動き出した影

「……うふふ、ほんま、思った通りの仲良し兄妹やね」


 栞がそんな静夜の顔を見て、堪えきれなくなったように笑みを溢す。


『あ、すみません、栞さん。栞さんのスマホでずっと長電話を……』


「ううん、そんなことに気にせんといて。むしろ、お役に立てたようで、光栄やわ」


「でも栞さん、どうして妹に電話なんて……?」


 そこで、静夜は素朴な疑問を口にした。栞は少し難しい顔をして答える。


「静夜君、ウチが訊いてもあんま自分の事とか、陰陽師の仕事の事とか話してくれへんから……。ウチを巻き込みたくないからやっていうんは分かっとったんやけど、どうしても昨日の話が気になって、ダメ元で電話してみてん。そしたら、妖花ちゃんがいろいろ教えてくれてな……、せやけどウチ、静夜君の気持ちも知らんと、なんかすごい偉そうなこと言うてしもうて、……ごめんなさい」


「え、偉そうだなんて……」


『そうですよ! 栞さんは何も間違っていません。ただ兄さんがひねくれていただけです。私も少し見損ないました』


「そ、そこまで言わなくても……」


 辛辣な言葉に苦笑いを浮かべるも、それは事実だ。栞は何一つ間違ったことを言っていない。彼女が語ったのは理想。人が目指すべき、強い心の在り方。

 静夜は、それを保つことが出来なかった。ただ、それだけの話だ。


 しかし、栞はゆっくりと首を横に振ってそれを否定する。


「ウチが言うたのは、ただの綺麗事や。自分が出来んかったことを静夜君に押し付けようとしただけ。……そんなん、最低やわ……」


 栞は顔を上げ、どこか遠い目をして、視線を静夜の後ろへ投げた。


「実はな、ウチも静夜君の言うこと、ちょっと分かんねん。……ウチは、大学受験で一年浪人したけど、やっぱりダメで、そこで諦めて終わりにした人やから。……あの時はショックで、もう一年頑張ろうなんて思えへんかったし、自分なりに精一杯やったんやって言い聞かせて、今の大学を楽しんだらええやんって、そう思って割り切ろうとして、今でもそう思っとるんやけど、たまにそれが、諦めた言い訳みたいに聞こえて、せやけど、努力が全部無駄やったとか、諦めた自分が悪いんやとか、そんな風には思いたくないし、それでもやっぱり、受験で失敗したっていうんは、どうしても変えられない過去で、事実で、……ずるずる引き摺って自己嫌悪になることもたまにあんねん……」


 取り留めのない言葉が溢れて行く。


 部屋に置かれた勉強机の棚の隅には、ボロボロになった赤本が隠れるように立てられていた。背表紙には東京の難関大学の名前がまだ薄っすらと残っている。


「さっきは、諦めたらそこで試合終了や、なんて、偉そうに言うたけど、諦めたり、妥協したりすることを、ダメやとか、間違っとるとか、そういうふうに決めつけて、過去の自分を否定するのは、すごく怖いし、頑張っても思い通りにならへんことってやっぱりあるから、諦めて前に進まなあかん時もあるって、そういう時があってもええやんって、ウチはそう思いたい……」


 理想を知りながら、現実を見て、栞は自らの願望を口にする。


 諦めたらそこまでだからと言われても、それは漫画の中だけの話であって、現実はそんなに待ってはくれない。

 大学生になってしまった静夜たちはもう、高校生ではないのだから。


 しかし、理想と現実の狭間で揺れ動く栞は、淡い希望を抱いて、静夜を見つめていた。


「……せやけど、ウチは静夜君にもう一回だけ頑張って欲しい。静夜君はウチと違ってまだ間に合うと思うし、それに静夜君はまだ、納得できてないんやろ?」


「ッ!」


 栞の言葉は、静夜の心の真ん中を鋭く突き刺し、貫いた。


 本当は、静夜自身もどこかで気付いていたことだ。


 納得できているなら、静夜は進学先に、京都の大学を選んでいない。

 納得できているのなら、静夜は惨めを晒してまで陰陽師として戦っていない。


 納得するしかないのだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。

 仕方がないのだと、気取った理屈を並べて、自分を騙そうとした。

 それでも、結局、――


『納得できない!』


 誰かがそう叫んでいた。


 あの時、静夜は、本当は、――でも、


「……でも、いいのかな? また、失敗するかもしれないのに……」


 挫けてしまった静夜は立ち尽くす。次の一歩が、どうしても踏み出せない。


「……ええやん、失敗しても。それでもまた頑張ればええやん。だって、この世界に頑張ったらあかん理由なんて、一個もないんやから」


 栞の言葉は、静夜の心の真ん中にすとんと落ちて、背中を押した。

 腐り切っていた心に光が差す。溜まっていた淀みが祓われる。


 栞は、ちょっと照れくさそうに笑っていた。


「あッ! もちろん、妖花ちゃんのことも応援するで? 良かったら、今度京都に来た時はウチが京都を案内するわ」


『え? あ、いや、ですが、私は正式に《陰陽師協会》の人間なので、京都に行こうとすると《平安会》から圧力が……』


「せやったら、それでも京都に来れるように頑張って。兄妹で力を合わせれば、何とかできるかもしれへんやろ?」


 取り繕いながら、栞は言った。何とか出来る、かもしれない、と。


 もちろん、何も出来ない、かもしれない。むしろ、その可能性の方が高いだろう。


 それなのに、何故か静夜はその「かもしれない」を探しに行きたくて、思わず身体に力が入った。


『……ありがとうございます、栞さん』


 妖花も声を震わせて返事をする。


 身体が熱くて、今が十二月であることを忘れてしまう。吐き出した吐息が白くて、少し驚く。


『……まずは出来ることから始めましょう、兄さん』


「うん。そうするよ」


 共感する。想いが繋がって暖かい。


 まず今は、舞桜の事だ。部屋に帰ったら、犬養将暉や竜道院美春の事について、舞桜から話を聞く必要がある。

 政略結婚の思惑や狙いはもちろん、妖犬との関連性についても調べる必要がある。


 出来ることはたくさんある。やるべきこともたくさんある。


 静夜は思い立ち、栞の部屋を後にしようとした、その瞬間。


 ――――ッ!


「……結界が、破られた」


「え?」『え?』


 何の脈略もない唐突な報告に、栞と妖花が首を傾げる。その一方で、静夜の頭の中は既にそれどころではなくなって、混乱していた。


 術者である静夜は察知する。

 舞桜を守っていた下宿の部屋の結界が、何者かによって外からこじ開けられたのだ。

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