸れて、どこかに腰を下ろして他の景色を眺めてみるのもいいのではないかと、彼女よりもほんの少しだけ人生を長く生きている青年はそう思うのだ。


 治癒の済んだ身体を大きく伸ばして、晩春の夜空を仰ぎ見る。

 そこには半分に欠けた月と、数多の星が煌めいて、それぞれが精一杯に輝きを放っていた。

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