第4章 東風吹かば春の騒乱
序 春眠暁を覚えず
春眠暁を覚えず。
教科書にも載っている有名な詩の一節である。この詩の解釈には諸説あるそうだが、暖かな陽光の差し込む明るい六畳間の一室で、布団にくるまった少女が幸せそうな寝息を立てていると、かの詩人はやはり、春の眠りがあまりにも心地よくて、ついつい寝過ごしてしまうが故に、この詩を詠んだのだと思えてならない。
花がゆっくりと咲くかの如く、少女の瞼が自然と開く。頭を回して枕元の目覚まし時計を見ると、時刻は午前十時を回っていた。
身体はまだ惰眠を貪っていたいのか、少女は駄々をこねるように寝返りを打つ。一方で、十分な睡眠をとった脳は次第に眠気を追い払い、意識は徐々にはっきりと目覚めていった。
「……この天井にも、随分と見慣れてしまった」
ぼそりと独り言を呟く。
少女がここで寝泊まりをするようになって、もうすぐ五ヶ月が経つ。改めて数え直してみると、思った以上に長い月日だ。
「……」
部屋の中はやけに静かだった。人の気配もしない。
どうやら、この部屋で少女と寝食を共にしている青年は、どこかへ出掛けてしまったようだ。
「そう言えば、新入生勧誘のビラ配りがあるとか言ってたな……」
新入生。ビラ配り。口に出してからようやく思い出す。
「……そうか。……今日から四月か……」
のっそりとベッドから這い出て、大きな伸びをする。ローテーブルの上には、同居人からの置手紙が残されていた。
『大学に行ってくる。
おかずは冷蔵庫にあるから。
みそ汁もちゃんと飲むように。
何か外で食料品を買った時は、経費で落とすから、
ちゃんとレシートをもらっておいて。
帰りの時間はまた連絡する。
静夜』
達筆とも拙筆とも言えない不格好な文字。内容が律儀で細かいところが、あの生真面目な青年らしい。
少女は、酷い寝癖を直すついでにシャワーを浴びることにした。いまいちはっきりとしなかった意識もこれでようやく目を醒ます。
部屋に誰もいないのをいいことに、少女は裸のままで六畳間をうろつき、背の低い冷蔵庫の中を確認した。置手紙にあった通り、朝食の焼き魚と酢の物がラップされている。保温状態になっている炊飯器と、コンロに置かれたままのみそ汁の鍋を見て、思わず「……少ないな」と不満を溢した。
きめ細かい肌が弾く水滴をタオルで拭きとり、長い黒髪はドライヤーで丁寧に乾かす。それからようやくベッドの下の衣装ケースから下着を取り出して身に着ける。
「……ん?」
と、少女が眉を顰めたのは、最近買ったばかりの白いブラジャーを背中のホックで止めようとした時だった。
少し、きつい。
同じ部屋に住む男子大学生が、毎回少女の下着を手洗いしなくても済むように、洗濯機が使える安価な肌着を手頃な衣料品店で選んだのはつい先日のことだ。採寸も試着もしないで購入したのがいけなかったのか、それともやはり、成長期ということもあるのだろうか。
ふと、部屋に置かれた姿見に目が移った。
同じ年頃の女子たちと比べると身長は低く、手足はか細く、華奢と言ってしまえば聞こえはいいが、引き締まっているというわけでもないので、どうしても頼りなく見えてしまう貧弱な体躯。強引に力を籠めればぽっきりと骨が折れてしまいそうだ。
とある事情の末に実家を飛び出してから、ほとんど毎日身体を鍛えているはずなのに、成果は一向に目に見えてこない。その一方で、余計なところはちゃっかり大きく育っていくのかと思うと、なんだかやるせない気分になった。
今くらいの大きさならばいざ知らず、同居する青年が懇意にしている女子大生が持っているようなそれと同じくらい立派に成長してしまうと、いざという時に邪魔になりそうだから困ってしまう。
どちらかと言えば、あの半妖の少女が持つそれと同じくらい慎ましやかであった方が好都合だと思うのだが、当人にそれを言ったら殺されてしまいそうなのでやめておこう。
部屋のクローゼットを開けると、物や服がかなり無理矢理に押し込められていて辟易する。
元々は独り暮らしを想定しているワンルームマンションの収納だ。家主の青年が必死になって整理整頓を試みても、二人分の衣服や私物が綺麗に収まる道理はなく、加えて、まだ出番があるかもと言って仕舞うのを躊躇っている冬用のダウンジャケットやコートなどのかさ張る上着類が、狭いクローゼットの中をさらに圧迫していた。
少女は、ハンガーにかけられた上着のカーテンを掻き分けて、奥から目当ての服を引っ張り出す。
濃い紅色のブレザーにチェックのスカート。シャツの首に付けるのは、彼女の瞳と同じ鮮やかな朱色のリボン。
着替えたのは、つい先日、奇しくも少女の誕生日である3月28日に届いた、真新しい学校の制服だった。
今日は、4月1日。
入学式にはまだ早いが、今日から彼女、竜道院舞桜は晴れて高校生となる。
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