身から出た錆

 水野は、静夜の本音に何を思ったのか、なぜか安堵するような落ち着いた面持ちで乾いた笑みを溢した。


「ふん、やっとその気になったな……」


 それは、ずっと待っていた手紙の返事をようやく受け取った時のような、清々しく晴れやかで、それでいてどこか物悲しく、寂しい冷笑れいしょう


「……え?」


 その表情と台詞の意味を考えて静夜が首を傾げた一瞬、水野は掴まれた利き手を素早く返して静夜の腕を掴み返し、自分の方へ引き寄せ、空いた左手でスーツの襟元を捕まえ、引き込む。柔道の大外刈おおそとがりの要領ようりょうで足を払われ、静夜の景色は反転し、背中と後頭部に強い衝撃を受け、痛みにあえぎながら目を開けると、頭上には鈍くどんよりとした雨雲と、降り続く雨を弾いて光る、透明で不可視の結界が見えた。


 水野は、投げ飛ばした静夜の左腕を無造作に放って息をつく。すっかり力の抜けてしまった静夜の腕は、ぬかるんだ土の地面に落ちて泥水を跳ねさせた。


「……『鉄壁の巫女』の話を聞いていたなら分かるだろう? 俺は自分より弱い奴にはもう二度と絶対に従わない。立場や権力を振りかざして下の人間に一方的に言うことを聞かせようとする無能に使われて、自分の能力を腐らせて、従順にやっていたはずが何か問題が起こればその責任を全て押し付けられる。……そんな目に遭うのはもう御免ごめんだ」


 結界の外の雨音にき消されそうなか細い声は、苦しそうに表情を歪ませ、悔しそうに拳を握りしめた彼の口から、吐き捨てられるようにして聞こえてきた。


 静夜が倒れたまま茫然ぼうぜんとしていると、水野は乱れたスーツを直して、ネクタイをほどき、シャツのボタンを開けて、もう一度《平安会》の陰陽師たちに向き直る。


「お前は大人しく、そこで寝てろ」


 呪符を手に取る彼の背を見上げながら、もうこの衝突は避けられないと悟った。

 静夜が止めても無理だったのだ。京都支部の面々では彼を抑えられない。《平安会》の人間には、そもそもこの仇討ちをやめさせる理由が特にない。


 少なくとも、水野本人と絹江きぬえ女史じょしが納得するまでは、好きにさせるしかないのだろう。

 水野に何一つ言い返すことのできなかった静夜は、己の無力に呆れて、夜の雨模様を漠然ばくぜんと見上げた。――その時だった。


 ――ぺちゃ……。


 何かが、ぬかるんだ土に落ちた音がした。

 泥水の上を転がったソレは、それを落とした水野の足のつま先に当たって止まる。

 陰陽師たちを包み込む、この張り詰めた結界の中に唐突に、何の脈略も前触れもなく現れたその物体は、異様な存在感を放っていて、さながら、凪いだ湖面に投じられた一石が静かな波紋を広げるように、衝撃と驚嘆と混迷をもたらした。


 それが何であるか認識した静夜は、目を見開いたまま硬直する。


 なぜ、ソレがこんなところに、しかも、水野のふところからこぼれ落ちて出てきたのか。


 皆目見当もつかないその現象に、静夜の思考は吹き飛んでしまった。


 水野勝兵の懐から落ちてきて、衆目しゅうもくに晒されたそれは、――横笛。


 清流の如く美しい青色にられた横笛は、泥水にまみれてもなお鮮やかで、繊細かつ謙虚な装飾は見ただけで神秘的な音色が幻聴となって聞こえてきそうな不思議な逸品。


「……なんだ、これ……」


「――触っちゃダメだ!」


 足元に落ちたそれを拾い上げようとして手を伸ばす水野を、静夜は直感的に今までにないほどの鋭い声で止めた。


 ここであれに触れてしまったら、疑いが決定的なものに変わってしまうかもしれない。それに、もしもあの横笛が本当に、静夜が想像した通りの物であるならば、下手に触らないほうが身のためだ。何が飛び出してくるか、分かったものではない。


「……〈青龍の横笛〉」


 誰かがポツリと、誰もが頭に浮かべたその名を口にする。

 すると、堰を切ったかのように、停止していた陰陽師たちの思考が一斉に動き出した。


「……本物なんか?」「今、アイツの服の内側から出てきよったで?」「隠し持っとったってことか?」「ってことはやっぱり、横笛を祠から盗み出して、今回の騒動を引き起こしたのは……」「アイツや」「協会は裏で糸を引いとったんやろか?」「それはまだわからへん」「せやけど、アイツが死んだんは、いろいろ含めてもアレのせいやろが!」「そうや!」「それは間違いない!」「どうなっとんねん、ほんまに……」「こっちは人が一人死んでんねやぞ⁉︎」


 疑念ぎねんは確信に。確信は憤怒ふんどに。憤怒は憎悪ぞうおに。憎悪は殺意に。

 巡って回って変化する。


「せ、先輩……」「なんか、これヤバいッス」

「……」


 仏堂の中にいた百瀬姉妹は身の危険を感じ取ったのか、《平安会》の陰陽師たちから離れて外で倒れている静夜のところまで逃げてくる。後ろからは舞桜も付いてきた。

 起き上がり、こちらを睨みつけてくる視線を注意深く警戒しながらチラリと一瞥して、まだ水野の足元に残る横笛の存在を確認する。


「……これは、いったいどういうことなのか、説明して頂けますか?」


 絹江女史の問い掛けが、今度は静夜たちにも突き刺さる。

 とぼけることは当然できる。それでこの場を切り抜けられるかは別として。


「……これは、何かの間違いです」


 イチかバチかの賭けに出る。

 見苦しい弁明を始めた静夜を、《平安会》の陰陽師たちは包囲の輪を小さくしながら傾注けいちゅうしていた。


「か、考えてもみて下さい! 確かに、この横笛は彼の懐から出てきましたが、もし本当に、彼が〈青龍の横笛〉を盗み出した犯人だとすれば、それをわざわざこんなところに持って来るでしょうか? しかも彼は先程、絹江さんに疑いをかけられた際に、真っ向から受けて立つ構えを見せていました! 懐にこんなあからさまな証拠品を忍ばせている人物が、あんな安い挑発に乗るなんて思えません!」


「……だから、それがどうしたと言うのですか? 彼はわたくしとの問答で冷静さを失い、注意を怠って隠し持っていたそれを誤って落としてしまった。そう考えることも出来ますのよ?」


「誰かにめられたんです! 横笛を盗み出した真犯人に! だからこれは、水野があずかり知る物品ではない!」


 理屈は、通っていると思う。

 水野は今も、足元に転がった横笛を見たまま固まっている。

 その茫然自失は、自分の過失に驚いているものなのか、全く身に覚えのないものを目の当たりにして理解が追いついていないのか。

 静夜はこの反応を後者のためだと信じて弁護するしかなかった。


「そ、それに、……この横笛が本当に〈青龍の横笛〉かどうかだって……、」


「それは調べればすぐに分かることですわ。それを盗み出したのが、誰なのかも……! ――〈地縄地縛じじょうじばく〉、急々如律令!」


 止める間もなく、水野をその場に縛り付ける拘束の結界が展開される。中にいる水野は驚きに目を見張るが、顔が上がらない。身体の自由が一切利かなくなっているのだ。


「抵抗はあまりお勧めしませんわ。疑いを強めるだけですので……。それに、あなたの九字ごときでわたくしの結界が破れるとでも……?」


 九字を切ろうとした静夜の気配を察して絹江女史は警告する。

 本当に盲目なのかと疑いたくなるほどに、彼女の感覚は鋭かった。


「静夜、ここは引こう。相手は本気だ。その気になったら、お前まで捕まるぞ?」


 舞桜が静夜の袖口を引いて進言する。

 水野を奪還しようとしても、この戦力差では静夜たちも無事では済まない。

 もう一度、結界で捕縛ほばくされた水野とその足元の横笛を交互に見つめて、静夜は練り上げようとしていた法力を雑念に変えて霧散させた。


 結界の中では水野が、苛立ちに満ちた舌打ちを鳴らす。彼の胸の内に渦巻く想いは、結界よって阻まれて、誰にも届きはしなかった。

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