妖に愛された呪いの子
野次馬たちが再び慌てふためき騒ぎ出す。動揺は人から人へと伝播して、通りの人々は先程よりも酷い混乱を引き起こした。
我先にと逃げ出す群衆の中から、妖犬たちは的確に、本来のターゲットの姿を捉える。
やはり、狙いは舞桜だった。
ワン! と吠え、走り出す二匹。右往左往する人間たちの間を縫って、稲妻の如く駆け上がる。舞桜は人混みの真ん中で、妖犬の位置を上手くつかめずにいた。
静夜は咄嗟に唱える。
「――〈
二匹が同時に飛び掛かる寸前で、その結界は間に合った。だが、二匹の頭突きを受けただけで、結界には大きなヒビが入ってしまう。
「舞桜!」
「分かってる!」
叫ぶと同時に結界を解く。妖犬の姿をようやく捉えて、朱色の瞳には闘志が宿った。
「――我が名に集え、我が身を満たせ、我が魂を犯して喰らえ。されば汝の偉大なる威光は、我が命に宿りて報いるべし。――開門!」
夜空に浮かぶ月明かりに導かれ、彼の妖が舞桜の下へと降臨する。力の奔流を纏った少女の髪は、鮮やかな桜色に染まった。
「――祓え!」
呪符を投げ、妖犬たちに攻勢を仕掛ける。だが、呪符を当てても滅却には至らず、妖犬は怯むこともない。一匹が舞桜の背後へ素早く回り込んだ。
「静夜、そっちは任せる!」
言われるより速く静夜は銃を構えた。三発撃って命中させるが、凄まじい妖力を持つ妖犬には、鉛の弾も雨粒の如く、足が縺れることすらない。
昨日の群れとは格が違う。
45口径のオートマチックを腰のホルスターに戻すと、今度は脇に手を入れ、50口径のリボルバーを引き抜く。装填数は少ないが、威力はこちらの方が強い。
これならどうだ、と静夜は狙いを定め、引き金を絞る。
――ダン! と、重低音の銃声が轟き、回転式拳銃は火を噴いた。凶弾は妖犬の頭を撃ち抜き、その身体は向かい側の店内まで吹き飛んで行く。
「よし!」と思ったがしかし、妖犬はすぐに立ち上がり、猛々しく吠えて健在を示した。体を震わせ汚れを払うと、今度は静夜の方をしっかりと睨んで牙を剥く。
狂気と殺意に満ちた獣の息遣いに、静夜は身震いした。
こうなるともう為す術がない。今の静夜は、このリボルバー以上の火力を持ち合わせていないのだ。
舞桜の方も、憑霊術を使って一匹と互角に戦うのが精一杯のようで、このままだといずれジリ貧になってしまう。
戦況は明らかに劣勢だった。
その時、舞桜の叫びが耳に届く。
「静夜、結界で二匹を一ヶ所に足止めしろ!」
「え?」
「いいから、今、すぐ!」
言われた直後、呪符を回避した妖犬が、静夜と対峙するもう一匹の近くまで後退してくる。考えている暇はなかった。
「――臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。境界を敷きて、彼の者を縛り給え。〈
舞桜に言われるがまま印を結ぶと、結界によって二匹はその空間に抑えつけられる。だが妖犬たちの抵抗は強く、静夜が合掌する両手はもの凄い力で引き剥がされそうになる。
「ダメだ。すぐに破られる!」
「いいや、十分だ」
吹き抜ける風の如く、桜色の舞桜が一瞬で静夜の目の前に現れる。その手には一枚の呪符。新品なのに血の付いた、上質で特殊な呪符が握られていた。
「まさか、さっきの《平安会》の陰陽師が店で買っていた、――」
「そのまさかだ!」
呪符を地面に叩きつける。凛とした声で美しい詠唱が始まった。
「――青龍、白虎、朱雀、玄武!」
この呼び掛けに答えたのは四枚の呪符。妖犬たちの四方を取り囲んで置かれたその四枚は、青、白、赤、黒の順にそれぞれの色の光を放って浮き上がり、妖犬たちの激しい抵抗をねじ伏せる。
「――天高く舞い、地を猛く蹴り、数多の心憂きを赦し給え」
圧倒的な法力が言の葉と共に流れ込む。四色の光は繋がって広がり、やがて大きな法陣を描いた。
光と力が溢れ出す。桜色の髪を靡かせて、舞桜は最後の一節を唱えようとする。だが、
「――ッ! ま、待て! 私は、……まだ!」
舞桜の慌てる叫び声が詠唱の旋律を乱した。突然、彼女に憑依していた妖が、その存在と力を一瞬にして消失させたのだ。
舞桜の髪の色が元に戻る。発動寸前だった法陣は光と力を失い、沈黙する。
「おい、ふざけるな! こんなところでッ……!」
声を荒げて抗議しても、舞桜の元にその妖が戻って来る気配はない。
追い込まれていた妖犬たちは、術の不発を感じ取ると本来の威勢を取り戻し、よくも驚かせてくれたな、と言わんばかりにさらに強い殺意を向けて来た。
一方、舞桜は膝をついてうずくまる。真冬なのに汗をかいて、肩は激しく上下に揺れていた。華奢な身体が全身で限界を訴えているようだ。
無理もない。四神法陣を一人で展開させるには、それだけで尋常ではない量の法力を求められる。いくら憑霊術の力があったとしても、法陣の力をあそこまで高めれば、術者の精神が擦り切れるのも当然。意識が飛ばなかっただけでも幸いと言うべきだろう。
「……静夜、銃を貸せ」
「……え?」
「だから、銃を貸せ!」
それなのに、舞桜はその幸運を知ってか知らずか、よろけながらでもなんとか立ち上がろうと、もがいていた。
「む、無茶だ! その身体じゃ今日はもう戦えない」
「うるさい! 私は、こんなところであっけなく、倒されるわけには、……!」
必死に何かを訴えようとするが、舞桜の両足は生まれたての小鹿も同然で、妖犬にとって格好の得物だった。まさに今が仕留め時。静夜も終わりを覚悟した。
――ピィィィイイ!
突然、耳を劈くほどの高音が鳴り響くと、妖犬たちはその動きをピタリと止める。
先程までの鋭い殺気が嘘のように、二匹の妖犬はその音にピクリと耳を動かして反応し、まるで飼い主を探すように周囲をキョロキョロと見渡し始めた。
「な、なんだ?」
二人は警戒を怠らないまま妖犬たちを観察する。
やがて奴らは、目の前にいる獲物のことなどすっかり忘れてしまったような様子で、闇市の通りから走り去って夜の暗闇の中へと消えてしまった。
唐突過ぎる撤退に、静夜も思わず面食らう。
「……あれは、犬笛?」
「誰かが、今の撤退を指示したということか?」
「たぶん。でも、なんで?」
静夜も舞桜も状況が呑み込めていない。ただ、命拾いをしたのは確かだった。
長い静寂が闇市の時を止める。あの妖犬たちが戻って来ないと分かった人たちは一回目の時よりもさらに恐る恐る、少しずつ店内から姿を現し始める。
「舞桜、とりあえず、早くここを出よう。このまま変な注目を浴びるのは不味い」
「あ、ああ、そう、だな……」
未だふらつく足で舞桜はゆっくりと立ち上がり何とか歩き出す。静夜は自分の身体で、舞桜の姿を隠すように歩いた。背中に刺さる野次馬の視線がかなり不気味だ。
「……舞桜だ」
不意に誰かが、少女の名前を呟いた。
「舞桜だ」「舞桜だ」「竜道院舞桜だ」
すると、次から次へと、闇市の人々は少女に目を向け、その名前を唱え始める。
静夜は背筋に悪寒が走って、思わず足を止め振り向いた。そして、後悔する。
人々が舞桜を見つめるその視線には、妖や化け物といった類に向けるものと、全く同じ種類の嫌悪と拒絶が込められていたからだ。
「……行くぞ」
舞桜は、立ち止まることなく静夜を促す。この視線に込められた意味を、彼女は既に知っているようだ。
有名人? 人気者? いいや、違う。
人々が彼女を知っているのは、そんな誇らしい理由ではない。
「呪いの子」「なぜここに?」「《平安会》が閉じ込めていたんじゃなかったのか?」「見てはいけない、呪われる」「今すぐ塩を準備しろ」「あの娘が来たから、あの妖たちが襲ってきたんだ」
人々が彼女を知っているのは、もっと恐ろしくて、悲しい理由。
「……あれが舞桜。竜道院舞桜。……妖に愛された呪いの子だよ」
それはまるで、少女に染み込む呪いような重くて苦しい残響だった。
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