少年だった頃の夢

 三年前。義父ちちが死んだ。


 静夜は、別にそれを悲しいとは思わなかった。出会った頃からすでに彼はかなりの高齢であったし、遺産の整理を少しずつ進めていたことを義理の息子は知っていた。

 故に、悲しくはなかった。それよりも、義父の棺の前で泣き喚く妹を抱き締めて、少年だった彼は決意を新たにしていたほどだ。


 これからは自分が、妹を守っていくんだ、と。


《陰陽師協会》の大人たちが残された兄妹を訪ねて来たのは、義父の葬儀の日の朝だった。


《陰陽師協会》はすべての陰陽師における、最後の砦。


 今回、舞桜がそうしたように、彼らに保護を願えば、《陰陽師協会》はどんな事情を抱えた人でも大抵は受け入れてくれる。


 身寄りを失くした陰陽師の子供たちは、その代表的な一例だ。


 義父の墓に手を合わせた大人たちは、静夜たち兄妹に、《陰陽師協会》の保護を受けるように勧めてきた。

 子供だけで生きていくのは大変だから、と。大人の私たちが守ってあげるよ、と優しくそう囁いたのだ。


 しかし、それが嘘であることを、月宮静夜は知っていた。


 月宮兎角は、静夜を引き取るまで、《陰陽師協会》で働く陰陽師だった。《陰陽師協会》が本当はどういう組織なのか、その正体を、静夜は義父から聞いて知っていた。


《陰陽師協会》は人々を、あるいは世界を、妖の脅威から守るために戦う正義の組織。それと同時に、目的を果たすためなら手段を選ばない悪魔の組織。


 正義という不確かなものを免罪符に、全てを許容する組織の在り方は、高校一年生だった少年の眼には、歪に見えた。

 そんなところに自分を、ましてや妹を預けることは出来ない、と。


 少年が望んだのは、今までと変わらない、ごく普通で平穏な、当たり前の日常。

《陰陽師協会》を辞めて、隠居した義父は、引き取った二人の子供と共に、のどかな田舎町で余生を過ごした。穏やかで平和な毎日だった。

 少年が求めたのはその続き。ただ義父がいなくなっただけで、その他は何も変わらない、いつも通りの日々。そこに《陰陽師協会》なんて物騒なものは不要だった。


 それなのに、あの世界は、少年のそんなささやかな願いすら聞き届けてはくれなかった。


《陰陽師協会》はありとあらゆる方法で、その兄妹に圧力をかけて来た。

 例えば、兄妹が相続するはずだった義父の遺産を差し押さえた。

 例えば、保証人がいないと、未成年だけでは申請出来ない、法的手続きを要求してきた。

 だが、そんな細々とした嫌がらせは序の口に過ぎない。もっと分かりやすくて手っ取り早い圧力がある。


 それが、実力行使だ。


 彼らは組織という物量を武器に、権力を振りかざし、その理不尽な要求を子供に容赦なく突き付けて来たのだ。


 それを相手に、月宮静夜は戦った。妹を庇って、たった一人で戦った。


 覚悟の上だった。こうなることは分かっていたから。

 それでも、何が何でもやり遂げなければならないと少年は思っていた。諦めるつもりなど毛頭なかった。それまでと何も変わらない、平凡で普通で、何気ない毎日を、妹の笑顔を守るためだから。


 月宮静夜は戦った。時には口舌で、時には実力で。出来ることは全てやり尽くした。出来ないことでも押し通した。


 高校生活を蔑ろにしてでも、大人たちと罵り合った。


 夜通しで、何百人の敵を相手に戦った日もあった。明け方まで戦い続けてもなお、彼は決して倒れることなく、家を背にして立ち塞がった。


 朝まで戦い、血と汗を清水で洗い流したら、いつも通りに家事をこなして、ベッドで眠る妹を起こす。笑い合って朝食を食べたら、少年はまた、戦いに赴く。


 その日々は確かに辛かった。地獄だった。


 それでも、少しの我慢だと思った。この戦いに勝って、平和な毎日を取り戻すのだと、強い決意は揺るがなかった。


 今思い返せば、あの時の日々は、月宮静夜の人生の絶頂だったのかもしれない。


 それもたった三日で終わったけれど。


 終わらせたのは、妹からの一言。


『……私ね、《陰陽師協会》で働こうと思うの』


 それは、彼が最も恐れていた一言だった。


『ど、……どうしたんだよ、急に』


 急にも何もない。義父が旅立ってまだ一週間、葬儀が終わってまだ四日。心の傷も癒え切らない、朝日がまぶしい朝食のテーブルでのこと。


『《陰陽師協会》の人たちは、私が欲しいんだよね? だから、私が働くって言えば、それでいいんだよね?』


 妹が強がるような笑顔で言う。

 兄は思わず立ち上がり怒鳴った。


『い、いいわけないだろ! 絶対ダメだ! 言っただろ? 俺がちゃんと説得するって! あとちょっとだ。あとちょっと頑張れば、あの人たちも諦めてくれる! だから、妖花がそんなことする必要はないんだ!』


『でも、お兄ちゃん、もうボロボロだよ?』


 それを言われて、彼は初めて気が付いた。自分が、壊れかけているということに。


 たった三日。……たった三日だ。


 決死の覚悟で戦いを挑んだ。決して諦めないと義父の御前に誓った。

 それが蓋を開けてみれば、少年の心と身体は、たった三日で悲鳴を上げていた。自分でも気付かなかった。まだまだやれると思っていた。まだまだ出来ると思っていた。


 愚かな少年は、己の恥を思い知った。


 彼は奢っていたのだ。妹を守る兄の姿に陶酔して、自分を見失っていた。

 妹には、見抜かれていた。


『……お兄ちゃんこそ、もうやめて? これ以上頑張ったら、お兄ちゃん、殺されちゃうかもしれないよ? ……お兄ちゃんがどれだけ抵抗しても、あの人たちは、絶対に諦めない。だって私を手に入れるためなら、お兄ちゃんは死んでもいいって思ってるから。《陰陽師協会》ってそういう人たちでしょう?』


 妹は、月宮妖花は、ちゃんと見抜いていた。《陰陽師協会》の目的も、その考えもすべて。


 事実、その通りだった。


《陰陽師協会》は最初から、兄の静夜のことなどは眼中になかった。殺しても構わないとさえ思っていたはずだ。彼らが欲しいのは、本当に求めていたのは、月宮兎角の後継者ではなく、月宮妖花という唯一人。


 妖花は笑う。寂しそうに、悲しそうに。

 少女は生まれ持った銀色の髪を靡かせて、翠色の瞳に涙を滲ませた。


『だって私、半妖だもん』


 母が妖。父が人。交わるはずのない二人が出会い、愛し合い、生まれ落ちた奇跡の子。それが『妖花』。

 陰陽師の世界でも彼女が半妖であることを知る人は少ない。父親が陰陽師ですらないただの人間だったというのもあるが、妖花のことを見つけ出した《陰陽師協会》が、今でも巧妙に、妖花の出自を隠蔽しているからだ。


 彼らはずっと、妖花の事を狙っていた。《陰陽師協会》の戦力、または研究材料とするために。


 妖花は、五歳で天涯孤独となった。

 妖だった母は、妖花を産むために命を燃やし尽くし、

 人だった父は、妖花の力を抑えるために人柱となって他界した。


 ひとりぼっちになった妖花を《陰陽師協会》が保護しようとした時、月宮兎角がそれを横取りする形で彼女を引き取り養子としたのだ。

 そして、静夜と妖花は兄妹になった。


 それからは平和な毎日を繰り返した。義父の威光の下では《陰陽師協会》も手を出して来なかった。


 しかし、彼らは諦めていなかった。協会はずっと待っていたのだ。月宮兎角が死ぬ時を。月宮兎角が鍛えた、半妖の娘を公明正大に手に入れられる、その好機を。


 彼らはなんとしても、『月宮妖花』を手に入れようとしていた。


 故に、静夜は一人で戦った。決して妹に悟られるわけにはいかなかった。笑顔を見せ、疲れを隠し、一人で乗り切ろうとした。


 自分ならできると、己を信じて。出来なくてもやるんだと、己を鼓舞して。


 それなのに、失敗した。静夜は妖花に、自分から《陰陽師協会》のものになる、と言わせてしまった。


 それでも、――


 兄は諦めなかった。妹の提案を断固して許さなかった。もちろん、妹も譲らなかった。


 兄妹に残された手段は、ただ一つ。


『俺は絶対に認めない。兄の言う事がどうしても聞けないっていうなら、力づくで分からせてやる』


『無理だよ。もうお兄ちゃんじゃ、私に勝てないよ』


『やってみなきゃ分かんないだろう?』


 こうして、月宮家史上最大の兄妹喧嘩は、決闘という名の殺し合いにまで発展した。


 勝った方が《陰陽師協会》で働く。負けた方には如何なる抗議も許されない。それがルール。三年前の約束。

 わがままな妹と、欲にまみれた《陰陽師協会》、その双方を納得させるには、兄の方が妹よりも強いということを示す以外に方法はなかった。


 月宮流陰陽剣術を極め、義父から一族に伝わる霊剣〈覇妖剣〉を受け継ぐまでに至った妖花の実力は紛れもない本物。月宮兎角の後継者としても、妹は兄よりも圧倒的に優れていた。


 故に静夜は、策を弄した。


 剣を構える妹に、兄は銃を向けたのだ。得意の現代陰陽術を遠慮なく使い、さらには罠を仕掛け、幻術も結界術も自分が使える術は全て使って、卑怯と罵られても仕方のないような奇策をいくつも重ねた。負けるわけにはいかなかったから。


 そして、圧倒的な力の差を前に、静夜は妖花を翻弄し、追い詰めた。彼は勝利を確信した。その瞬間、


 少年の仕掛けた数々の小細工は、もう半分の『妖花』によって、その全てが吹き飛ばされた。


 侮っていたわけではない。油断していたわけでもない。ただ、兄は知らなかったのだ。

 まさか妹が、妖花が、あれほどまでに妖としての力を制御できるようになっていたことを。


『偽りの栄光を簒奪せし妖花』


 それが、月宮妖花のもう一つの名前。世界を滅ぼすことも出来る破滅の力。


 あの時の光景を、静夜は今でも鮮明に覚えている。


 少女の頭には三角の耳が二つと、腰からは白銀の尻尾が二本も垂れて、その姿は神々しく輝いていた。いや、尻尾は二本だけだった、というべきなのかもしれない。


 妖花は、準備していたのだ。この時の為に。こういう時の為に。兄には内緒で、義父と二人で、自分の生まれ持った運命と戦う準備を整えていた。


 まっとうに鍛え上げられたその業物の力を前に、少年の用意した付け焼き刃は、なまくらに過ぎた。

 結局、月宮静夜は惨敗した。妹にあしらわれるように、あっけなく、情けなく。


 そうして、妖花は《陰陽師協会》の陰陽師として働くことになった。静夜は、仕事を受けることもなく、それまで通りの高校生活に戻った。ただ一人、彼だけが、義父がいた頃とほとんど変わらない平和な毎日を送ることになったのだ。


 少年の夢は、叶わなかった。

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