第3章 狐の恩返し
序 昔々、あるところに
気付けば、一月も終わりに差し掛かっていた。
年明け以降、京都の冷え込みは更に厳しくなり、この日も朝から凍てつく寒さが街中に張り詰めている。空にはどんよりとした灰色の雲がのしかかり、午後からは冷たいみぞれが降る予報だ。
月宮静夜は自転車で大学へ行くことを諦め、下宿近くの駅から
大学は秋学期の試験期間に入っており、普段なら多くの大学生で混雑する時間帯にも関わらず、車内は比較的空いていた。
「あれ? 静夜君?」
電車に取り込んですぐ、静夜はよく見知った女子大生と鉢合わせる。
「おはよう、栞さん。今日は僕も電車なんだ。乗り合わせたのは偶然だけど」
「そうなんや。今日は天気も悪そうやもんなぁ。いつもより寒いし……」
車内は暖房が効いていて温かいが、乗客たちは着込んだコートやマフラーを脱がずに、身体を小さくして暖かさを逃がすまいとしている。
かく言う栞も、茶色のマフラーに顔を埋めて肩を擦っていた。
そこで静夜がふと気付く。
「……栞さん、そのマフラーってもしかして、《スノーフォックス》?」
「え? すごい! 静夜君、ロゴも見てへんのに分かるんや! 《スノーフォックス》、静夜君も好きなん?」
おろしたての匂いがほのかに香るそのチョコレート色のマフラーは、いつも彼女が身に着けているものと違っていた。
シャンプーを変えたとか、リップを変えたとか、そういう些細な変化に気付いてもらえたことが栞は嬉しいようだが、一方の静夜は、判然としない表情で首を傾げる。
「いや、好きってわけじゃないけど、妹がそこのマフラーをずっと大事に使ってるから……」
静夜の義理の妹、月宮妖花が冬の間、常に身につけているあの純白のマフラーは、今栞が首に巻いているものと同じ、《スノーフォックス》というニットブランドの高級品だ。
「そう、それ! こないだ妖花ちゃんに頼んでちょっとだけあのマフラーを着けさせて貰ったんやけどな、そしたらそれがほんまにびっくりするくらい温くて! ウチもついつい欲しくなってしもうて、思い切って今年のお年玉全額はたいて、こないだ大阪の百貨店で買うてきたんや!」
栞にとって、それは他人に自慢したくなるほど逸品らしい。随分と興奮している。
《スノーフォックス》のニット製品は、何年使っても色や形が崩れない丈夫な品質と、それを一つ身に着けるだけでからだ全体と、さらには心まで温めてしまうとまで言われるほどの高い防寒性能が売りになっている。近年では高級ブランドとしての地位を確立しつつあり、冬の贈り物、特にクリスマスのプレゼントとして若者たちの間で人気が高まっているのだとか。その分お値段はご立派であるが、購入者は皆、期待以上の一級品だと口を揃えて絶賛するらしい。
「うーん、せやけど、このマフラーはいまひとつ心まで温まるって感じはせぇへんなぁ……。今年の新作はさらに温かくなりましたってCMでも言うとるのに……」
そんな中、栞は自分が購入したマフラーに納得のいかない様子で不満を溢した。
マフラーを首から外して商品に付けられたロゴを確認してみるが、そこに描かれた白い雪と狐の紋様は間違いなく《スノーフォックス》のロゴマークだ。精巧に作られた偽物というわけでもない。
「まあ、商業商品の謳い文句なんて大抵は当てにならないものだよ」
「えぇ……、せやけど、人気のYoutuberさんとかは、『#スノーフォックスチャレンジ』の動画で小一時間くらいは平気そうにしとったよ?」
「……何? 『#スノーフォックスチャレンジ』って」
「え? 静夜君知らんへんの? 最近流行りの動画企画で、裸で《スノーフォックス》のニットを一つだけ着て、真冬の野外に何時間居れるかっていうのを競う、実証系の耐久ゲームなんやけど……」
「……最近のYoutuberってそんなことやってるんだ……」
静夜にはよく分からない流行だ。いくら《スノーフォックス》のニット製品がそれ一つで全身を温めてしまうほどの高い防寒性能を持っているとしても、こんな季節に裸で外に出るなんて自殺行為、たとえゲームだとしても絶対にやりたくはない。
あと、栞がそういう動画を見ているということにも少し驚きだ。
「でもそういうのって、動画の企画だから我慢して身体を張って、無理して暖かいフリをしてるだけなんじゃないの? ニット一つだけじゃ、どう頑張ったって寒くないわけないよ」
「ウチも最初はそう思っとったんやけどな、妖花ちゃんのマフラー着けてみたら、ほんまに心まで温まるくらい凄く気持ちよくてなぁ! せやからYoutubeのアレも嘘や痩せ我慢やなかったんやって、めちゃくちゃ感動したんやけど、……う~ん、でもやっぱり、ウチのは妖花ちゃんのに比べて、そこまで凄いって感じはせぇへんなぁ……」
払拭し切れない違和感と失望の予感に、栞はきまりの悪い顔になる。
だが、それを見ていた静夜は、
「そりゃそうだ」
と、そこには何の疑問も不思議もないと言うように、当たり前のような顔をして、粗雑に言葉を放り投げた。
「だって、妖花のあのマフラーは、市販で売られている製品とは格が違うから。あれは妖花の為だけに作られた特別製のマフラーだからね」
「え、特別製?」
問い返す栞を無視して、静夜は流れる車窓の向こうに目を移した。景色の背景は、空を覆い尽くした暗雲の灰色。京都の冬はこんな天気が多い。雪はあまり降らないのに、すっきりと晴れる日も少ない。
そんな空模様に何か思うところでもあるのだろうか。静夜は、遠くの空を見つめたまま、突然、何の脈略もない話を語り始めた。
「……栞さんは、『狐の恩返し』って話、知ってる?」
「……『狐の恩返し』?」
「うん。『狐の恩返し』。……とある有名な昔話によく似ていて、ちょっと違う。でもやっぱり、悲しい結末になってしまった物語……」
静夜は、マフラーに刻まれた雪と狐の紋様を見つめて、もの寂し気な笑みを浮かべる。
音もなく空から舞い降りて来た雪のように、青年はゆっくりと語り始める。
様式美として、こんな言葉を枕にして。
昔々、あるところに……――。
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