静寂に朽ちる

「……確かに、始める前から諦めて、何もしないっていうのは、きっと正しくない。でも、この世の中には、いくら頑張ったところで、どうすることも出来ない、不条理ってものがある」


 この世界は理不尽だ。夢は叶わず、努力は報われず、願いは届かず、運命は呪いのように付き纏う。逃れることは決して出来ない。


「別に、大それたことを望んだわけでもないのに、僕にはそれすらも、どうすることも出来なかった。あのまま一人で戦っていたら、僕はそのうち殺されていたかもしれないし、自滅していたかもしれない。僕に出来たことはただ、大人しく負けを認めて、引き下がることだけだった。……仕方がないって納得するしかなかったんだ」


 ずっと黙って静夜の話を聞いていた栞はいつの間にか顔を背けて項垂れている。

 当然だ。こんな希望も救いもない、静夜の腐り切った身の上話なんて、聞くに堪えないことこの上ない。しかし、残念ながら、これが真実。これが全て。


「……妹は組織の中でもうまく立ち回ってるよ。責任のある仕事を任されて、部下と上司の間を取り持って、自分もいろんなところで戦って、……情け容赦ない陰陽師の社会で、あの子は自力で、自分の居場所を作ってる。……僕の力なんて最初から必要なかったんだよ。出来損ないの兄に出来ることなんて何もなかったんだ」


 決闘が終わった後、妖花は言った。


『ごめんね、お兄ちゃん。……ううん。ごめんなさい、兄さん』


 意識がこと切れる寸前に言い渡されたその言葉は、紛れもなく義兄に対する引導だった。


「……それなのに、僕は往生際が悪かった。京都の大学なんかに進学して、《陰陽師協会》からの理不尽な命令に、仕方ないふりをしながら従って、妹に心配されながらでも、この仕事を続けている。……今朝、妹に言われたよ。『京都に引っ越したのは、私への当てつけなんですか』って。正直、その通りだ。僕は決闘での約束を破って、しょうがないよと妹を言いくるめて、だらだらと、みっともない戦いを続けている。……ずるいよね」


 あの時の敗北を未だに引き摺って、また妹を傷つけている。そして今度は、大事な友人までも巻き込んだ。


「今回の事でよく分かったよ。やっぱり僕は何もしない方がよかった」


 いつまでも意地を張っているから、出来ないことまでやろうとする。

 いつまでも見栄を張っているから、身の丈に合わないことまでやってしまう。


 世の中の理不尽に歯向かって戦いを挑んだところで、ただの大学生一人の力ではどうにもならない。世界はひっくり返らない。社会とはつまりそういうものだし、そんなのばっかりだ。


 舞桜のこともそう。いくら彼女が納得できないと叫んだところで、それは子供のわがままで、大人たちは誰も取り合わない。その願いは誰の耳にも届かない。だから少女は大人しく、あの政略結婚を受け入れて、それで納得するしかない。


 どこかで諦めて、妥協して、そうして可もなく不可もなく、与えられた場所で精一杯に頑張って、小さな幸せを見つけて生きていく。それが大人で、それが人生。


 あがいて、もがいて、無理を押し通しても、その先にあるのは行き止まり。

 いばらの道を進んだところで、待っているのは変わらない現実。


 結局は、世界の理不尽に押しつぶされる。


「無意味で無価値で、何も成せない僕なんかには、きっとそれが、お似合いだ」


 そうして、月宮静夜は、暖房の利いた甘い匂いのする部屋で、静かに心を腐らせる。



『――いい加減にして下さい!』



 甘ったれた部屋に、冷たく張り詰めた声が響いた。まるで雷でも落ちたかのように、ぴしゃりと言い放たれたその声は、栞のベッドの上から聞こえて来た。


『たとえ誰であっても、それ以上兄さんを侮辱するというなら、妹の私が許しません!』


「……よ、妖花?」


 その声は間違いなく、月宮妖花の声だった。でも、部屋のどこにも彼女の姿は見当たらない。すると栞が、毛布に隠していたスマホを見せ、きまりの悪い顔で謝った。


「ごめん、静夜君。この前、静夜君がウチのスマホで妹さんと電話した時、妹さんの番号をこっそり登録しといたんや。そんで、今までの話、全部妖花ちゃんにも聞いてもらっとってん」


 スマホには、『静夜君の妹さん』と表示されている。通話時間を見ると、静夜がここに来る30分ほど前からスマホは妖花と繋がっていた。


『……栞さんからお電話を頂いたんです。私も今回の件について謝罪したいと思っていたのでお話を伺ったのですが、兄さんの話を聞きたいと言われて、そしてお話をしている中で、そのまま、兄さんのお見舞いを盗み聞くことになったんです』


「ぬ、盗み聞くって」


「あああ、静夜君、それはウチが提案したことであって、妖花ちゃんはなんも悪くないんやで? 怒らんといてあげて?」


「通話を切らなった妖花も同罪だ! 怒って当然だ!」


 スピーカーモードになっているスマホに向かって声を荒げる。あまりにも予想外のことに、静夜は怒り、立ち上がっていた。


『怒っているのは私の方です! 兄さんはずっと自分の事を、そんな風に思っていたんですか?』


「は?」


『兄さんがやって来たことは、本当に無意味で無価値だったんですか? 兄さんが出来損ないだなんて、誰がそんなことを決めたんですか⁉』


「事実だろう? 結局僕には何も出来なかった。《陰陽師協会》を止めることも、お前に勝つことも。……そして今は、妹を協会で働かせて、兄の僕は呑気に学生生活だ。大学に通って、静かな独り暮らしを満喫して、平和な日々を送ってる。……情けなくて、みっともない。それが、お前の兄貴なんだ!」


『――そんなこと、絶対にありません!』


 妹の、こんな激昂を聞いたのは、きっと、これが初めてだった。怒りと悔しさを孕んだ苦しそうな声で、月宮妖花は訴える。


『兄さんが何も出来なかったはずありません。兄さんのしてきたことが、無意味で無価値だったなんて、そんなこともありません』


 妖花は断言する。その自信に対して、兄は「何を根拠に?」と不貞腐れる。


 妹は声に、迷いはなかった。


『じゃあどうして、私は今もこうして生きているんですか?』


 その声は、空気を震わせてはっきりと耳に響く。まるで、自分の心臓の鼓動を想いと共に、その声に乗せたかのように。


『11年前。帰る場所を失くした私に居場所をくれたのは誰ですか? 小学生の時、クラスでいじめられていた私を助けてくれたのは誰ですか? 義父さんが死んだとき、葬儀の準備に奔走しながら、私を宥めてくれたのは誰ですか? 《陰陽師協会》の襲撃から、家と私を命懸けで守ってくれたのは誰ですか? 《陰陽師協会》で働こうとした私を、殺してでも止めようとしてくれたのは誰ですか? ――全部、……全部、全部、兄さんです!』


「でも、結局は何も成らなかった! どうすることも出来なかった!」


『どうして結果にこだわるんですか⁉ 私はただ、兄さんがそうしてくれただけで、……嬉しかったのにッ……』


「…………」


 鼻をすすり上げる音がした。肩が震える息遣いを感じた。電話で姿は見えないのに、妹が鳴いている顔は、すぐに頭に浮かんだ。


『確かに、結果は兄さんの望んだものではなかったのかもしれません。思い通りにはならなかったのかもしれません。……ですが、私はそれだけで、十分でした。……今までの兄さんの行動に、いつも私は救われてきたんです』


 行動に。結果ではなく、その過程に、妖花は涙を流していた。


『それに、兄さんが弱いなんて嘘です。知ってますか? 私はこの三年、もう半分の私を使ったことなんて一度もないんです。使わせたのは兄さんだけ。あの時だって、私は覇妖剣と月宮流陰陽剣術だけで勝つつもりでした。ですが、あのままでは私が負けていました。……兄さんは本当に強かったんです』


「それは買いかぶりだよ。相手が妖花だったから、対策を練ることが出来ただけで。それに今の妖花に、僕は必要ないだろ?」


 三年前がどうだろうと、引導を渡された用済みの兄が今更出しゃばっても仕方ない。


 あの日、立ち上がれない兄を見下ろして、妹は別れを告げたのだ。静夜に背を向けて、《陰陽師協会》の大人たちと歩いて行くその後姿は、彼にとって挫折の象徴だ。


『……一つだけ、後悔していることがあります。三年前、あの決闘に勝った私は、兄さんに何を言えばいいのか分かりませんでした。これ以上、兄さんに無理をしてほしくないというのは本音でしたし、半妖の私が《陰陽師協会》で働けばそれでいいんだと思って、申し訳ない半分、勝ててほっとしていました。でもあの時、私は、兄さんにもっとちゃんと自分の気持ちを伝えるべきでした』


 そして、妖花はあの日の言葉の続きを語る。


『……ごめんなさい、兄さん。でも、これからは、私にも一緒に戦わせてください』


「……え?」


 思わず、息を呑んだ。

 何を言われるのか、と一瞬身構えて、怖くなって、しかし、贈られた言葉は、予想していたどんな言葉とも違っていた。


『……それと今朝のことも、ごめんなさい。兄さんが京都に行ったことを、私への当てつけだなんて言って。……実は私、兄さんが京都で協会の仕事を受けると決めた時、確かに心配でしたけど、本当は少しだけ嬉しかったんです。心強くて、安心できたんです。……兄さんが必要ないなんて、そんなこと思ったこともありません』


「……」


 打ち明けられる本心に、静夜は驚き、茫然する。


 妖花が、そんなことを考えていたなんて、そんな風に想っていたなんて、全然知らなかった。ただ兄として、妹を守らなくてはいけないと、ずっとそればかりを考えていたから。


『いつか、絶対に兄さんに追いついて見せます。ちゃんと兄さんの隣に立って、一緒に戦います。もう兄さんを、ひとりぼっちにはしません』


 さっきまで震えていた声に芯が通る。力強い覚悟と共に、半妖の少女がそんな言葉を送ってくれた。


「……上司が、部下に、言う言葉じゃないな」


 言葉を交わし、心を通わせる二人に、血の繋がりはない。


『ですが、妹が兄に言うには、相応しい言葉じゃないですか?』


 それでも、静夜と妖花は兄妹だった。スマホの通話越し。顔は見えずとも、二人は互いの涙を、笑顔を、心の中の眼で見つめ合っていた。

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