面影の残る丸眼鏡

「……まあいいわ。アンタは後で、アンタの事を死ぬほど可愛がってくれる大富豪のところに送ってあげる。良かったわね、存分に愛してもらいなさい、……玩具としてね。アハハハ!」


 七海の高笑いが、鉄筋の棚に響いて耳が痛い。


 取り巻きの男たちは、次々と棚からダンボールを下ろして、中にあるスキーウェアやマフラーなどを検分し始めた。売れそうなもの、商品開発に使えそうなものを根こそぎ持ち去るつもりのようだ。

 山積みにされていく宝の数々に、男たちは歓声を上げ、七海は堪えきれない笑みを駄々洩れにする。


「思ったよりも大漁ね。ここにこんなにも非売品のウェアが保管されていたなんて、正直予想外だったわ……! 噂の水晶玉とやらはないみたいだけど、上玉の処女も手に入ったし、今回はこれで良しとしましょうか。……あと、これも貰うわね」


 そう言って七海が掲げて見せたのは、いつも妖花が首に巻いている今も色褪せぬ白いマフラーだ。


「このマフラー、見たところ《スノーフォックス》のかなり初期の頃の製品よね。ロゴもないから、もしかして試作段階のものだったりするのかしら? これは良い研究材料になるわ。それにコレ、暖かいのよねぇ、他のに比べて断然。興味深いわ……」


 雪のように白いマフラーが、七海の頬擦りで厚化粧のファンデーションが移り、少し汚れる。


 実の父からの贈り物だったはずだ。

 毎年、冬になると必ずあのマフラーを首に巻いて外へ出掛けた。


 娘に会社を相続させなかったことが、父の遺志だと知った後も、妖花は変わらず、あの白いマフラーを大切に使って来た。

 なぜなら、そのマフラーが唯一、妖花の手元に残った、父の形見だったから。


 心の底から信じたいと願うものを、信じきることが出来ない。

 でも、全てを諦めてしまうことも出来なかったから。

 少女はただ、すがりついた。


 せめてもの願い。捨てきれない想い。断ち切れない未練。


 自分で捨てられないのなら、いっそのこと誰かに、奪い去ってもらえばいい。

 幼い頃、父を最後に目にした時と同じ、埃っぽく暗い倉庫の中で、妖花は長年の悩みに決着をつける。


「……はい。……そのマフラーなら、あなたにお譲り――」



「――なりません、お嬢様」



 その声は力強く、妖花の返事を遮った。


「あのマフラーは、あなたの首にあって初めて、真の価値を得るのです。あなた以外の人が持っていても何の意味もありません」


「……吉田、さん……?」


 トレードマークの丸眼鏡はひび割れ、フレームも曲り、顔にはいくつものあざが出来ている。口の中まで切れて血が滲んでいるにもかかわらず、吉田のその声は固い意志と熱い想いにかたどられて、はっきりと紡がれた。


「あなたはまだ幼かったから、憶えておられないかもしれませんが、私はよく覚えています。旦那様がそのマフラーをあなたに贈ったときのこと。あなたは飛んで跳ねて大喜びして、ずっと肌身離さずそのマフラーを抱きかかえておりました。冬の寒い日はもちろん、夏の暑い日でも。旦那様はそれを見ていつも嬉しそうに穏やかに笑っておられました」


 まるでその目で見て来たかのように、吉田は語る。


「奥様の残された宝玉の力でやっと納得のいくマフラーが作れるようになったとお喜びになった旦那様は、まず真っ先にあなたへのプレゼントを作りました。3歳の誕生日プレゼントです。完成したものを見せて頂いた時は、私も声を上げて感動致しました。色も肌触りも質感も素晴らしくて何より、暖かかった。……あれは紛れもなく、旦那様の愛の籠った逸品です。それから気付けば、今日でちょうど14年。本当に大きく、お美しくなれた。きっと天国のご両親も、さぞ誇らし気である事でしょう」


 妖花を見上げ、傷の痛む頬で笑顔を作る。

 その人の良さそうな笑顔を、妖花は昔、どこかで見たような気がして、少しずれた丸眼鏡が、記憶の奥底に眠る誰かと重なった。


「……もしかして、仕上げ場のおじちゃん、ですか?」


「もう、おじちゃんなどと呼ばれるような歳ではありませんが、その節は大変お世話になりました」


 恭しく頭を下げる吉田を見て、康介はしきりに、妖花と吉田の二人を見比べた。


「え? ……え? ……も、もしかして、吉田さんは、あの雪ノ森冬樹が《スノーフォックス》を立ち上げたっていう町工場で?」


「はい。十年近く、勤めておりました」


「じゃあ、妖花ちゃんが、雪ノ森冬樹の実の娘って言うのは?」


「紛れもない事実にございます」


 吉田は目に涙を滲ませ、郷愁を漂わせる表情で妖花を仰ぎ見た。


「お名前と、奥様譲りのその美しい銀髪と翠色の瞳。今朝初めてお見かけした時から、もしやと思っておりましたが、誕生日の日付を伺いまして、これは間違いないと確信致しました。妖花様は、雪ノ森冬樹様と雪ノ森彼方かなた様の間に生まれたたった一人の愛娘であらせられます」


「違います!」


 しかし、妖花は首を激しく横に振って強く吉田の言葉を否定した。


「私は、月宮妖花です! 雪ノ森の皆さんや《スノーフォックス》とは何の関係も、縁もゆかりもない、ただの部外者です」


 己に付き纏う過去を、かぶりを振って必死に払おうとする。

 訳が分からないままの康介は、雪ノ森の一族と交友がある分、吉田の話を素直に信じられずにいた。


「そ、そうですよ! 妖花ちゃんが、あの雪ノ森冬樹の娘だなんて! だって、あの人は生涯独身で、子供もいなかったって、雪ノ森の人たちはみんな……!」


 康介の言葉からは雪ノ森の一族に対する親しみが窺える。父親の仕事のクライアントというだけでなく、やはり家族ぐるみの付き合いがあるのかもしれない。そんな友人たちにこんな大きな隠し事があったなんて、本当なら疑いたくもないだろう。


 吉田はそれを、ゆっくりと首を横に振って否定した。


「それは嘘です。雪ノ森の親族たちは、《スノーフォックス》を自分たちのものにするために、妖花様の存在を蔑ろにし、旦那様の死後、あの方のご遺志に反して、妖花様を児童養護施設に追いやったのです」


「……お父さんの遺志?」


「遺志ってことはつまり、あの遺言書のこと? 確かアレには妻や娘に関する記述は一切なくて、会社の権利関係のことばかりが書いてあったって話だったけど、……《スノーフォックス》を《スノーフォレスト》に買い取らせて子会社にしてもらうことが、あの男の最後の望みだったんじゃなかったかしら?」


 七海の言う通りだ。妖花が受け取った遺言書には、会社と〈悠久の宝玉〉の扱いに関することしか明記されていなかった。それなのに、妖花が施設に預けられたことが彼の遺志に反するというのはいったいどういうことなのか。


 吉田はしばらく黙って俯いた後、妖花の方を見上げて、またゆっくりと語り始めた。


「……あんなものは、遺言書でも何でもありません。《スノーフォックス》が《スノーフォレスト》の子会社となった件は、旦那様が亡くなるよりもずっと以前から密かに進んでいたお話しなのです。いずれ《スノーフォックス》は小さな町工場一つでは抱えきれなくなるだろうから、と。旦那様はブランドの発展と存続にかかわる様々な面でご実家の力を借りられないか、交渉を続けておられたのです。両親や親戚との間にあった深い溝を何とか乗り越え、話し合いがまとまりかけていた矢先に、あの不幸な事故は起こってしまったのです」


「不幸な事故?」


「あの男が死んだ交通事故のことでしょう?」


「……」


 雪ノ森冬樹の死は、公には事故死となっている。

 本当のことは、説明したところで誰にも信じてもらえないお伽噺であるし、雪ノ森の遺族としても都合の悪い事実が含まれていたため、説明のしやすい嘘が採用されたのである。


 不幸な事故。おそらく事の全容を把握しているであろう吉田は、幼い日の妖花が〈悠久の宝玉〉に触れてしまった事件のことを、そう表現した。


「旦那様は、万が一のことを考えて、ずっと準備を進めておられました。お嬢様の力がいつ目覚めてしまってもいいように。お嬢様がその力に呑み込まれそうになった時には、いつでもその身を犠牲にする覚悟で……。全てはあの方のご意志。旦那様はあの時の奥様と同じように、文字通り命を懸けて、お嬢様のお命を救おうとしたのです」


 陰陽師ではない雪ノ森冬樹が〈悠久の宝玉〉の力によって突然目覚めてしまった妖花のもう半分の力を封印するためには、短くない時間と易しくない苦労が必要だったはずである。それは到底、父親としての責任感や義務感などで果たせるほど生半可なものではなかった。

 たとえ彼が、『フォックスマジック』を生み出した天才だったとしても、やはり。


「お嬢様、どうか、ご自分を責めることだけはお止めください。旦那様は自ら進んでその道を選択なさったのです。後のことは全て、雪ノ森の方々にお願いしてあるから、と。そう言って、旦那様は笑顔で息を引き取られました。……全てを裏切ったのは、雪ノ森の方々です」


 吉田は、昂る怒りと悲しみを堪えて震えていた。

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