第9話 春の長雨は降り止まない

降り続く雨

 雨は、翌朝を迎えてもまだ降り続いていた。


 新学期を彩る桜の花が満開を迎えてから、長らく晴天が続いていた反動だろうか、京都の街は黒と白の絵具をきれいに一対一の割合で混ぜ合わせた灰色の雲に覆われて、強くも弱くもない雨が心地良い音を立てて傘を打って跳ねている。


 大学に着いてから傘を閉じると、スニーカーが微妙に雨水を吸って靴下が湿っているような違和感を覚え、足先がむずむずした。


 帰る頃にはこの雨が止んでいることを願いながら、静夜は混雑している校舎の入り口を縫うように進んで、一限目の講義が行われる教室を目指した。


「あれ? 月宮先輩!」

「ま、牧原まきはら君!」


 半地下の一階に降りて廊下を少し進んだところで、最近知り合ったばかりの顔に出くわし、驚いて足を止める。

 垢抜けないパーカーに実用的なリュックを背負った彼は、牧原まきはら大智だいち絡新婦じょろうぐもの妖が飛び出してきた事故物件を下宿として借りている今年度の新入生だ。


 聞いた話では、絡新婦の騒ぎが収まった後も、大智の部屋は《平安会》が安全を確認中とのことで、下宿の部屋には戻れず、どこかの屋敷で保護されているらしい。最初に相談を受けた静夜としては合わせる顔がなかった。大して役に立てないどころか、事件をさらに大袈裟おおげさにして巻き込んでしまったのだから、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


「……その、ごめん……。大変なことになっちゃって……」


 大智にしてみれば、大学入学早々にとんでもないトラブルに見舞われて、希望と期待に満ち溢れた新生活のスタートとは程遠いものになっていることだろう。

 彼の心はさながら、今も雨を降らせ続けるこの空模様のようにどんよりと曇っている――と、静夜が勝手な想像を膨らませていると、大智は首を激しく横に振ってそれを否定した。


「いえ、そんな! 謝らないでください。俺、先輩には感謝してるんです。下宿で借りた事故物件に本物の幽霊がいるかもしれないなんて話をちゃんと真面目に聞いてくれて、本気で相談に乗って下さって、マジで嬉しかったです。……最初は、まともに話を聞いてくれないんじゃないかって不安だったし、部屋を見せてくれって言われたときは、知らない人を部屋に上げても大丈夫かなって怖くなったり、先輩がカラスと会話し始めて、新しく来た人が塩とかお酒とかまいてなんか唱え始めたときは、もしかしてこの人たちは本気で頭のイカれたヤバい人たちなのかな? 中二病を拗らせたオカルトマニアか何かなのかな? って鳥肌が立つほど不安になりましたけど、本当に幽霊が出てきて、それが燃えてお祓いされるところを実際に見ちゃったら、もうなにもかも全部信じるしかなかったですからね!」


「……意外とぶっちゃけるんだね、君」


 拳を握りしめて何やら興奮気味に語る大智の勢いに押されて、静夜は思わず一歩後ろに下がっていた。


 しかしこれこそが、今まで妖や陰陽師などという存在に一切触れることのなかった一般的な人たちが持つ、一般的な感覚なのだろう。

 最初は信じられなくて当然。疑われて当然。

 本物を目の当たりにすれば、それは一瞬で覆る。

 どれだけ現実離れしていても、どれだけ自分の知っている常識から逸脱いつだつした異物であっても、自分が目にした光景を、肌で感じた恐怖と臨場感りんじょうかんを、まぼろし唾棄だきして否定することは出来なくなってしまう。


 アレは、どうしようもなく本物である。現実である。


 テレビや小説に出てくる怪談話ではなく、実際に自分の目の前で起こっている真実なのだと、理性ではなく本能がそれを理解するのだ。


「だから、この前もいきなり知らないお坊さんみたいな格好の人たちがたくさん来て、『この部屋はまだ危険だから避難してください』って言われた時もあっさり信じちゃいましたよ」


 本当は良くないですけどね、と大智は笑う。きっと、《平安会》が彼を保護した時の話だろう。


「……そ、そう言えば、牧原君は今どこのお屋敷でお世話になってるの?」


京天門きょうてんもんさんのお屋敷です。すっごい広くて、家政婦さんが何人もいて、本当にこういうドラマや映画で見るようなお金持ちの豪邸があるんだなって、びっくりしました!」


「まあ、あそこは病院の経営者一族って側面もあるからね……。でも、あのお屋敷からこの大学までは結構遠くない?」


「あ、いえ、実は、送迎の車を出して頂いて、今日もここまで車で送ってもらったんですよ」


「うわ、さすがは京天門家……」


 見れば、大智の服や靴は大して濡れておらず、汚れもない。顔色も以前より血色がよく、これは相当豪華なおもてなしを受けていることが伺い知れる。


「……でも、家とか食事は豪華ですけど、家の人たちはなんだかピリピリしてるって言うか、空気が張り詰めていて、一緒にご飯食べるときなんかは、料理の味とかも分かんなくなるんですよねぇ……」


 苦笑いを押し殺して大智は恐縮そうに本音をこぼした。


 昨晩の緊急総会の件もあって、今、京都の陰陽師たちは殺気立っている。

 巻き込まれただけの大智が肩身の狭い思いをしてしまうのは、心苦しいことではあるが同時に仕方のないことでもあった。

 一度、妖と深く関わってしまった人は、やはり他の人よりも妖しげな存在に目を付けられやすくなってしまう。

 それ故に、《平安会》は牧原大智の保護に慎重になっているのだろう。


「……今はその、ちょっと危ない時期なんだ。……もともと、京都は妖が強くなりやすくて数も多い土地なんだけど、最近はそれがちょっと異常でね、……昨日もその件で話し合いがあったんだ。……もしかして、牧原君も総会の話は聞いていた?」


 京天門邸の中に居たのなら、昨晩の緊急総会の件も少しは知っているはずだと思い、話題に出してみた。

 これに対して、大智は困った顔をして首を横に振る。


「あ、いえ、……昨日は、陰陽師の集会があるからってことだけは聞いてたんですけど、内容までは全然……。興味本位でちょっと覗いてみようかなって実は思ったんですけど、なんか怖い顔したおじさんたちばかりで、家政婦さんたちも大忙しで動きまわっていたので、邪魔しちゃいけないと思って、すぐ部屋に戻っちゃいました」


「そっか。……まあ、そうだよね……」


 はからずも、《平安会》御三家の一つ、京天門家のふところに潜入している大学の後輩から何か内情を引き出せないかと思ったが、そう簡単には上手くいかないらしい。


「……もしかして、先輩もあの会議に出席してたんですか?」


「え? ああ、うん。一応、これでも関係者だから」


「へぇ、そうなんですか!」


 何故か羨望せんぼうの眼差しを向けられる。各家の代表者に混ざってあんな大きな集会に参加できる静夜のことをすごい人だと勘違いしているのだろう。訂正すると説明が長くなるのでここは何も言わないでおく。


 すると、静夜のことを誤解したままの大智は、目を輝かせたままでさらに続けた。


「――やっぱりすごいんですね、先輩って。……いやぁ、でもそうですよねぇ、あんな美人なお弟子さんまでいるくらいですもんねぇ……」


「……え?」


「……え?」


 静夜は茫然とした顔で大智を見つめる。その反応があまりにも想定外だったのか、大智も困惑した様子で静夜を見つめ返した。


「……あんな美人なお弟子さんって、……誰?」


 問いかける。先程、大智の呟きの中に登場した、全く心当たりのない人物について。


 弟子を取った覚えなど、静夜にはない。

 強いて弟子と呼べなくもない人物を挙げるとすれば、現代陰陽術を教えたり、たまに何か思うところがあればアドバイスをしたりする竜道院りんどういん舞桜まおという少女くらいだが、大智は彼女と面識がないはずである。「あんな美人な」という形容をするのはあまりにも不自然だ。


 もしかして、一緒に事故物件を訪れた三葉みつばしおりのことを弟子だと勘違いしているのだろうか。


「……それって、僕と一緒にサークルのブースに座ってた、かんざしに鈴を付けた先輩のこと?」


「え? あの人は先輩の彼女さんじゃないんですか?」


「……いや、違うけど……」


 どうやらここにも勘違いがあるようだが、今大事なのはそこじゃない。


「じゃあ誰? そのお弟子さんって……。そんな人、僕知らないけど?」


 身に迫る恐怖の予感。

 大智も話の食い違いに気付いて、表情が強張こわばっていった。


「え? ……だって、先輩がそのお弟子さんにお使いを頼んだんじゃないんですか? この間、俺の部屋に陰陽師の人たちが来るちょっと前に、師匠に頼まれたんだって言って、僕の部屋を訪ねて来ましたよ?」


 それを聞いた途端、身の毛がよだつほどの強烈な悪寒が静夜の背筋を駆け上がった。


「……何それ? いったい何のこと?」


 全く、身に覚えのない話だ。

 静夜に弟子はいないし、ましてや、大智の元へ遣いを頼んだなんて、一切記憶にない。


「……でも、その人言ってましたよ? 先輩からの伝言で、もしかしたらこの後、《平安陰陽学会》を名乗る怪しい人たちがこの部屋を調査しに来るかもしれないけど、その人たちは本当にすごいプロの陰陽師だから、なるべく協力してあげてねって……。それで俺が、はい分かりましたって言ったら、そのまま帰っていって、そしたら、本当に怪しい感じの陰陽師の人たちが三人くらい来て、本当に部屋の中をいろいろと調べ始めて、……それで調査の結果、この部屋にはまだ妖怪がいるからって、俺は促されるままその人たちについて行って家を空けることにしたんです。……きっと先輩がこうなることを予想して、気を回して下さったんだなって、ずっとそう思ってましたけど……、違うんですか?」


「違う。全然違う。そんな伝言、誰にも頼んでない」


 静夜はしきりにかぶりを振って自身の潔白を主張した。

 気味の悪い話になって来たことを、大智もようやく実感する。


「……牧原君、それって、どんな人だった? 特徴とか覚えてる?」


「いえ、……あの、美人だったってことだけは覚えてるんですけど、何故かはっきりと顔は覚えてなくて、……確か、俺と同じくらいの身長でちょっと年上の女性だったような気がしますけど、すみません、なんか記憶がぼんやりとしてます」


 間違いない。その人物は大智に暗示を掛けて自分の顔や特徴が彼の記憶に残らないように細工している。

 では目的は何か。身分を隠したがるような人物が、わざわざ大智の部屋を直接訪問して、月宮静夜の弟子を名乗り、虚言を述べるに至った理由とは何なのか。


 静夜は陰陽師としての視点から、その謎の人物の行動の意図と意味を推理する。


「……たぶんだけど、僕の名前を出したのは、君の警戒心を解くため。エントランスを開けて貰って、君の部屋に、……事故物件の中に入るため……?」


「で、でも! その人とは玄関先でちょこっと喋っただけで、敷居をまたぐこともありませんでしたよ?」


「じゃあたぶん、玄関のドアを開けさせるだけでよかったんだ。そして《平安会》の人たちに従ってと言ったのは、君を部屋から追い出すため……、いや、どっちにしろ牧原君は《平安会》に保護されることになるだろうから、それをスムーズにやってもらおうとしたのかな……?」


「……せ、先輩?」


 途中から静夜は、大智を置き去りにするほど仮説の構築に忘我ぼうがしていた。

 そうして見えた一本の筋道に、戦慄せんりつする。


(でも、証拠がない……。それに、僕にどうしろって言うのさ、こんなの!)


 学生たちが多く行き交う廊下の端で、静夜は人目も憚らず頭を抱え、


「ああッ、もうッ!」


 彼にしては珍しく、募る苛立ちを周囲にも聞こえるような叫び声にして吐き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る