夜桜の神器
静夜は後ろを振り返る。
目に映るのはまっさらな更地に戻った京都の街とそこで蹲る陰陽師たち。
広がる光景は絶望的で、相対する敵の力は圧倒的である。
青龍は、侮辱的な挑発をした星明を抹殺すべく、残った結界を破壊しようと夜空を浮遊したまま進んでいた。
結界班の術師は一連の猛攻に踏ん張って持ち堪えようとしているが、耐えきれずに精神の限界を迎えて脱落する者が後を絶たない。瓦解するのは時間の問題だ。
クスノキの下では、前線に飛び出そうとする星明を周りの大人たちが必死になって止めていた。おそらく静夜たちと同じような問答を繰り広げているのだろう。
「……
背を向けたまま問いかけた。
「え?」
「アレがないなら、許可は出来ない」
〈桜花刈〉。
以前、平安神宮にて、舞桜が実母である
相手が本物の神獣であるというのなら、こちらにもそれ相応の武器が無ければ話にならないと考えたのだ。
静夜が再び舞桜に向き直ると、彼女もまた顔を上げて、青年を厳しく睨み付けた。
「……それは、月宮静夜個人としての判断か? それとも、京都支部の支部長としての命令か?」
「……両方だよ」
その二つを分けて答えるのはずるい。それらはどちらも等しく自分であるから、権利や立場を言い訳に使いたくはない。
「……いいから、答えて」
押し黙る少女に、青年は優しく促すように答えを求めた。
「……〈桜花刈〉は、まだ出せない。だがッ! アレが使えなくても、今なら――」
「――分かった。じゃあ、三分だけだ」
「……は?」
「三分だけ、君に〈
「はぁ?」
「いや、先輩! それはちょっとさすがにやりすぎッス!」
舞桜の反論を押しとどめて言い放った静夜の言葉に、舞桜は耳を疑い、
「大丈夫。三分くらいなら自力で魂を引き留めていられる。最悪意識を失うかもしれないけど、たぶんその程度だ。あとは、妖花からきついお説教をもらうくらいかな」
〈護心剣〉は、妖花の持つ〈
幼少の頃に体と魂が引き剥がされてしまった静夜は、この〈護心剣〉を体内に祀ることによって自身の生命を保っており、それを身体から引き抜けば、魂が肉体を離れて二度と帰って来れなくなってしまう。
「平安神宮の時みたいに〈護心剣〉を器にすれば君は〈桜花刈〉を召喚できる。三分もあれば、結界を立て直すくらいは出来るだろう。……それがギリギリのラインだ」
「……静夜、お前……」
「僕は、君に生きていて欲しい」
朱色の瞳を堂々と見つめ返し、静夜は告白の答えを返した。
彼女に生きていて欲しいから、自身も命を懸けて必死の戦場に送り出す。
これが月宮静夜に出来る、精一杯の激励だった。
「最悪でも時間稼ぎ。でも欲を言えば、アレの首を堕として来い。そして見せつけろ。これが竜道院舞桜の〈存在の定義〉だと」
「……お前に言われなくても、私は最初から、そのつもりだ」
舞桜もまた、彼の返礼を静かに受け取り、確かに頷いた。
静夜が左手を前に出す。
自身の命を繋ぎ止める禁断の楔に手を掛けて、開封の呪文を唱えようとした。
その時、――
『――残念だけど、三分じゃ足りないと思うな、私は』
桜の花びらを連れた春風が、静夜の左手を抑えて降ろさせる。
聞き覚えのあるその声は、耳の鼓膜を震わせて心地よく響いた。
「何? 誰?」
声は萌依たちにも聞こえたようで、
急にその存在感を克明にさせた妖に、静夜と舞桜はただ驚いて茫然となった。
『怖がらないで。私は敵じゃない。二人の決意と覚悟を聞いて、私も力を貸してあげようと思ってきただけなの。今回だけ特別だよ?』
姿はどこにも見当たらない。ただ風に運ばれた声だけが嬉しそうに笑っていた。
『今の私が自由に出来るだけの力を使って、〈桜花刈〉を出してあげる。時間制限はないし、もちろん静夜ちゃんの〈護心剣〉も必要ない』
「静夜ちゃん?」
初めてちゃん付けで呼ばれたことに対し、青年は激しい抗議の声を上げる。
『ん? 可愛いでしょ? 静夜ちゃん』
「出来れば辞めて頂きたいです」
「……お前たち、まさか面識があるのか?」
戸惑いを隠しきれないのは舞桜。やはりと言うべきか、舞桜もこの声の正体とは既知の仲であるようだ。
『ご無沙汰しております、我らが姫君。あの時の誓いを今も忘れずにおられるようで、私も安心致しました。……で、姫の
緊張感のない声で舞桜の背を押す春の風。
親し気なやり取りを見て呆気に取られ、置き去りにされた勝兵たちは口を開けたまま固まってしまった。
『それに、今は本当に私たちにとって最高の季節。特に今夜は、いい風が吹いてる。だから姫君、お願いします。……我ら散り際の刹那にせめてもの報いを』
「……ああ、分かった」
最後のは何かの
『せいちゃんもそれでいい?』
「せ、せいちゃん?」
さらに緩くなった呼び方に寒気が走る。
『あれ? 静夜ちゃんが嫌なんでしょ? だからせいちゃん』
「最早
『ふふん』
満更でもないような笑い声を聞かされても困る。
自由な人だなと呆れつつ、それでも彼女からの助力は願ってもない申し出であるわけで、静夜には断る理由がどこにもなかった。
「……はあぁ。じゃあ、ぜひお願いします」
『よし! では、――』
楽しそうに頷いた声は、花が落ちる音くらいの儚さで、天に輝く月に向けて祈りを捧ぐ。
『――我らの
『――我が名において命ずる。誓いに応えて集い来たれ、〈桜花刈〉!』
春の桜が舞い散る夜に。
竜道院舞桜の御手に、満月の極光を受けて輝く、禍々しい姿の神器が舞い降りた。
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