事故物件の妖
大智が借りたという事故物件の下宿は、大学から
大智の案内でエントランスを抜け、エレベーターを使って3階へ上がると、廊下を真っ直ぐ進み、一番奥の部屋の前で立ち止まる。
「ここです」
と示されたのは、角部屋の314号室。東側の突き当たりで、夕暮れ時の今は、玄関口が影になって薄暗く、少しだけ不気味な雰囲気を醸し出していた。
「……どう? 栞さん?」
静夜はまず、鋭い霊感を持つ栞に意見を求める。
すると、彼女の髪についた簪の〈厄除けの鈴〉が、何かを警告するようにチリンと鳴いた。
鈴の持ち主、栞の表情に目を向けると、彼女は訝しげに顔を顰めて、小さな鼻をわざとらしい仕草でつまんで見せる。
「なんや、すごい臭い、せえへん?」
「……いや? 僕は特に……」
共感を求められるが、残念ながら静夜には何も感じ取れない。
「臭いはこの部屋から?」
「う〜ん……。この部屋からの臭いやと思うけど、この建物全体が臭いんやと思う。上七軒に来たあたりから、ずっと変な感じがすんねん」
それはつまり、事故物件に潜むという妖の力が、この建物全体にまで広がっているということなのだろうか。
栞だけが感じ取る異臭。彼女が不安げに静夜の着ているパーカーの端を摘むということは、少なくともここに妖が巣食っていることは間違いないようだ。
「とりあえず、中に入れてもらってもいいかな?」
「は、はい。どうぞ……」
部屋の鍵を差し込んで回すと解錠を知らせる電子音がピーと鳴る。
部屋は広々とした1LDKで、学生の独り暮らしには贅沢すぎる環境だ。
引っ越してきたばかりだからか、それとも大智の性格か、室内はあまり散らかっておらず、物はきれいに整理整頓されている。それが逆に生活感というものを感じさせなかった。
「……どう、ですか? 何か分かりますか?」
部屋の中を一通り案内した後で、恐る恐る大智が静夜の顔を覗き込む。
静夜は答えず、いくつかの確認をするため、質問に質問を返した。
「自炊とかってする?」
「い、いえ……。最初はやろうと思ったんですけど、続かなくて。変な物音が聞こえ始めてからは怖くて、食事は極力外で済ませるようにしてます」
「じゃあ、あっちのシンクはあまり使ってない?」
「はい」
「いきなり水が出たりしたのは、あの水道?」
「はい。……でも、脱衣所の洗面台でもたまにあります」
「変な物音とか、女性の呻き声が聞こえてくるのは、どこから?」
「物音は、部屋のいろんなところから聞こえてきます。呻き声は……、すみません、あれは何ていうか、頭に直接響くみたいな感じで、どこからかっていうのはちょっとよく分からないです……」
「例の、数年前に殺された女性が部屋のどこで亡くなっていたのかって分かる?」
「……えっと、すみません。あまり詳しく聞いてないです」
「そっか……」
しばらく考え込む静夜。正直なことを言うと、部屋の中を見ても怪現象の原因ははっきりと分からなかったのだ。
「栞さんはどう? 何か感じる?」
「う~ん、……変な臭いはするんやけど、どこからするんかはよぉ分からへん。でも、この部屋全体から、変なプレッシャーみたいなものを感じる気はする、と思う……」
栞もあまり自信はないようだった。
「やっぱり、悪いのはこの部屋のどこかじゃなくて、この部屋自体ってことになるのかも……。たぶん、この部屋そのものが妖の縄張りになっているんじゃないかな……?」
気配は感じる。でも明確な居場所は分からない。それはつまり、自分たちの立つこの場所が既に、その領域の中であるということになるのだ。
静夜と栞の会話を聞いて、大智はますます、その顔を青く染める。
「じゃあ、その女の幽霊は自分の縄張りから俺を追い出すために、いろいろと怖がらせるようなことを仕掛けてるってことなんですか?」
「いや、それはまだちょっとよく分からない。でももしかしたらその妖は、牧原君に自分の存在を認知させて、自分の存在を確立するために、物音を立てたりしているのかもしれない」
「……自分の存在を確立するためって、どういうことですか?」
妖の存在は、
人間に、そこに何かいると思わせること、認めさせることで、妖は自分の存在を証明する。人からの承認を得た妖は、自分の存在を知覚してくれる人間からさらに恐怖や疑心などといった感情を引き出して、〈念〉の力を自分に集め、それによって妖力を強化し、〈存在の定義〉の獲得を目指す。
大智の話を聞く限り、今この314号室に住まう妖はその段階にあると推測された。
自分に注目を集めたくて人に悪戯を仕掛ける子どものような幼さや弱さを感じるのだ。
それに、このように考える理由は他にもある。
「牧原君はここでの怪現象が全部、昔この部屋で殺された女性の悪霊の仕業だって思っているみたいだけど、普通に考えて、それはまずあり得ない。だから、もともとこの部屋に住み着いていた女性の幽霊が新しい住人を追い出そうとしているって可能性は捨ててもいいと思うんだ」
「え? ここにおるのが女の人の幽霊やないって、それはいったいどういうこと?」
静夜の説明に、栞は耳を疑う。
かつて、一人の女性が命を奪われたことでこの部屋は事故物件となったのだ。その部屋で奇怪な現象が立て続けに起こっているというのに、その原因が殺された女性の怨念ではないと語るのは、いったいどういう根拠なのか。
静夜はその論拠を、陰陽師の常識に明るくない二人にも分かるように、言葉を選んで解説した。
「そもそも、今のこの社会では、特定の誰かの亡霊っていうのはほとんど生まれないようになっているんだ」
「……そもそも、生まれない?」
「うん……。確かに妖の力は人の恐怖や畏怖、
「それは、どうして?」
栞は疑問に思う。
筋の通らない話だ。
人の念が妖を生むというのに、故人が現世に残す念ではそれが不可能だというのか。誰かに殺された、理不尽に命を奪われた、その
実は、その通りなのである。
「人は死んだら、みんなお葬式をやるでしょう? あれはただの式典じゃなくて、れっきとした儀式になっているんだ。葬儀には、故人の魂をちゃんと天に送り届ける効果と力があるんだよ」
葬儀とは、亡くなった人を想い、安らかな眠りを祈る、人類文明の黎明期から存在する伝統的な儀式である。現代においても葬儀の本質は古来より何一つ変わっていない。
これによって故人の念はそのほとんどが天へと召し上げられて、現世に心を残すことなく祓い清められるのだ。
「普通の人はみんな、そうとは知らずにただなんとなくやってるだけかもしれないけれど、葬儀で読み上げられるお経とかお焼香とか、一連の儀式がちゃんとした効力を持っていて、器を失った人の魂が妖に変わらないようにしているんだ。それに、お葬式に使われる経典とかお香とか、みんなが持っている数珠、お坊さんが叩く木魚なんかは立派な〈法具〉だ。陰陽師が使う呪符や錫杖と一緒で、儀式に用いられるそれらには、それ相応の効果が備わっている。だから、たとえその故人が強い執念や怨念を持っていたとしても、ちゃんと葬儀が行われさえすれば、その〈念〉がそのまま妖に変わるようなことは基本的にはないんだよ」
〈法具〉とは、そもそも陰陽師が術のために使う道具のことではなく、仏教の儀式などで用いられる特殊な道具や装飾品の総称のことなのだ。
静夜たち陰陽師が、呪符や錫杖などを〈法具〉と呼ぶのは、ただその
ちゃんとした道具を用いて、ちゃんとした手順で行われる、ちゃんとした儀式の元では、邪念は完全に祓い清められて、人の怨念は安らかに鎮魂されるのだ。
故人の念が強く、祓い切れずに現世に残ってしまったとしても、それだけで妖に変わることはほぼ不可能と言っていいだろう。
「で、でも! 俺が聞いたのは確かに女性の呻き声でしたよ⁉︎」
静夜の解説が腑に落ちないのか、大智は声を荒げて主張する。
「それはたぶん、君が昔の殺人事件の話から、ここに潜んでいるのはその時殺された女性の幽霊だと無意識のうちに思い込んだからだよ。そういう先入観や人間の勝手な想像は、妖の姿に影響を与えやすい。心霊スポットに現れる妖が、決まって白装束に身を包んだ長い黒髪の女性だったりするのは、みんながそれを幽霊の定番の姿として認識を共有しているからなんだ。その姿をした何かに対して恐怖を覚えるから、その念が妖を構成する力の一部として取り込まれ、姿や声はそのイメージに引っ張れて変化する。たとえ人の形をとった妖であっても、それが特定の誰かの意識によって成り立っていることはほとんどないんだ」
「へ、へぇ……。そうなんや……」
栞も初めて知る事実に感嘆の声を漏らす。
今までなんとなく、みんなが想像するような人間の幽霊はあまり見ないな、と思っていた彼女も、そこにはそんな理屈があったのかと初めて知って素直に驚いた。
「だから、この部屋にいる妖は、昔この部屋で殺された女性とは何の関係もない。おそらく、この事故物件の部屋に対して向けられる、人々の恐怖とか忌諱の視線、そういう念に吸い寄せられて他所からやってきたか、あるいはそれが元となって新たに生まれた、普通の妖だと思う……」
静夜は、これから相対する妖に対して、おおよその推測を立てていく。
しかし肝心の、具体的な対処方法については、効果的な手段を思いつけずにいた。
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