悪霊退散

 妖の気配は、この部屋に入った今でも上手く掴み切れないほどに薄い。栞の強い霊感を持ってしても、妖が隠れている具体的な場所は判然としないでいた。


 また、その妖が昔この部屋で殺された女性と全くの無関係であるとすれば、その女性がどこで亡くなっていたのかや、どのような生活を送っていたかなどの情報はあっても意味がないし、大智もそこまでのことは知らないだろう。


 時刻は夕暮れ。昼と夜の境目にあって、その境界線が曖昧となる、逢魔おうまが時。


 妖たちが活発に動き始めるこの時間を待っても、部屋に潜む妖は息を殺したまま、姿を見せようとはしなかった。


 このまま睨み合いを続けてもらちが開かない。

 静夜が腕を組んで手をこまねいていると、



『……何をもたもたやっているんだ』



 突然、ソレが気配を強め、己の存在を主張してきた。

 静夜のことを揶揄するようなその声は、他の二人にも聞こえていて、三人は一斉にリビングダイニングから繋がるベランダの方へと目を向けた。


「……カ、からす?」


 だか、その烏は明かに普通のカラスとは違っていた。

 じっと静夜たちの方を見つめ、ただの鳥とは思えない威圧感を放っている。


「式神……」


 おそらく、ずっと静夜たちのことを見ていたのだろう。部屋の外から気配を殺して。

 背後から式神に声を掛けられるこの状況に、静夜は既視感を覚えた。


『俺がやる。その部屋に上げろ』


「か、烏が喋った!」


 式神を初めて見るであろう大智は驚きのあまり腰を抜かしている。

 その一方的な物言いと、覚えたばかりのその声から、静夜は式神の主が誰なのかをすぐに察した。


「……水野さん、ですね」


『……』


 静夜の問い掛けに、烏の式神は何も答えず、姿を黒い煙に変えて消え去った。


 そして、


 ――ピーンポーン


 と、インターホンが押され、備え付けのモニターには、カメラを真っ直ぐに睨み付ける水野勝兵の姿が映し出された。



 大智に了解を得て、水野を現場に上げると、彼は遠慮のない態度で室内を物色し、呆れたような、あるいは何かに落胆するようなため息をついた。


「……これのどこに、そんなに手間取ることがあるんだ?」


 嫌味ったらしく静夜を蔑んで肩をすくめる。

 そして、今度は家主の大智の方を向き、クライアントを安心させるような穏やかな笑みを見せた。


「突然お邪魔して申し訳ないですが、ここは自分に任せて頂けないでしょうか? 自分なら迅速かつ確実に対処できます」


「ほ、ホントですか⁉」


 頼りがいのある助っ人の登場に、大智は一瞬で心を奪われる。

 無理もない。静夜より年上でしかも学生ではなく社会人。陰陽師という胡散臭い職業にも関わらず、その貫禄はまさにプロだ。


 日々の怪奇現象によるストレスで頭がどうにかなりそうだった学生ならなびいてしまっても無理はない。

 それを重々承知の上で、静夜は大変心苦しいと思いつつも、その頼れるプロに向かって待ったをかけた。


「待ってください、水野さん。牧原君のためにも早く解決してあげたいというお気持ちは分かりますが、対象となる妖の正体はまったくもって不明です。もしも《平安会》がこの妖を以前から追っていた場合、我々が獲物を横取りすることになってしまいます。それに、《平安会》がこの事故物件について何らかの調査や処置を行った可能性もあります。まずは《平安会》に一度問い合わせてみて、確認と我々の行動における許可を取るべきです」


「……必要ないだろう? そんなの。それに《平安会》が噂通りの組織なら、素直に許可を出すとは思えない」


「ですが、事前に断りを入れておくことは大事だと思います」


「俺はそうは思わない」


 上司である静夜の言葉に、水野は全く聞く耳を持たない。


 確かに、逐一何かをする度に、《平安会》に連絡を入れる必要はないかもしれない。そこまでするのは大袈裟だと、静夜も内心ではそう思っている。

 それでも、今だけは慎重に動きたい、という願望が静夜の心理にはあった。


 京都支部はまだ、正式な活動開始を《平安会》に伝えていないのだ。準備が整ったらメンバー全員が顔を揃えて、《平安会》の元に挨拶に出向くようにと、窓口を務める竜道院星明からはそのように通達されている。


 その約束を果たす前に、京都の陰陽師たちを統括している《平安陰陽学会》に何の断りもなく、勝手に市民からの依頼を受けて妖を討伐したとなると、後で何を言われるか分からない。

 ただでさえ、京都の街における静夜たちの立場は厳しいのに、さらに自分たちの首を絞めて行動が制限されるようなことになっては、今後の活動や作戦にも支障をきたす恐れがある。


 できるだけ波風を立てたくないと考えている穏健派おんけんはの静夜は、それを部下にも分かってもらいたいのだが、強行派の水野は持ってきた黒い革製のアタッシュケースを開いて、中にあった様々な種類の法具を次々に取り出していった。


 ケースの中身を見て、静夜は驚きに目を丸くする。


 きれいに整理されて並べられたそれらの法具は、普通の呪符や清水、塩をはじめ、数珠やお香、経典、木魚など、陰陽師の間で広く使われている一般的な、意地悪な言い方をすれば、平凡で古臭い法具ばかりだったのだ。


 昨晩、特派の室長である妹から提供された情報によると、水野勝兵は五行の「すい」の術を扱うことのできる、稀有な才能の持ち主のはずだ。


 そんな特殊で特異な技能を持つ陰陽師が、そうでない陰陽師と変わらない装備を携帯していることが静夜には意外だった。


 水野は慣れた手つきで必要な道具の準備を整えると、まずは部屋の至る所に塩を盛り、その上から清水を垂らし始めた。次は部屋の中央で香を焚き、左手に数珠を持って経典を開き、木魚を叩いて経を唱え始める。


「静夜君、これって何をやっとるの?」


 栞は邪魔をしないように声を潜めて質問した。


「たぶん、部屋の中に隠れている妖を炙り出そうとしてるんだ。妖の嫌がる盛り塩を置いて、お香とお経で自分の法力を効率的に部屋全体に浸透させている……」


 読み上げる経に合わせて叩かれる木魚の心地よい音とリズムが、まるで心臓の鼓動のように部屋を震わせて、法力の奔流を伝えていく。


 一度に複数の法具を用いるこれは、最早一つの儀式に近い。

 伝統的陰陽術は、法力を法術に変換する効率が悪いとされている。しかし、幾つもの法具を一つの目的のために繋ぎ合わせて使用することで、術者の負担を最小限にとどめつつ、法術としての効果を最大限にまで高めることが出来るのだ。


 手間を惜しまないこの方法は、とても美しく、綺麗な儀式を構築していく。


「あ、出る」


 静夜が声を漏らした直後、正座する水野の目の前に不気味に揺れる白い影が現れた。

 白装束を赤い血で汚した髪の長い女性の姿をした妖。右手には血の滴る出刃包丁を握りしめ、苦しそうに肩を震わせて長い前髪の隙間から命ある人間たちを凝視している。


 いかにも、大智が事故物件の話から想像するような容姿をした妖だった。


「あ、あれが、本物の幽霊?」


 陰陽師の力によって無理矢理引き摺り出された妖の姿は大智にも見えているようだ。初めて目にする異形の存在を前に、大智は何度も瞬きをしてそれが幻覚ではないことを確かめる。


 一方、妖を見慣れている静夜たちは、警戒を強めて身構えた。

 現れた妖は自我も理性もまだ獲得できていないようで、自己の存在と領域を脅かそうとする異物に対して、本能的な敵意を露わにしている。右手の包丁を高く振り上げて、明かに人間の声ではない音で耳を塞ぎたくなるほどの絶叫を轟かせた。


「危ない!」


 女の妖が包丁の切っ先を向けて走り出した途端、大智が思わず叫び声をあげた。狙われた水野は経典の別の項を開き、唱える経を即座に変更した。


 それだけで妖の動きがピタリと制動する。

 法具に注がれる術者の念が、妖を炙り出すものから、妖を祓うものへと変質したのだ。


 唱える経を変えることで、自身の意識を瞬時に切り替え、念を制御し、法力の純度を整える。念の切り替えに応じて素早く術の効果を変更できるのは伝統的陰陽術の一つの利点だ。


(……でも、それにしたって、……)


 それにしたって、水野のそれは流れるように滑らかで淀みがなかった。


 水野は目を閉じ、経典の独唱を続ける。彼の横に重ねて置かれた呪符の束がひらりひらりと、ひとりでに宙へと浮き上がり、身動きの取れなくなった妖を取り囲んで周回する。木魚を叩くテンポに従い、それらが妖の影に張り付き覆い尽くすと、長く続いた詠唱はようやく結びの呪文を紡いだ。


「――〈百鬼浄火除霊祭符ひゃっきじょうかじょれいさいふ〉、急々如律令」


 最後まで乱れない落ち着いた抑揚で、水野の儀式が完成する。


 妖に張り付いた無数の呪符は一斉に紅蓮の火を灯し、またたく間に劫火となって炎上した。


 自由を奪われた妖が必死に絞り出していた呻き声は、やがて断末魔の悲鳴に変わる。されど浄化の炎はその叫びすらも呑み込んで燃え続けた。


 目に刺さる紅の光と燃え盛る炎の迫力に気圧されて、静夜たちはたたらを踏む。けれど炎熱はあまり感じなかった。幻影を殺す幻の炎はやはり本物とは違うのだ。


 呪符は火の粉を散らし、炎は妖を黒灰に変えて次第に鎮火する。


「……終わったの?」


 後に残された灰の山を見て、栞が呟いた。部屋からは得体の知れない威圧感が消え去り、鼻を指すような異臭は、お香の香りにかき消されてなくなっている。

 静夜も妖の気配が完全に消えたことを自身の感覚で確かめて、こくりと頷いた。


「そう、みたいだね」


 正座から立ち上がった水野は、仕上げに榊の葉を振って未だ空中に漂う妖力の残滓を祓っていく。


「……この程度のことをするだけでいいのに、それすら出来ないとは、さすがは三流だな」


 言葉に嫌味をたっぷりと込めて、水野は振り返った。


「……その右手に持ったオートマチック。……こんなところで現代陰陽術を使うつもりだったのか? 街中のマンションで派手に銃声を鳴らすだけでもご近所迷惑だというのに、弾を外して賃貸の壁に穴でも開けたらどうするつもりだったんだ?」


「……」


 指摘を受けて、静夜は右手のそれを慌てて背に隠す。

 妖が姿を見せたその時に、咄嗟に手に取った.357マグナムの自動式拳銃。


 確かに、人除けのしていないこんな場所でこの銃を撃つことは推奨できなかった。

 一方で、水野の見せたみそぎの儀式は周囲の環境にほとんど影響を与えず、人知れず速かに妖を滅している。灰や部屋の各所に置かれた盛り塩は、水野が綺麗に回収し、まさにたつ鳥跡を濁さずと言った具合だ。


 プロの陰陽師として、彼の仕事は完璧だった。


「これだから、血統組けっとうぐみは……」


 水野はその捨て台詞を最後に、家主である大智にも何も言わず、手早く道具を片付けて部屋を後にしてしまう。


 静夜はその背中を黙って見送るだけで、「お疲れ様」の一言すら、声を掛けることが出来なかった。

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