仕返し

 静夜が講義室に戻ると、既に4コマ目の授業が始まっていた。身をかがめてこそこそと栞の隣の席に戻ると、スマホを返し、代わりに確保してもらっていた講義のレジュメを受け取る。


「ごめん、ありがとう」


「ううん。それにしてもゆっくりやったね、なんかあったん?」


 顔を覗き込む栞に勘ぐられないよう、静夜は笑って平静を装う。


「なんでもないよ。いくら家の中を探しても僕の頼んだものが見つからないから、電話をかけて来たんだ。場所を教えて見つけてもらうのに、思ったより時間が掛かっちゃって……」


「そうなんや」


 栞はそれ以上この話を掘り下げることなく、あっさりと頷き、教授の方へ向き直る。気取られなくてよかった、と静夜は安堵したが、


「それにしても、静夜君に妹さんがおったなんて、ウチ、全然知らんかったなぁ……」


 別の問題が起こった。


「あ、あれ? 言ってなかったっけ?」と言って誤魔化しを試みるも、


「ううん、初めて聞いた」と栞はきっぱり否定する。


 当然だ。話した覚えは静夜にもない。

 別に隠していたわけでもないが、妹の事を話すのは少々面倒なのだ。


「妹さんも陰陽師なん?」


 そんな静夜の焦りをよそに、栞は妹に更なる興味を示す。


「……う、うん、一応」


 こうなったら、もう観念して答えるしかなかった。


「何歳?」


「16歳。今は高校二年生」


「家の弟と同い年やね? 静夜君に似とる?」


「いや、血が繋がってないから、全然似てないよ?」


「え、そうなん?」


「僕も妹もそれぞれ幼い頃に両親を亡くしてて、義父さんの養子として引き取られて、兄妹になったんだ」


「……そ、そうやったんや……」


 栞の顔に、聞いてはいけないことを聞いてしまった、という文字が浮かぶ。


「別に気にしなくていいよ? とっくに割り切ってることだから」


「……せ、せやったら、ご実家は今、そのお義父さんと義妹さんの二人暮らしなんやな?」


「ううん。義父さんは三年前に天寿を全うしたから、今は妹も独り暮らししてる」


「そ、そうやったんや……」


 聞いてはいけないことを聞いてしまった、という顔が再び。


 だから面倒なのだ。


 暗くなってしまった栞の表情を晴らすため、静夜は努めて明るい声を出す。


「大丈夫だよ。義父さんは元々かなりの高齢だったし、死ぬ前には陰陽術をいろいろと教えてくれたし、死んだ後は遺産もかなり残してくれた。今だって不自由していることは何もないんだ。栞さんが心配しなくてもいいんだよ?」


「……せ、せやけど、妹さんの方は……?」


「そっちはもっと大丈夫だよ。あの子は僕よりずっと優秀で、力も心も強いから」


「……ほ、ほんまに?」


「ほんまに。仕事の上では、僕の方が部下なんだから」


「せやったらええねんやけど、……もし、何か困ったことがあったら、遠慮なくウチに言ってな。何でも助けになるさかい」


「……うん、もしもの時は、そうするよ」


 その答えに満足したのか、栞は静夜から返されたスマホを弄り始める。


 どうやら、妖花の説明はここまでで十分のようだ。


「静夜君の妹さんかぁ……」と栞は何やら感慨深げに独り言をつぶやいていたが、スマホを仕舞うと真剣に講義に集中し始めたので、静夜もそれに倣い、真面目に講義を聞くことにした。



 大学の時間割は人それぞれで、康介のように午前中でその日の講義が終わる人もいれば、静夜や栞のように、夕方まで授業を受けている学生もいる。


 彼らの通う大学の文学部の一回生は、そのほとんどが4コマ目まで授業を入れており、それが終わると多くの学生たちがキャンパスを出て、各々の帰路につく。

 そんな人々の流れに乗って家に帰ろうとする静夜を、栞は「たまにはサークルに顔出せへん?」と誘ったが、「今日は用事があるから」と断った。


 クロスバイクに跨り、静夜は今朝、自分が目を醒ました冷たい廊下に辿り着く。時刻は16時30分。いくら彼女が惰眠を貪っていても今なら間違いなく起きているだろう。それに、あの子がちゃんとこの部屋の中にいることは間違いない。静夜には確信がある。


 ピンポーン、とインターホンを鳴らし、ドアを三回強めにノックする。


「……僕だ。今帰って来た」


 すると、部屋の中からドタバタと物音がして、少女の足音が近付いて来る。


「……お前、今までどこで何をしていた?」


 ドアの向こうから、腹の底で怒りを煮えたぎらせたような声が聞こえた。

 舞桜がドアを開けようとする気配はない。いや、ドアを開けることが彼女には出来ないのだ。


「別に? 普通に大学で授業を受けてただけだよ?」


 悪びれることなくしれっと答える。舞桜が怒っている理由を、当然静夜は知っていた。


「お前、大学に行く前にこの部屋の結界を強化しただろう? このドアも窓も開けられないようにして、私をこの部屋に閉じ込めたな」


「閉じ込めるなんて人聞きの悪い。君が僕を閉め出して、そのまま寝ちゃったみたいだから、君の安全を最低限確保するために仕方なく、結界を強化したんだよ」


 一応、嘘ではない。

 警備の薄いワンルームマンションの部屋の中に保護対象を独り残して、呑気に大学に行くほど、静夜は仕事に対して不真面目ではないのだ。


「だが、私が勝手に外を出歩かないように監禁する、という目的もあっただろう?」


「まあね」


「いい度胸だな、アルバイト陰陽師」


「そうは言うけど君ね、こっちは真冬の凍える朝に着の身着のままで廊下に放り出されてたんだ。これくらいの報復は安いもんだろう?」


 外に出ようとした舞桜が、カギを開けても、ノブを回しても、ドアが動かないと分かった時の絶望と怒りは、今朝の静夜が味わったそれに匹敵するものがあっただろう。うん、これでお相子だ。


「さあ、君が十分に反省したというなら、僕に謝罪してくれないかな? 僕を追い出して部屋を占拠してごめんなさいって。素直に謝れば、僕もこの結界を元の強さに戻してあげるよ?」


「断固として拒否する! 謝るのはお前の方だ!」


 反発する舞桜。一方の静夜も、この一件で謝るつもりは毛頭なかった。


 仕方がない。ならばこの手を使うとしよう。


 静夜は右手に持っていたビニール袋をおもむろに掲げて、ドアスコープから中身を舞桜に見せてやる。そこからは暖かい蒸気と美味しそうな香りが昇って来ていた。


「こ、これは……!」


「君、お腹空いてるだろう?」


 思った通りの反応に、思わず静夜は笑みを深める。


「ベ、別にそんなことは……」


「僕の記憶が正しければ、今その部屋にはロクな食べ物がなかったはずだ。結界に阻まれて買いに行くことも出来ず、出前を頼んでも受け取れない。……気が立っているのは、もしかしたら空腹のせいかな?」


「……」


「君の好みなんて知らないから、独断と偏見でコンビニ弁当を三つほど用意してみた。二つまでならあげてもいいかなって思ってるけど、君がカギを開けてくれないと、物理的に絶対渡せないな……」


「ぐッ、……ぬぬぬぬぬ」


 ドアの向こうから、声にもならない悲鳴が聞こえる。


「ちなみにメニューは、唐揚げ弁当、かつ丼、牛カルビ弁当だ。……どれが食べたい?」


「……だ、だから私は――」


 ――ぐぅうううう。


 舞桜は意地でも認めないつもりだったのだろうが、正直者のお腹の虫は、我慢出来ずに音を挙げて、言葉の続きは聞こえなかった。



 暖房の利いた室内で、舞桜は一心不乱にかつ丼を頬張っている。

 迅速かつ早急に、それでも行儀のよい所作で、カロリーを体内へ吸収していくその様は、まさに鬼気迫るといった具合だ。


「……ま、まさかそこまで飢えていたとは知らなかった……」


 静夜はそれを見ながら、食欲そそるお肉系弁当ばかりを選んだことに後悔していた。


 テーブルの上にはすでに空になった弁当が二つ。いつの間にか自分の夕食の分まで食べられていたのだ。呆気に取られて止める暇もなかった。


「……昨日の昼から何も食べてなかったからな」


 舞桜はそう言いながら手を止めることなく食べ続けていく。


 ――モグモグ。――ごくん。


「ごちそうさまでした」

「……お、お粗末様でした」


 米粒一つ残すことなく綺麗に完食された弁当を見て、この食費は協会の経費で落ちるのだろうか、と静夜は不安に思う。


「……それで《陰陽師協会》は何と言って来た?」


 お腹を満たして口元を綺麗に拭った舞桜は、お茶をすすりながら静夜に問うた。

 もう少し謙虚な態度でもいいのに、と思いながら、静夜は妖花から聞いた話をかいつまんで舞桜に伝えた。さらに、ようやく手に戻った自分のスマホから、妖花の言っていた妖犬に関する資料と新しい仕事の依頼書を呼び出して、こちらについても説明する。


「なるほど、まずは私を試そうというわけか」


「もしかして、やる気なの?」


 静夜は少し意外に思ったが、一方の舞桜は朱色の瞳に決意を宿して立ち上がる。


「当たり前だ。私には結果が必要だ。《平安会》の首席になるためには、他の奴らを納得させられるだけの功績を作らないといけない」


「……結果、ねぇ。まあ、その理屈は理解できるけど、あんまり派手に動き回るのは今はやめといた方がいいんじゃないかな?」


「じゃあ目立つ場所や行動を避ければいい。それにこの仕事なら、そんな心配はするだけ無駄だろう?」


「それはまあ、確かにそうかもしれないけど……」


 協会からの新しい仕事というものは、思ったよりもかなり地味なものだった。舞桜の力を測ると言ってもこれではもしかしたら、戦闘が起こる事すらないかもしれない。それくらい退屈で華のないお仕事だ。

 それでも舞桜は動こうとする。いや、動かなければならないと、朱色の瞳はそう語っていた。


 冬の日は速く、窓から見える空は、もうすっかり夜の帳を降ろしている。


「……大丈夫だ。月もある」


 舞桜はベランダから外の様子を確認すると、何やらよく分からないことを呟いていた。

 開け放たれた窓から冷たい夜風が入って来る。

 暖房で淀んだ室内の空気と、乾いて張り詰めた外の空気が交わり、入れ替わって、静夜の胸はざわついた。

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