終話 忠告
去りゆく者から
「いらっしゃいませー」
京都でも有数の観光名所、
今日は土曜日。春の桜が散って、新緑の葉桜に移り変わる四月の下旬に差し掛かっても、週末の観光地を訪れる人の数は目に見えて減ったりはしない。
これでも春先の頃よりはだいぶ落ち着いてきたなぁと思いつつ、栞は定番の和菓子を店先に並べながら、ちょっと気の抜けた声で客引きをしていた。
家族で切り盛りしている小さな商店。客はおらず、今は両親も祖父母も外出中で、高校三年生になったばかりの弟は朝早くから部活に出掛けてしまった。よって店内には、店番を任された長女の栞が一人だけだ。
大学に行く時よりちょっとだけ手を抜いた化粧は黒縁の眼鏡で誤魔化して、服は適当なジーンズにお店のエプロンを付けただけのずぼらな格好だ。実家の仕事を手伝うだけなのにわざわざ気合を入れて身だしなみを整える必要はどこにもない。
それでも毎日の髪の手入れだけは欠かすことなく、今日もきれいに梳かして結ったこげ茶色の髪は金色の鈴が付いた
そんな、耳に心地の良い鈴の音が店先に転がっていたおかげだろうか。通りを歩いていた一人の観光客が栞の前で足を止めてくれた。
「いらっしゃいませ!」
品出しの作業を止めてすぐに笑顔の接客を始める。
生粋の京都生まれ、京都育ちである栞だが、「おいでやす」という京都っぽさを前面に押し出した挨拶にはどうしても馴染めず、全国どこでも使える定番の台詞の方が彼女は好きだった。
「ってあれ? ……もしかして、水野さん?」
と、そこで、仕事モードに入ったつもりの栞は見覚えのある顔を前にして目を丸くする。
二回ほどしか顔を合わせたことはなくても、その名前と存在は、最近何度も大学の友人や後輩が口にしていたせいですっかり覚えてしまった。
「あ、えっと、いきなりすみません……。ウチのこと、憶えてはりますか? ちょっと前に、
「ああ、憶えている」
以前会った時とは化粧や服装が違うし、そもそも栞は陰陽師ではなくただの一般人だ。彼の記憶には残っていないかもしれないと不安になって取り繕うとしたが、どうやら杞憂だったようだ。それどころか、思いのほか力強く頷かれてしまったことが逆に気になった。
「も、もしかして、ウチに何か御用、とか……?」
ちょっと怖くなって身構える。きちんと話をするのはこれが初めてだ。そして、おそらくこれが最後になる。
「……京都支部を辞めることになったって、静夜君から聞きましたけど……」
突然振られた世間話に、勝兵は自嘲の笑みをこぼした。
「ふ、……支部長の奴、俺のことを恋人にまで愚痴ってたのか……」
「こ、恋人って! ウチと静夜君は、そういう関係やなくて……!」
「でも、俺のことについては何か話してたんだろう?」
「え? ……えーっと、それは、……また、何も出来ひんかったって、本人は悔しがってました……」
先日、静夜から直接の近況報告を受けて、栞も大体の事情は把握していた。
青龍を祀っていた東の祠の破壊と〈青龍の横笛〉の強奪。それに伴う土地の調和の乱れと妖の活性化。激怒した青龍の眷属の暴走。そして、長い一夜の戦いの話と、その
命を張って懸命に戦った勇姿と功績も虚しく、水野勝兵は結局、京都支部から外されることになってしまった。
京都支部の支部長である静夜は、《平安会》にも《陰陽師協会》にも勝兵の京都残留を強く訴えたのだが、誰も取り合ってはくれなかった、と。彼は自身の力不足を嘆きながら栞に話して聞かせてくれた。
「ふん、悔しがっていた、か。ホントに馬鹿真面目な奴だな……。俺を京都支部に無理矢理ねじ込んだ理事が
勝兵の後ろ盾となっていた
そもそも、藤原泰弘の本職は代議士だ。《陰陽師協会》に頼らずとも、世の中の大抵のことは自分の思い通りに出来るだろうし、収入だってある。使えるものなら使ってやろうという程度にしか考えていなかった陰陽師の力に、未練などないのだろう。
《陰陽師協会》の理事には、裏の社会での顔とは別に、れっきとした表の顔、世間にもその名前が知れ渡るような立派な社会的地位というものが求められる。というよりも、そのような権威を築き、権力を掌握できるような人物でなければ、《陰陽師協会》の理事にはなれないのだ。
《陰陽師協会》とは、存在そのものが、京都の《平安陰陽学会》とはまるで違っている。
妖怪退治を生業とする人々を保護し、社会的に統率するなどというのは、ただお題目だ。
彼らは、人々を妖の脅威から守るためではなく、陰陽師という表には出せない力を操って、裏から日本社会を統制するために動いている。
結局、彼ら陰陽師という存在は、今も昔もいつの時代も、時の権力者の小間使いでしかない。
「……別に、特に用があって来た訳じゃない。ただ、今日の夜には京都を出て行くことになっているから、それまでに有名なところをちょっとでも見ておこうと思っただけだ。《陰陽師協会》に籍を置いている以上、今度はいつ来れるか分からないし、もしかしたら、もう二度と来れないかもしれないからな」
藤原泰弘理事がいなくなっても、彼の仕事は変わらない。執行部からの命令で、勝兵は週明けからまた別の支部へ異動することが既に決まっている。
「……どう、でしたか? 静夜君の京都支部は……」
栞の口からは、思わずそんな質問がこぼれた。
彼女の友人である月宮静夜は、自分に任された小さな部隊とそこに配属された年上の部下の事でずっと悩んでいた。それを近くで見ていた栞は、課された責任と思い描く理想との間で神経をすり減らしていく彼の様子を心配しながら何も言えずにいた。
ちょっと霊感があるだけで、三葉栞は陰陽師ではない。ただの学生で、両親だって健在で、自分が明日を生きていくことに少しも不安や重圧を感じないお気楽な身分から、口を挟めることなど何もない、と。
いいや、違う。立場を弁えたから、なんていうのは、ただの言い訳だ。
本当は何を言うべきなのか、何をどのように伝えればいいのか、分からなかっただけ。
陰陽師の世界の、その一端を支配する大きな組織の中に本格的に足を踏み入れてしまった彼に向かって、自分が言えることは何もないように思えてしまったから。
同じ世界を見ているはずなのに、見えている景色が全く違うように思えてしまったから。
彼は大学の同期だけれど、実は一つ年下で、男の子で、生まれ育った環境も、見て来たものもやっぱり違うから。
隣にいるのに遠く感じて、陰陽師の事情も、最近起こった事件のことも、ちゃんと教えてくれるようになったのに、どうしても疎外感が拭えない。
でも、開き直って、割り切るなんてこともやっぱり出来なくて、栞は不安になっていた。
「どうでしたか、って訊かれてもな……」
俯いて影が差す彼女の表情を見て、問われた勝兵の方は答えに窮する。
彼が京都支部にいたのはたったの三週間だ。今までいくつもの支部や支局を渡り歩いてきた勝兵でも、これは不名誉な最短記録である。しかも、支部長である静夜と共に戦ったのはたったの一夜だ。支部そのものについてでも、同僚の人柄についてでも、評価を下すにしてはあまりにも付き合いが浅い。
それでも、何かと印象深かったこの三週間の終わりに、勝兵は頭に浮かんだ率直な感想をそのまま述べてまとめることにした。
「……俺としては京都なんて別に来たくもなかったし、あんなクソ真面目な支部長の下でこき使われるのも御免だったから、正直に言えば清々している。……だけどまあ、今まで辞めて来た数ある部署の中では、まだマシなところだったかもな……」
そう。京都支部は、まだマシな方だった。
結局、口を突いて出て来た感想は、落胆と諦観に満ちた慰めの譲歩。
ただ単純に、他より悪いわけではなかったと言うだけに留めるつもりの言葉選びだった。
しかし、その答えはもしかしたら、最高なんていくら求めても満ち足りないこの世の中では、割と好感触の感想として受け取られてしまうのかもしれない。
実際、それを聞いた栞の表情は少し明るくなってほっと胸を撫で下ろしているようだった。
「ほ、ほんまですか? ……それやったら、ウチもちょっと嬉しいです……」
「……」
エプロンを押し上げている豊かな胸に手を置いて、心底安堵したように息を吐く。
勝兵はそれを見て、ずっと胸の奥底に抱いていた一つの危惧を、よりはっきりと意識した。
「……やっぱり、ちゃんと忠告しておくべきか……」
「……へ?」
勝兵が呟いた独り言を、栞は気の抜けた声で聞き返す。
「はぁ。……いいか?
急に神妙な表情を作った勝兵の迫力に圧されて、栞は目を瞬かせた。
彼女が心の準備を整えるのを待たずして、勝兵は真っ直ぐに相手の目を見て警告する。
「――
「……え?」
何のことを言われたのか分からず、栞はまた何度か目を瞬かせて呆然としていた。
勝兵はたった一度しかそれを言わず、呆気にとられたままの彼女は放置して、家族のお土産に生八つ橋を一つだけ買うと、そのまま店を後にして去って行ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます