雨の中の桜

『……あれが、水野みずの勝兵しょうへいさんですか……』


 水野の姿が消えたところで、通話の切れていなかったスマホから、妖花の声が聞こえる。

 実際に彼の態度を目にして、さすがの妖花も呆気に取られているようだ。


「見ての通りでね、正直に言うと僕もちょっと困ってる」


 彼のことを悪く言いたくはないが、敵対心を隠そうともしない相手と向き合って話をするのは、どうしても疲れる。彼が一人で先に帰ってくれて、心はちょっとほっとしていた。


「……気難しいっていうか、まだ心を開いていないだけで、根はそこまで悪い人じゃないと思うんだけど……」


 静夜は希望と期待を込めて心証しんしょう吐露とろする。


 一方で、初対面の時から彼のことを嫌っている百瀬姉妹は、


「先輩、それはさすがにお人好し過ぎッ」


 と言って肩をすくめた。


「たまにいるんスよねぇ。自分勝手に動いて目立とうとする自己顕示欲じこけんじよくの強い人。あれはそういうタイプッスよ、絶対」


「それで将来は執行部しっこうぶか、あわよくば理事会の椅子でも狙ってるんスよ。絶対無理なのに、可哀想な奴ッスね」


「……そんなふうには見えないけど……」


 姉妹の見立てに静夜は首を傾げた。

 出世とか、昇進とか、成績とか、彼はそんな積極的な上昇志向に突き動かされて仕事をしているようには思えなかった。


 水野が「仕事」と言って陰陽師としての活動に精を出しているのは、もっとネガティブで暗鬱あんうつとした、どうしようもない理由のように思える。


「……どちらにせよ、アレをあのままにしておくのは問題だろう? また何か起こってからでは遅いぞ?」


『はい。私もそう思います。それに、一つきな臭い情報もありますので……』


「……それって前に言ってた、彼が先輩に怪我を負わせて退職させたかもしれないっていう例の話?」


 妖花の口から不穏な響きが聞こえて、静夜は妙な勘繰かんぐりをする。

 妹はこれに首を振り、『いえ、これはまた違う話です』と言って補足した。


『彼が京都支部に配属される経緯について少し小耳に挟んだことがあります。もともと執行部は水野さんではない別の陰陽師を京都支部にねじ込むつもりだったようです。彼以上の実力と実績を兼ね備え、かつ野心的な性格で、京都における《陰陽師協会》の発言権を実力で拡充させる狙いがあったものと思われます』


「……でも、そうはならなかった……?」


『はい。……理事の一人が強引に水野さんを推薦して押し込んだんです』


「……その理事の一人って、誰?」


 嫌な予感がして、静夜は何人かの理事会の顔を思い浮かべる。

 妖花は息を呑んでから、思い切るようにその人物の名前を口にした。


『……藤原ふじわら泰弘やすひろ、現衆議院議員です』


「……はぁあ。〈青龍の横笛〉の次は、あの藤原ふじわら泰弘やすひろか……」


 それは、この状況で最も聞きたくなかった理事の名前だ。


「……どこかで聞いたことのある名前だな」


 舞桜が、記憶を思い返すように目線をふいに上げる。よくニュースを見ているから耳にしたことくらいはあるだろう。


「近い将来、総理大臣になるんじゃないかって話題に上がるほどの有名な若手政治家ッス」


「確か、理事の中でもかなり積極的に京都への進出を狙っている人ッスよね?」


「あの人は京都の出身で、自身の選挙区も京都なんだ。だから、地元を自分の自由にできる《陰陽師協会》の勢力下にしたがっている。それに、……あの人は、二大禁忌の研究に強い関心を示している理事でもある」


 冷や汗が滲んで、雨で湿った空気でより寒くなる。


 二大禁忌と言えば透文院とうもんいん。透文院と言えば《平安会》、そして京都だ。


 京都支部が設立されるこの好機に、陰陽術の深淵しんえんに興味を持つ野心家が、横からちょっかいを出して来ることは十分にあり得る話だった。


『……もしも水野さんが、あの藤原泰弘の息のかかった陰陽師だとすれば、透文院の影を追って何か動きを見せるかもしれません。その〈青龍の横笛〉と透文院一族に繋がりがあるのだとすれば、尚更なおさら……。ですので、皆さんも注意してください』


 怪しさを増していく今回の騒動に、妖花は募る危機感を声色に乗せて、現場の部下たちに激励を送る。

 静夜は謹んで、信頼を寄せる上司からの忠告を受け取った。


  ❀ ❀ ❀


「……はい。やはり、〈青龍の横笛〉は実在するようです。おそらく、他の三つも。……はい。はい……。うけたまわりました。他に何か分かれば、またご連絡差し上げます。では、失礼します」


 春の雨が降り続く夜。

 午後八時を回っても、鴨川かもがわに掛かる四条大橋しじょうおおはしは多くの人が行き交っていた。

 皆が傘を差して窮屈きゅうくつに感じる歩道で、くたびれたスーツを着た仕事帰りのサラリーマンとすれ違う。前を歩く外国人観光客の大きなキャリーケースを忌々しそうにねめつけながら、鬱屈うっくつとした表情で、とても歩きにくそうにしていた。


 水野勝兵は橋を西へ渡って地下鉄の駅を目指す。木屋町通きやまちどおりに植えられた桜は見事な満開を迎え、人々の目を楽しませているが、地下鉄の駅から出て来た人たちはそれに目もくれず、すぐに傘を差して頭上への視線を遮り、ただ前を見て家路を急ぐ。


 次々と無視されていく桜の花たちを哀れに思っていると、木屋町通の飲み屋街から、しわのついていない綺麗なスーツに身を包んだ若者の集団が楽しそうに騒ぎながら駅の方へと歩いて来た。


 おそらく、この春から新社会人として働き始めた、どこかの会社の新入社員なのだろう。まだ木曜日だというのに、会社終わりに飲み歩けるだけの元気が残っているとは、将来有望な新人だ。


 願わくは数年後、こうしてただいつもと変わらない帰り道を流されるままに急ぎ足で歩く、俯いた大人たちの一人になっていないことを祈るばかりだ。


「……」


 つまり、そんなことを願ってしまうということは、自分はもう既に、こちら側であるということ。

 不意に、つい先程まで互いに睨み合っていた同僚たちの顔を思い出す。


「……なんで俺、こんな仕事に就いたんだっけ?」


 思わず、そんな言葉がこぼれ落ちた。

 水野勝兵はしばらくの間、足を止めて立ち尽くし、静かな雨に黙って打たれる満開の桜を見上げていた。

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