過去の自分を映す鏡
その目には少し涙を溜めて、
ちっぽけな意地と見栄だけで保っていた険しい剣幕は崩れ、
静夜は、その顔を見て初めて己の無知と過ちに気付き、彼女の信念を
それを、引き留めようとした青年の
舞桜は今、その弱さを恥じて唇を噛み、もう一度虚勢を張って、こぼれそうになる涙を必死に堪えている。
「確かに手柄は欲しい。それに今夜の戦いは、《平安会》の連中に私の力を誇示するためには、おあつらえ向きの舞台だ。……でも私はそれ以上に、今ここで何もしない自分を許したくない!」
どうしても、この道だけは譲りたくないのだと、
「今ここで何もしなかったら、あの離れに閉じ込められていた時と何も変わらない。一族の禁を犯してでも、私はあそこから出ていくと決めた。母上を討ってでも、自分の道を貫くと決めた。あの時の自分をこんな簡単に裏切ってしまったら、これまでの私の人生に、そしてこれからの私の未来に、決して意味は生まれない!」
少女は探し続けていた。
自分がこの世に生まれた理由を。過去と未来における人生の価値を。
必死になって手を伸ばし、その答えの一端を今宵の戦いの果てに見ている。
「……何も出来ないなら、何もするな。……お前の言葉だ」
押し黙ったままの静夜に、舞桜は再びその台詞をぶつけた。
「今はあの頃の、……あの離れに閉じ込められて何もさせてもらえなかったあの時の私とは違う。それに今の、この季節なら、――私たちは本気で戦える!」
突如として彼女に収束する春の風。桜の花びらを舞い上げたそれらは少女を中心として渦を巻く。
この季節。春の桜が舞い散る季節。
得体の知れない何かが、舞桜の背後に見えた気がした。
(……私たち、か)
断固として譲らない少女を前に、静夜は返す言葉を見つけられず、ただ絶句したまま立ち尽くす。
「はあ。……もういいんじゃないか? 支部長」
「み、
答えられない静夜を見かねて、横から呆れたため息が割って入った。
「そこまで言うんだったら、この子の気が済むようにやらせてやればいい。後ろは俺と、そこのくノ一の姉妹だけで何とかしてやる」
「で、ですが、……――」
「「あたしたちも賛成ッス」」
反対しかけた
「もういいんじゃないっスか? 先輩。いくら言ったって聞く気はないって顔してるッスよ? 舞桜ちゃん」
「それに、このまま見ているだけなら死んだ方がマシだって言わんばかりのこの
何かを含んだ意味深な笑みを浮かべて、姉妹は静夜の表情を
「今の舞桜ちゃん、」「あの時の先輩にそっくり」
「ッ! ……」
二人が何のことを言っているのかはすぐに分かった。指摘されて初めて、青年は自覚する。
そう言えば、あの頃の少年も、今の少女と同じようなことを考えていた。
自らの在り方を定義し、理想的な未来を思い描き、頑なに曲げず、折れず、譲らず、現実の厳しさも、幼い自分の無知や無力も
あまりにも愚かで滑稽で、脆くあっけなく砕け散った過去の夢。
もっと賢いやり方だってあったかもしれないのに、下らない意地や見栄を張ってそれらを全て蹴り払い、突き進んだ。
傍から見ていたら、きっと誰もが嘲笑う。
なぜならその戦いには、何の大義も名誉もないのだから。
そこに命を懸けたところで栄誉はなく、結果が求められる以上、失敗してしまえば全てが無意味で、何もかもが無価値。死んだら何も報われない。
それなのに、あの時の少年はそんなことすらも承知の上で、しかし躊躇うことなく駆け出していた。
命を懸けておきながら、自分の死を覚悟しておきながら、その恐怖に足を震わせておきながら、それでもなお、動かないという選択肢だけは、頭の中のどこにも、欠片たりとも存在しなかった。
なぜなら自分は、必ずそれを成し遂げなければならないから。
固い決意は、自らに
その
死ぬのは怖い。しかしそれ以上に、果たさなければならない約束がある。自分自身に立てた誓いがある。
見せつけるのは、己の在り方。示すのは、己の覚悟と誓い。
舞桜は、震える右肩を利き手で抑えて堪え、再び静夜を見上げて口を開いた。
「やるだけやって、それで失敗して死ぬのなら、私はその結果を潔く受け入れる。……だが、何もしないでこのままここで腐っているなら、私はそもそも生きていない」
少女もまた、自らに言祝ぐ。
信念を呪いに変え、死を語る以前に生を否定した。死ぬことが出来るのは生者のみ。生者でなければ死ぬことなど叶わない。
「それとも、……お前が、私を殺すのか?」
「……え?」
後に続いた突然の問い掛けに、青年は今更自身の存在を再認識した。
青年は、少女の前に立って道を塞いでいる。
奇しくも、あの時の少年が姿を変えて、今、合わせ鏡のようにその朱色の瞳を真っ直ぐに見返すような位置取りで、月宮静夜は竜道院舞桜にとっての
糾弾するような視線を向けられて、唖然としたままの青年からは不意に浮かんできた疑問が口を突いて飛び出る。
「……僕は、君を殺せるの?」
言葉にした途端、我ながら意味のよく分からない質問だと思った。
けれど、どうしても想像できなかったのだ。
こんなにも純潔で真っ直ぐで、死の恐怖も迷いも全て跳ね除けて、意地でも我が道を貫かんとする少女が、たった一人の青年ごときに手折られるはずがない、と。
その様を静夜は想像できなかった。
片や、少女本人はそうでもないのか、静夜からの問い返しを受けるとハッとなって、きつく睨み付けていたその視線を斜め下へ逸らして逃げてしまう。
しばらく考えた後、舞桜は小さく声を抑えて呟くように答えた。
「……殺せる、かもしれない」
「そ、それって……」
それは、まるで告白のような返事だった。
何があっても決して枯れることのない彼女を、地に堕ちてもなお咲き誇るような少女を、唯一汚すことの出来る存在だと言ってもらえたようなものだから。
月明かりを浴びる彼女の頬が少しだけ、赤く染まっているように見えたのは、静夜の気のせいか、それとも風に乗って少女を包む桜の花びらの悪戯か。
光栄なことだと静夜は思った。
光栄であると同時に、それは絶対に犯してはならない、静夜だけの禁忌だ。
自らの手で、この頼りない少女の尊い決意を摘み取って、将来に懸ける儚い切望を踏みにじってしまうような理不尽だけは、決して許してはならない。月宮静夜はそう思った。
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