第10話 狂い咲きの舞桜

散りゆく定め

 舞桜は逃げ続けていた。


 部屋の結界が音を立てて崩落したのは、足の早い、冬の日没と同じ頃。その襲撃者は、舞桜の命を狙って仕掛けて来た。


 月が出ていたのは不幸中の幸い。舞桜は咄嗟に憑霊術を発動させ、飛躍的に向上した身体能力を駆使して相手を躱そうとした。だが奴は舞桜の想定以上に執念深く、陰湿な性質を持っていたらしい。


 強襲を受けてから数時間。師走の暗い夜は満月の光すら霞むほどに深くなっていた。


 走り続けた舞桜は、誰もいない平安神宮までたどり着く。体力はもちろん、憑霊術を維持する精神力も、既に限界を迎えていた。


 ふらつく足取りで、なんとか応天門を潜り、外苑まで歩いて身を隠そうと、開けた境内を縦断する。しかし、――


 後ろから聞こえる獣の足音は徐々に近付き、舞桜に迫った。


 振り返って拳銃を撃つ。背後から飛び掛かって来た一匹の妖犬は、その銃弾に額を撃ち抜かれ、依代となっていた一枚の呪符に戻り、術の効果を失った紙切れは、木枯らしに吹かれて夜空の彼方へ消えて行く。

 舞桜の憑霊術が、そこで遂にこと切れた。髪が桜色から元の黒色に戻る。銃撃の反動に尻餅をついた身体は、最早立ち上がることも出来なくなっていた。


 そんな少女に不遜な歩みで近付く男が一人。応天門の影から月明かりに姿を晒した犬養将暉は、舞桜を見下して不気味な笑みを浮かべた。


「……俺も随分と嫌われたものだな。婚約者にここまで嫌がられるとは、少々自信を失ったぞ? 妻というものは夫を立てるべきものじゃないかな? ねえ、舞桜ちゃん?」


「私はお前の妻じゃない! もちろん、妻になるつもりもない!」


 舞桜は声を振り絞って拒絶を示す。将暉はそれを涼しい顔で聞き流した。


「強情だな。お前の母親はあんなに乗り気だったのに……。舞桜ちゃん? もう一度よく考え直してみたらどうだ? お前にとっても悪い話じゃない。今までずっと、その霊媒体質のせいで忌み嫌われ、腫物のように扱われ、居場所もなかった14年間。それがこれからは、犬養家当主の正妻で、京都の《平安会》と奈良の犬養家を繋ぐ絆の象徴だ。仕事なんかしなくても、ただ俺と結婚するだけで価値が生まれる。あとは三食昼寝付きの快適な毎日だ。お前が望むなら子作りだってしなくてもいいだぞ? 世継ぎなら、愛人に産ませればいくらでも作れるからな、アハハハハ!」


 深くて暗い、夜の闇の中。

 将暉は少女を、甘くて優しい未来へ誘惑する。辛く苦しい過去から解放されて、楽になろうと少女を誘う。


「結婚せずにこのまま竜道院家の屋敷に閉じ込められて生きるのと、俺と結婚するの、どちらがいいのかは考えなくても分かるだろう? ……大丈夫、悲観することはない。俗世がどうか知らないが、14歳で結婚が決まるなんて、陰陽師の世界ならよくあることだ。古臭いと思うかもしれないが、陰陽師の世界とはそういうものだ。いい加減、お前も諦めろ」


 走り続けた少女の身体は、師走の夜風に晒されて急激に冷めていく。本当に、いけ好かない男だと舞桜は思った。


 ――バン!


 言葉の代わりに、舞桜は銃弾で答えを返す。例え立ち上がることが出来ずとも、その朱色の瞳はまだ、彼への敵意を宿していた。


「そうか。それがお前の答えか……」


 引きつった顔で、将暉は舞桜を睨む。弾丸は頬を掠め、切れた傷口からうっすらと血が垂れた。


「当然だ。私は、この結婚を破談にするために憑霊術を覚えた。私が破門されれば、私と結婚してもお前たちは竜道院一門には入れない。縁談なんて、私は最初からお断りだ! 今さら祖父に謝るつもりももちろんない!」


 それに、これが親に決められた結婚でなかったとしても、舞桜はこの犬養将暉という男が気に喰わない。


 自分が優位な立場にいれば、その威光や権威を振りかざし、翻って相手の方が上だと思えば、媚び諂って胡麻を擦る。

 この奇襲も、結界を破って仕掛けて来た時は驚いたが、舞桜が憑霊術を使った途端、彼は攻撃の手を緩め、街中を追いかけて舞桜の心身を消耗させる作戦に切り替えた。将暉自身は舞桜の憑霊術が切れるまで姿を見せず、式神の妖犬と時間を使って嫌らしくしつこく追い詰めていったのだ。

 保身に長けた考え方と、このずる賢い生き方は、舞桜にとって不愉快な事この上ない。


 しかし、


「しかし、今のお前に何が出来る? 体力は尽きた。お得意の禁術ももう使えまい。助けを呼んでも誰も来ないぞ? お前には何の地位も名誉も権威もないからな。……お前はただのガキなんだ。決して大人には勝てないんだ」


 勝ち誇ったように将暉は言う。舞桜はそれでも、声を張り上げた。


「私は、それでも、自分の力で生きて見せる! 結婚して、あとはお飾りの人形なんて、私は御免だ!」


 なけなしの力を言葉に込める。例え、その言葉が、その威勢が、中身の伴わない虚像に過ぎないとしても、少女は黙ったままではいられなかった。


「なるほど。お前の考えはよく分かった。……ならば仕方ない。当初の予定通り、お前を殺すことにしよう」


 将暉は、先程よりも楽しそうに、愉悦に歪んだ笑みを浮かべた。


 一人で何事か呟き、バシン! と力強く両手を合わせたその瞬間、突然、舞桜を取り囲むように無数の妖犬たちがその姿を現した。ざっと数えて20匹。


「こ、この妖犬たちは……」


「驚いたか? 犬養家の次期当主ともなれば、家宝の首輪など必要ない。自分の法力だけでこれだけの式神を創り出し、操ることが出来る! 今、京都を騒がせているどこぞの盗人と違ってな!」


「……私を殺して、どうするつもりだ?」


「もちろん、その首を竜道院家に献上するのさ。お前が素直に俺との結婚を考え直してくれたなら、生きたまま竜道院の屋敷に連れて行ってやろうと思っていたが、最早お前に、政略結婚の相手としての価値は一つもない。今《平安会》は巷を賑わせている妖犬の退治に追われているが、それが終わったら、今度はお前の番だ。《平安会》は禁術を決して認めない。今は中断されているが、総会ではお前を処刑すべきだという意見が大半を占めているらしいぞ? 本家もお前を庇いはしないだろう。あの一族は、組織内での自分たちの地位を守るためなら、喜んでお前の命を差し出す。それに聞いた話では、この妖犬の騒ぎもお前が呼び寄せた災厄なんじゃないかと、そんな噂まで飛び交っているらしい」


「そ、そんな馬鹿な話ッ――」


「真実かどうかは関係ない。人が恐れ、疑い、心に闇が巣食えば、その念に惹かれて妖は生まれ出る。……陰陽師の仕事は妖を祓うこと。言い換えれば、人から恐れや憂いを取り払うことだ。『妖に愛された呪いの子』は、人の恐怖を煽る。猜疑心を抱かせる。それは陰陽師が祓う対象になり得る。……だがもしそうなれば、いよいよもって竜道院家はその立場が危うくなるな。……つまり、お前をここで殺して、その首を土産にすれば、俺たち犬養一族は竜道院家に恩を作れる。そして、その恩と功績にあやかって俺たちは竜道院一門の傘下に加わることが出来るってわけだ!」


「ぶれないな、お前たちは……。そんなに《平安会》に入りたいのか?」


「当たり前だ。このご時世、実力だけでは生き残れない。必要なのは権力と財力。お前も分かっているだろう? 弱い人間が何を叫んだところで、結局、世界は何も変わらない。力のある者に無視され、或いは口封じされ、何も成せず、何も果たせず、そして、そのまま終わっていく。……今のお前のようにな」


「ッ!」


「お前も、竜道院家の人たちに認めてもらいたかったなら、禁術ではなく、俺との結婚を選ぶべきだったな!」


「…………」


 舞桜は言い返せない。なぜなら、将暉との縁談を受け入れていれば、少なくとも今、ここで死地に追いやられるような状況にはなっていないだろうからだ。


「お前はこれから、俺たち犬養一族の野望の礎となる。それを誇って死ぬがいい!」


 その声で、妖犬の式神たちは一斉に地を蹴り走り出す。


 舞桜はまだ動けない。憑霊術も使えない。彼女に出来ることは何もなかった。


 やはり、無駄だったのだろうか。すべて無意味で無価値だったというのか。


 憑霊術を覚えたのも、その為に実家の蔵に忍び込んだのも。

 処分を逃れるために屋敷を飛び出し、《陰陽師協会》を頼ったのも。

 月宮静夜に現代陰陽術を習ったのも、妖犬の群れと戦ったのも。


『何も出来ないなら、何もするな』


 自分より五つ年上の彼の言葉を思い出す。

 何も出来ないわけじゃない。そう思っていた。でも、そんなのは結局、世の中を知らない子供のわがままで、自分に出来ることなんて、何もなかった。


 きっと本当は分かっていた。ただ諦めるのが怖くて、認めてしまうのが恐ろしくて、強がっていただけ。虚勢と虚言で取り繕って、「納得できない」と文句を垂れて、「戦うんだ」と声高に叫んだ。


 そんなことをしても、何も変わらない。何も成せない。何も果たせない。


 そんなことは、何かを始めるまでもなく、分かり切っていたことなのに。


 結局、少女は、死が淡々と駆け寄って来るその様をただ眺めている事しか出来なかった。


「――悪しき力を退け、強固なる壁を以って我らを守り給え! 〈堅塞虚塁けんさいこるい〉、急々如律令!」


 少女の目の前に飛び出したのは、一人の青年。彼が印を結んで唱えると、半球状の結界が展開され、式神たちはその行く手を阻まれる。それと同時に、結界の円周、妖犬が集まる頭上に降り落ちて来た法力の籠った手榴弾。


「――爆!」


 それらが一斉に爆ぜ、吹き荒れる北風ごと周囲の邪気を一掃する。白い煙が晴れると、妖犬の式神はその三分の二が消え失せ、元となった呪符に戻っていた。


「……チッ、遊び過ぎたか」


 将暉が青年を睨んで舌打ちする。舞桜はその後姿を見上げたまま、目を丸くして何度も瞬きした。


「……静夜?」


 混乱したまま彼の名を呼ぶ。少女を見下ろす青年には、静かな月夜が似合っていた。


 息を整え、静夜が笑う。


「やっと、君に追いついた」

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