踏み出す一歩

 突然声がして、考え事にふけっていた妖花は、人の気配が思ったよりも近くに来ていたことに驚いた。


 不味いところを見られたと思って、警戒心が跳ね上がる。


 人の良さそうな柔和な笑顔で妖花に微笑みかけていたのは、しわの寄った顔に丸眼鏡がよく似合うこのホテルの支配人、吉田だった。


「竜道院様のご様子は如何でしたか?」


「あ、はい。思ったよりも元気そうでした。お粥とお薬を用意して頂いて、ありがとうございました」


 変に怪しまれないように、妖花は険しい表情を隠して愛想笑いを返す。


 吉田は「それは良かったです」と満足そうに答え、妖花の目の前で足を止めた。


 向かい合う二人の間には、雪ノ森冬樹の肖像画。


 吉田は、ここではないどこかを見るような遠い眼で、自らが描いたという絵を見上げた。


「昔から絵を描くのが趣味だったのですが、人物画はあまり得意ではなくて……、私の記憶と冬樹様の印象だけが頼りでしたが、それでもこれは自分でもよく描けたなと、そう思える自信作なんですよ」


 それに、ロイヤルスイートの部屋に続くこの廊下なら、限られた人にしか見られませんしね、と吉田は気恥しそうに笑った。


「……吉田さんは、……雪ノ森冬樹さんにお会いしたことがあるんですか?」


「ええ、ありますよ」


 心臓が、大きく脈打つ。背中が冷や汗でじんわりと滲むのが分かった。マフラーを巻いた首元が妙に熱い。


 彼は、雪ノ森冬樹を知っている。


「……どんな、人でしたか? ……雪ノ森冬樹さんは……」


 自然な会話のつもりで妖花の口から滑り落ちた言葉は、父の真実に近付いてしまうような問い掛けだった。こちらから訊いておいて、妖花の心は身構える。


 やっぱり知りたい。でも怖い。知りたくない。


 対する吉田は、嬉しそうな笑みを浮かべて、今度は昔を懐かしむように雪ノ森冬樹の絵を見上げた。


「……一途な方でした。……仕事熱心で、責任感が強く、妥協を許さず、常に高い理想を掲げて、決して諦めず、自分がこうだと決めたことは絶対に曲げない。少し子供っぽいところもありましたが、私にとっては、心の底から尊敬できるお方でした」


「……やっぱり、仕事ですか……」


 落胆するような声が漏れた。


 確かに、記憶の中にある父はいつも工場にいて機械や糸の様子をずっと見ていた。朝早くから夜遅くまで。やはり、雪ノ森冬樹にとって一番大切だったのは仕事で、娘のことは二の次だったのだろうか。


 命懸けで妖花の力を封印したことも、それはただ親としての責任を果たそうとしただけで、父としての愛情ではなかったのだろうか。


 もう、いい。

 存在しないことにされた娘は、その答えを聞いて、諦める。


 もうやめよう。未練がましく父を想って、心のどこかで、そんなはずはない、と必死に否定して、期待を寄せるのは、もうおしまいにしよう。


 大丈夫。問題ない。


 自分には、自分を愛してくれた義父がいた。頼りになる義兄もいる。雪崩に巻き込まれたくらいで死ぬほど、妖花の義兄は脆くないはずだ。


 だから。


 実の父親がどんな人で、娘の事をどのように思っていたかなんて、今の自分には、月宮妖花には全く何の関係もないことだから。


 ――それなのに、涙がこぼれた。


 舞桜の言っていた通りだ。


 どれだけ理屈や言い訳を並べて、目を逸らしても、自分からは逃げられない。

 自分が雪ノ森妖花であることは変わらない。

 自分が雪ノ森冬樹の娘であることは変えられない。


 せめて、ほんの少しだけでもいいから。

 そんな切望が涙に変わって、妖花の首元を優しく包む白いマフラーをぽつりと濡らした。


「……どうして、泣いておられるのですか?」


「い、いえ! すみません。何でも、ないですから……」


 吉田に指摘されて、妖花は慌てて涙を拭う。

 不審に思われてはいけない。もしも、妖花がこんなところにいることが雪ノ森の親族に知られてしまったら、何をされるか分からない。《スノーフォックス》が《陰陽師協会》と関係を持っているなら、そちらを通じて何らかの抗議や嫌がらせをしてくる可能性だってある。


 だが、溢れ出る涙は止まらない。高鳴る心臓の鼓動がうるさい。取り繕うことは最早叶わなかった。


「……やはり憎いですか? あなた方、親子を裏切った、雪ノ森が」


「……え?」


 顔を上げて見ると、吉田は心苦しい表情で、妖花のことを見つめている。

 吉田が何のことを言っているのか、すぐには理解できなかった。


「そうですよね。旦那様の最後の願いを踏みにじって、今もこうして、奥様の亡骸を辱めているわけですから。この惨状を知ったら、あの方は嘆き、お怒りになることでしょう……」


 何かを悔いるように奥歯を噛み締め、冬樹の肖像画から目を背ける。彼に顔向け出来ないとでも言うように。


「私にもっと力があれば、あなたを悲しませることもなかった。ですが、どうか許して下さい。あの時の私たちにはどうすることも出来ませんでした。気付いた時にはすべてが手遅れだったのです」


 吉田の独白に置いて行かれた妖花はぽかんと呆けた顔になって、涙も止まる。吉田の顔を初めてはっきりと見返した。ずっと静夜の背に隠れていて、今もずっと眼を合わせないでいたから気付かなかったけれど、その熱で少し曇った丸眼鏡を妖花は昔、どこかで見たことがあるような気がした。


「……本当に、大きくなられた」


 感慨深そうに、涙を堪えた吉田が言う。


「あの方は、仕事が一番、というわけではありませんでしたよ? ……本当に大切にしておられたのは、いつも、ご家族のことでした」


「……家族?」


 その家族とはいったい誰を差すのか。雪ノ森の親族のことなのか、それとも……。

 首を傾げる妖花に、穏やかに笑った吉田が告げる。


「あなたに、お渡ししたいものがあります」


 こちらへどうぞ、とついて来るように促され、妖花は一瞬の逡巡の後、足は何かに吸い寄せられるように自然と前に出た。

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