騒々しい放課後

 高校の授業が終わる時間になっても、雨はまだ降り続いていた。


 今日は、新学期が始まってから初めての金曜日。

 高校一年生としての最初の一週間を無事に乗り切った竜道院りんどういん舞桜まおは、帰りのバスの座席に座れたところで、思わず安堵のため息をついていた。


 雨の日は、バスの利用者が多い。

 京都の街は、狭い範囲にいろいろな施設が立ち並んでいるため、自転車や原付などを利用する人が多く、それらが雨で使えない日は、市営バスがいつも以上に混雑するのだ。


 クラスメイトの中には、雨の日は車で送迎をしてもらっている子が何人かいて、舞桜も少し前まではそうだった。


 それ以前に、舞桜の場合は雨の日でも晴れの日でも、学校に行くときは必ず車で、校内には付き添いの人間が同行してきた。

 表向きには、あまり学校に通えていない彼女のことを心配して家の者がつけてくれた保護責任者。実態は、霊媒体質である舞桜に何かあった時の為の監視役。


 思い返してみれば、一週間ずっと、クラスメイトと同じ教室で同じ授業を受けて、昼食を共にし、同級生や教師に「また来週」と挨拶をして週末を迎えたのは、これが初めてのことではないだろうか。


 中学最後の三学期は、欠席した授業の内容を補うために他の生徒たちとは別室で補修を受けていたし、小学校の頃から考えるとこれが九年越しの、普通の一週間だったのかもしれない。


(……まあ、あんな家に生まれた私に、『普通』なんて言葉はどうしたって当てはまらないがな……)


 丸太町通まるたまちどおりを西へと走る93番系統のバスが各所のバス停で止まる度、車体は出入り口の方へ少し傾いて、降りる人は前から外へ出て傘を広げ、乗る人は後ろから雨に少しでも濡れないために駆け込むように飛び乗って来る。


 雨に濡れたかばんを気にする女子高生。優先席に座って閉じた傘と杖にもたれかかるおじいさん。ガイドマップを片手に自分が降りるべきバス停を待ち構えている外国人。揃いの帽子と制服を着た小さな小学生。疲れ切った顔のサラリーマン。イヤホンをしたまま目を閉じて俯く大学生。

 バスの車窓から外を眺めると、優しい雨に打たれて涙する満開の桜が、地面の黒いアスファルトを鮮やかな桜色に染めていた。


 ❀❀❀


 合鍵を使ってドアを開け、部屋へと帰る。

 同居人の青年は年頃の少女に気を遣ってか、ある事件以降、部屋に入る前のノックを欠かさなくなったのだが、逆に舞桜にはその意識がなく、基本的に玄関のドアはノックせずに開けている。


 もちろん、見たくないものがそこにあった場合は容赦なく犯人を射殺するつもりでいるし、大抵のものであれば気にするだけの価値もない。


 だから部屋に入った瞬間、上半身に薄いYシャツを一枚着ただけの百瀬ももせ萌依めい(いや、もしかしたら妹の萌枝もえかもしれない)が目の前に立っていた時は、あまりにも予想外の光景に思わず目をまたたいて、数秒間茫然ぼうぜんと立ち尽くしてしまった。


「あ! 舞桜ちゃん、おかえり!」

「……た、ただいま」


 状況がさっぱり飲み込めないまま、普通に挨拶を返してしまう。


「……な、なんだ? その格好は?」


「ん? 見て分かんない? ……へへん、裸Yシャツ」


 見せつけるように腰に手をやり、堂々と仁王立ちする萌依めい暫定ざんてい)。


 舞桜よりもいくらか背の高い萌依でも、そでが余っているところを見るとやはりそのシャツは男ものだ。すそが長いので股下まではギリギリ隠れているが、頼りなく揺れる薄布から細く引き締まった太ももがちらちら覗いて視線が吸い寄せられる。

 シャワーを浴びた後なのか、ほんのりと石鹸の香りがするかと思えば、まだ身体が濡れているようで、シャツの生地きじが湿って内側の肌がうっすらと透けて見えてしまっている。そして見たところ、彼女は上の下着をつけていないようだった。


 今更になって舞桜はようやく、少女の風呂上がりに鉢合わせてしまった時の、青年の驚きと困惑を理解する。


 どうしてだろう、頭が痛くなって来た。


「……聞き方が悪かった。……お前はどうしてこんなところでそんな格好をしているんだ?」


「えっとねぇ~、それを最初から説明するとちょこぉっと長くなるんスけどぉ、……簡単に言うと、今夜私たちは先輩と熱い夜を過ごすことになったッス!」


「……は?」


 何故なぜかうっとりとした表情で急に頬を赤らめる萌依(暫定)。

 何を言っているのかよく分からない。舞桜は眉をしかめて、まだ髪も乾かしていない彼女のことをいぶかしんだ。


「……で、もう一人の方は?」


「ああ、萌枝もえなら、あっちで先に先輩と激しい戦いを繰り広げてるッスよ。……見てみるッスか?」


 そして何故かワクワクとした表情でこちらの顔を覗き込んでくる萌依(確定)。

 彼女が何を期待しているのかは知らないが、舞桜はそれに答えてやるつもりなどさらさらないので、


「……そうか」


 と、冷め切った返事をして靴を脱ぎ、萌依の脇を通り抜ける。


「あ、あれ?」


 戸惑う彼女には構わない。

 どうせまた、姉妹がふざけて静夜をからかい、面白半分で遊んでいるのだろうと思い、躊躇ちゅうちょなくキッチンと六畳間を隔てる引き戸を開け放つ。


 すると、舞桜の目に飛び込んできたのは、男物のスウェットの上だけを着た双子の妹、百瀬萌枝もえが、上半身裸の月宮つきみや静夜せいやによって、部屋のベッドに押し倒されているという、衝撃的な光景だった。


「……」「……」


 突然開いた引き戸に目を向けた静夜と、絶句して硬直する舞桜が、しばし無言で見つめ合う。

 土砂降りになったにわか雨の音が、部屋の中にまで響いて来た。


「……ただいま、静夜」


「……お、おかえり、舞桜」


「……さっそくで悪いが、今からしおりに電話をかけてもいいか? もちろん、ビデオ通話で」


「待って! それだけはやめて! それだけはホントに不味いから!」


 おもむろにスマホを取り出す舞桜を見て、静夜はすがりつくようにベッドから降りて這いずり、早口で釈明を始めた。


「ち、違うんだ! これは、この二人が勝手に――」


「――勝手にって、いきなりあたしたちを呼び出してこの部屋に連れ込んだのは先輩の方じゃないッスか⁉」


「嘘と真実をごっちゃ混ぜにして語るな! 授業終わりに呼び出したのは僕だけど、勝手に部屋までついて来て無理矢理あがり込んで来たのは君たちの方だろ? 所謂不法侵入だ! っていうか萌枝は早く、僕のパジャマを返せ!」


 口を挟んだ萌枝に声を荒げる静夜。

 見ると、彼女が着ているスウェットは確かに静夜が普段から寝間着として使っているものだった。


「えぇ~! 嫌ッスよ! これは今日からあたしのパジャマになったッス! ……すぅう、はぁあ、……ああ、先輩の汗の匂いがするぅ~」


ぐな!」


 静夜は全身に鳥肌を立たせつつも、萌枝がスウェットを持ち上げたことによって裾の丈が股下の際どいところまでずり上がってしまい思わず目を逸らす。

 そして、舞桜の後ろから現れた萌依の格好を見て、またしても頭を抱えた。


「で、萌依もその服は何?」


「え? 何って、お前の着替えはこれなって、先輩が渡して来たんじゃないッスか? このやけに透ける安物のYシャツ」


「言ってないし、渡してない! それにそれはそんなに安物でもない!」


 肌が透けて見えるのはどう考えても、シャワーを浴びた後の萌依の身体がまだ濡れているからだった。


「でもぉ、先輩だって、こういうの嫌いじゃないッしょ?」


「……いや、別に?」


「……今、少しだけ変な間がなかったか?」


「舞桜、それは気のせいだよ?」


「あれれぇ? でもぉ、先輩のスマホの検索履歴には、確かに『裸Yシャツ』って――」


「――そんな履歴があってたまるか!」


 どこからともなく静夜のスマホを取り出した萌枝の手から、素早くプライバシーのかたまりを奪還する。パジャマだけでなくスマホまで奪われていたとは、相変わらず手癖てくせの悪い忍びだ。


「……って、なんで、ロックが解除されてるの?」


 取り戻したスマホの画面を見て静夜の顔は青ざめる。

 セキュリティのためのパスワードが入力され、スマホは見慣れたホーム画面を表示していたのだ。


「ふふん、現代の忍びは、ハッキングだってこう、ちょちょいのちょいってわけッス!」


「このUSBに入っている一族秘伝のコンピューターウィルスがあたしたちの代わりにせっせと働いてくれるってわけッス!」


 萌依と萌枝は自慢げに鼻を鳴らしながら、ありふれた市販のUSBメモリを見せつけてくる。


 歴史ある一族の秘伝が、よりにもよって超ハイテクなコンピューターウィルスで、収められているのは長い巻物ではなくUSBメモリである。

 風情も雰囲気もあったものではない。


「よし、じゃあそろそろお仕事始めますかッ!」


「そうッスね! まだウィルスの仕込みも半分くらいしか終わってないしッ!」


「は?」


 事情を知らない舞桜だけが、突然やる気になってノートパソコンを開き始めた姉妹を見て困惑する。

 静夜をからかうのはもう飽きたのか、先程よりも活き活きとした顔で高速タイピングを始める双子の忍者。

 忍びにPCという全く似つかわしくない組み合わせに、舞桜はしばらくその異様な光景を立ったまま見つめていた。


 静夜は萌枝からパジャマを取り戻すことを諦め、ベッドの下のカラーボックスから別の服を取り出しつつ、急に真面目に仕事を始めた部下二人に服装の改善を要求した。


「……とりあえず、二人は仕事の前に、せめてパンツだけでも履いてくれないかな……」

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