疑心暗鬼

 カードキーを持って部屋を後にする。廊下を少し進んだ先にはやはり、このホテルの支配人の吉田が書いたという、雪ノ森冬樹の肖像画が飾られていた。


 そう言えば、妖花が一人でこの廊下を歩くのは初めてだ。誰も見ていないことを確認してから足を止め、向き直り、妖花はまじまじと額に飾られた絵を見上げた。


 穏やかな表情でこちらを見下ろし、白いマフラーを優しく差し出す雪ノ森冬樹。

 この絵を初めて見つけた時、この人物が自分の実の父親だということはすぐに分かった。同時に、自分の記憶の中にある父の顔とは少し違う気がして、戸惑った。


 もう、どんな声だったのかは、思い出せない。

 笑顔は、こんなにも穏やかだっただろうか。自分にこの白いマフラーを贈ってくれた時の顔は、どんなものだっただろうか。

 思い出せない。


 当時の自分があまりにも幼かったからか。それとも、最後に見た父の表情が、印象的なほど厳しく、険しいものだったからか。


〈悠久の宝玉〉に触れて、白銀の光に包まれてからのことを、妖花はほとんど覚えていない。

 次にある記憶は、父の葬儀の日。

 喪服に身を包んだ大人たちとお焼香の臭い。桐で作られた棺の中で、父は安らかな表情のまま眠っている。


 五歳の頃の妖花には、何故父が死んだのか、その理由も分からなかった。

 ただ、父にはもう二度と会えない、という強烈な事実だけはなんとなく理解出来てしまって、一人取り残された少女は人目も憚らずに泣き喚いていた。


 やがて涙は枯れ、ぐちゃぐちゃになった顔を上げると、妖花は知らない大人の人たちに囲まれていた。

 妖花の正面に立つ、少し強面の男性は、どこか父に似ている気がした。


 父の遺言を知ったのは、それから数年が経った後。

 月宮妖花として、家族三人での生活にも慣れたある日のことだった。

 その封書は、妖花が雪ノ森のお屋敷から、施設に預けられる際に持たされた荷物の中に紛れていた。

 それを初めて見つけた時の妖花は、『遺言書』と書かれたその封筒を、亡き父からの最後の手紙だと解釈した。


 手紙の中身は難しい漢字ばかりで、小学生の妖花では理解できなくて、義父に頼んで、何が書かれているのか聞こうとした。

 意気揚々と翠色の瞳を輝かせていた妖花から手紙を受け取った義父は、どこか悲しげで辛そうな表情を見せた。


 遺言書に書かれていたのは、雪ノ守冬樹が死んだ後の会社、つまり《スノーフォックス》と〈悠久の宝玉〉の取り扱いついて、すべてを雪ノ森の親族並びに《スノーフォレスト》に一任するという旨。それだけだった。


 最初は訳が分からなかった。

 堅苦しい言い回しで、難しい言葉もたくさん使われていた遺言書の内容を、義父は幼い妖花にも分かるようにかいつまんで説明してくれたが、当時の妖花は、その手紙に自分のことが何一つ書かれていないことが不思議に思えてならなかった。


 自分の名前を漢字で書けるようになったばかりの妖花は、義父から遺言書を取り返し、その眼で自分の名前を手紙の中に探し求めた。それなのに、『雪ノ森妖花』の名前は一切記されていなかった。

 どうして? なぜ? と、目元を腫らし、声を震わせる娘に、義父はしばらく悩んだ末、全てを語って聞かせてくれた。


 父が死んだときのこと。

 雪ノ森冬樹は、〈悠久の宝玉〉によって目覚めてしまった妖花の半妖としての力を封じるために、人柱となって命を落としたのだと。


 それは、初めて耳にする、父の死の真相だった。

 妖花の力を封印する直前、己の死を覚悟した雪ノ森冬樹は、数年ぶりに実家を訪れ、自分が死んだ後のことについて親族と話し合いを行った。

 その結果、《スノーフォックス》と〈悠久の宝玉〉は雪ノ森の一族が相続することとなり、残された妖花は、一旦は雪ノ森の親族の元に引き取られるも、結局は、この世にいない者として扱われることとなった。


 施設から妖花を引き取った月宮兎角は、この事実を最初から全て知っていて、知っていたからこそ、彼は敢えてこの事実を隠して、黙っていたのだ。ただ、娘を悲しませたくなかったから。


 それを少女は知ってしまった。

 父からの最後の手紙は、娘の期待を裏切った。

 信じられなかった。納得できなかった。


 妖花は当初、その事実を認めたくなくて、絶対に何か理由や事情があったはずだと信じて、自分でいろいろと調べようとした。

 雪ノ森冬樹のこと。《スノーフォックス》のこと。『フォックスマジック』のこと。


 でも調べても調べても、そこに自分という存在は見当たらなくて。

 妖花は、そこで調べることをやめた。考えることをやめた。


 そして代わりに、言い訳を並べた。

 今の自分は、月宮妖花だから。義父と義兄は、優しくて、一緒にいて幸せだから。だから別に、昔に囚われる必要はないのだと。


 時には、自分が父に嫌われる理由も探そうとした。

 だって、自分は父の愛する母を殺して生まれて来たのだから、とか。

 だって、自分は父の言いつけを破って、あの倉庫に入ってしまったのだから、とか。


 そうやって自分の中だけで折り合いをつけて、自分自身を守ろうとした。

 目を逸らして、逃げ出した。


 それなのに。


 今、自分の目の前には父の肖像画がある。

 ここは、雪ノ森の親族が経営するホテル『フォックスガーデン』。


 捨ててきたはずの過去の因果が、自分を追いかけて来たようだ。あるいは最初から、捨てたつもりが、ずっと足下に絡みついて、離れていなかっただけなのかもしれない。


 どうしたらいいのか分からなくなって、妖花は俯く。


 もしも、真実を、雪ノ森冬樹の本当の気持ちを知ることが出来たなら、この宙吊りになったままの不安もきれいになくなって、本当の意味で決着をつけることが出来るのかもしれないのに。


 漠然と、そんなことを考えていた時だった。


「――気に入って頂けましたか? 私の絵は」

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