虎穴

「――〈猛御雷たけみかづち〉!」


 光り輝く錫杖が、正面から突進してきたイノシシの妖を屠って祓う。


 ――バン、バン、バン!


 銃声が鳴り響くと、雪原を疾走するオオカミの妖は眉間を撃ち抜かれて群れが全滅する。


 二人の陰陽師の鮮やかな手際を目の当たりにして、三葉栞はただ息を呑み、茫然と立ち尽くしているだけだった。


 雪山の中を歩き始めてしばらく、静夜たちは妖に囲まれ、襲われた。

 栞の強すぎる霊感が事前に妖の気配を察知し、安全な方向を選んで進んでも、妖たちは彼らを見つけ出し、強襲を仕掛けて来たのだ。

 そして、妖たちは今、見事な返り討ちにあっている。


 竜道院星明の錫杖が雷の光を纏って駆け、月宮静夜の拳銃が火を噴いて敵の急所を穿つ。

 たとえ数がいても烏合の衆。連携もなくただ闇雲に、本能のまま牙を剥き、襲い掛かって来る化け物たちを退けるのに、戦略も策略も必要ない。

 二人はただ、目の前の敵を黙々と払い除け、殲滅していった。


 最後に残った白いウサギの妖は、苦し紛れか、戦場で狼狽している無力な女子大生に狙いを定めた。ちらつき始めた雪に紛れて、足下から奇襲を仕掛けたウサギは、持ち前の脚力で跳躍し、赤い眼球を妖しく光らせ、鋭い前歯を栞の喉元に突き立てんとする。


「栞さん!」


 咄嗟のことで身体が固まり、動けずにいる彼女を、静夜が前に出て庇おうとする。

 目前に迫ったウサギを迎撃するため銃口を向けるが、それより一瞬早く、


「――〈破矢武叉はやぶさ〉!」


 星明の投げた錫杖が妖の胴体を貫通し、ウサギは霞となって凍てつく山風に攫わられ消えていった。


「……す、すごい」


 栞がようやく、感嘆の声を溢す。

 静夜は忌まわしそうに、木に突き刺さった錫杖を引き抜く彼を睨んでいた。

 その姿は、かつて京都にその名を轟かせた一人の陰陽師の二つ名を彷彿とさせる。


雷槍らいそう乙女おとめ』。


 竜道院星明と竜道院りんどういん紫安しあんの実の母、竜道院りんどういん環那かんなはその二つ名で呼ばれていたらしい。


 彼女の槍に貫けないものはなく、雷の如く苛烈な一撃は、あの九尾の妖狐ですら舌を巻くほどだったとか。


『鉄壁の巫女』として恐れられた京天門きょうてんもん絹江きぬえと並び称され、京都屈指の実力者として名を馳せた。


 竜道院才次郎との間に男児を二人産んだ後、若くして病に倒れたと聞くが、残された長男の今の戦いぶりは、失われた雷槍の輝きに勝るとも劣らない。

 本当にどこまでも、非の打ちどころのない男だ。


「さあ、二人共先を急ごう。風も強くなってきた。本格的な吹雪になる前にどこか落ち着けそうな場所を見つけないと」


 雪崩が起きてから約二時間。静夜たちは結構な距離をただひたすらに歩き続けていた。

 風も雪も強くなり始めた森の中。視界は徐々に悪くなり、空を覆う雲は分厚く、太陽の光から時刻を推測することもままならない。時間の感覚は失われつつある。

 身に着けていたスマホや腕時計は、雪崩の衝撃やこの寒さのせいで故障してしまった。

 自分たちがどれだけの時間、どれだけの距離を歩いているかなど、本人たちには既に分からない。

 だが、凍てつく風が肌を刺す度、横殴りの雪が視界を遮る度、彼らはひしひしと実感する。


 人は、この過酷な自然環境の中では生きられない。


 どんなに優れた陰陽師でも出来ることには限りがある。このような極限状態では、まともな法力を練り上げることも不可能になるだろう。

 早く、この吹雪を凌げる場所を見つけなくては。

 理屈ではなく、動物としての本能がそれを強く訴えている。足を前に出す。最早感覚はない。ただ惰性で腕を振る。雪を踏み締め、辺りを見回す。


 しかし、この状況下で、成人近い男女三人が最悪でも一晩安全に身を寄せ合って過ごせる都合のいい場所など、そう簡単に見つかるはずもない。

 生き延びることは絶望的と思われた。


 そんな時、鈴の音がチリン、と猛烈な風の音を掻き分けて響く。その直後、栞が突然何かに気付いて、叫んだ。


「あ、……あそこ! 静夜君、星明さん! あっち! あっちに何かある!」


 静夜は朦朧とする意識を何とか保ってその方向に目を向ける。けれど何も見えなかった。吹雪と山を覆い尽くした雲に阻まれて、栞が見つけたと訴える何かが何なのかさっぱり分からない。それどころか、1メートル先もよく分からないほどの視界の悪さだ。何も分からなくて当然。おそらくそれは先頭を歩く星明も同じだろう。


「……分かった! じゃあとりあえず、そっちに行ってみよう!」


 それでも三人はそこに何かがあると信じて進むしかなかった。

 何かの見間違いでも、勘違いでも、行く当てのない遭難者はわらにもすがる思いで、そこにあるかもしれない希望に必死に手を伸ばすしかないから。


 すると、本当に奇跡が起こった。

 風に逆らい、吹雪を掻き分け、進んだ先に見えて来たのは、大きく口を開けた天然の洞窟。


 静夜と星明は信じられないと言う顔で呆然となった。栞はただ一人「た、助かった!」と安堵と歓喜に声を上げて、洞窟の奥へと駆け込んでいく。


「ま、待って三葉さん! ここは慎重に行こう。こういうところには、野生の動物とか、強力な妖とかが住み着いたりすることがあるから!」


「いえ、たぶん、大丈夫だと思います」


 星明の危惧を静夜が冷静に否定する。


「静夜君まで……! どうしてそんなことが分かる⁉」


「ここは、栞さんの鈴が見つけてくれた場所です。だからきっと安全です。それにどのみち、今から別の場所を探すなんて無理でしょう?」


「そ、それはそうだけど……」


「分かってます。一応警戒だけはしておきます。でも、今は早く栞さんを追いかけないと」


「それもそうか……。じゃあ、はい、これ」


 星明が収納用の呪符から懐中電灯を二つ取り出す。


「用意がいいですね」


「これくらいは当然だよ」


 静夜は右手に拳銃を、左手に懐中電灯を握って手の甲を合わせ、ライトと銃口の向きを一致させる。星明は錫杖を改めて握り直し、途切れかけていた精神の糸をピンと張り、暗い洞窟の中へと足を踏み入れた。

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