学生の街、京都

 結局、舞桜は電話に出なかった。


 静夜は自分のスマホが粉砕されているのではないかと少し心配になったが、GPSは生きているようなので、とりあえずは安心する。


 さすがに、このまま彼女が起きるのを呑気に待っているわけにはいかないので、静夜は下宿の部屋にちょっとした細工を施して、康介と一緒に大学へ向かうことにした。


 京都とは、学生の街である。


 平安の時代から天皇の住まう都として発展を続けて来たこの土地には、日本の文化と歴史が息づき、今では、特に文系の学部や大学が多く集まる場所になっている。

 狭い市内には、いくつもの有名大学がキャンパスを構え、そこには毎年多くの学生たちが国内外を問わず集まってくる。街を少し歩くだけでも、学生の多さは十分に感じ取れるだろう。


 だが、すべての学生が学問に熱心かと問われると、残念ながらそうではない。そういう真面目な学生は一握りで、多くの場合は、現在の静夜の隣で居眠りを続ける康介のように、彼らの実態は適当だ。


 本日の1コマ目の授業は英語。静夜が通う大学の文学部の学生は、専攻を問わず必須の科目となっており、学生のレベルに応じて30人程度の少人数クラスに分けられ、講義が実施されている。

 それなのに、今この教室にはクラスの半分の15人ほどしか学生が見られない。


 近頃は、冬の寒さも本格的になって来た。特に今日のような凍える日には、康介でなくても授業をサボりたい学生が多いのだろう。ネイティブの白人英語講師も特に気にすることなく淡々と授業を進めている。

 静夜はそれを話半分に聞き流しながら、途中で先生に怒られる康介を見て、苦笑を漏らしていた。


 90分で授業が終わると、静夜たちは、人がまばらな学生食堂で席を取る。二人共、2コマ目は授業がない、いわゆる空コマのため、静夜は康介からノートパソコンを借りて、今日が提出期限のレポートを書くことにする。

 一応弁明しておくが、サボっていたわけではない。忘れていたわけでもない。残り少しというところまで書き上げていたデータが舞桜と一緒に部屋の中で眠っており、改めて書き直すしかないというだけなのだ。本当だ。


 しかし、千字程度の軽い宿題とはいえ、締め切りが目前に迫って白紙状態では、さすがに焦る。図書館から借りていた資料も今は手元にないので、静夜は困り果てて手が止まっていた。


「……何?」


「いや別に? 締め切り直前に焦ってお前に泣きつくのはいつも俺だからさ。逆の立場になるとなんか優越感に浸れるよなって思って」


 康介はニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべて、追い詰められた静夜の表情を楽しんでいる。なんとも嫌な奴だ。


「でも大丈夫なのか? 静夜って実はそんなに頭良くないだろう? 俺その授業取ってないし、お前ひとりで何とか出来んの?」


 さらに残念な事実をはっきりと口にして追い打ちを掛けて来るとは、つくづく嫌な奴だ。

 これは、静夜も本気を出す必要がありそうだ。


「大丈夫。既に手は打ってあるから」


 得意気な顔で答えたその時、康介のスマホがメールを受信して、小さく震えた。



 それから一時間半――。


「出来た」


 力強くエンターキーを押して、静夜はレポートの完成を告げた。


 スマホゲームに興じていた康介はその手を止めて、「お、どれどれ?」と薄すぎるノートパソコンの画面を覗き込む。一通り読み終えると、


「この程度のレポートに二コマ目の時間を全部使うとか、やっぱ静夜って見た目の印象と頭の出来がちょっとズレてるよな」


 と、かなり胸を抉る嫌味な感想を真面目な顔で口にした。


「い、いいじゃないか、別に。それに時間かけただけあって中身はちゃんとしてるだろう?」


「あんなに丁寧なヒントを貰ったんだから、これぐらいは当然だって」


 それを言われてしまうと、静夜はもう何も言い返せない。

 レポートを始める前、康介のスマホに送られてきたのは、別の友人からのアドバイス。同じ講義を取っている彼女に助けを求めることで、静夜は何とかこの窮地を脱したのだ。


「で、そのヒントの送り主とはどこまで進んだんだ?」


「は?」


「は? じゃねぇよ。文学部一の美女とどこまでヤッたかって聞いてんだよ」


 いやらしい笑みを浮かべて顔を近づけて来る康介に、静夜は心底迷惑そうに顔を顰めた。


「いい加減、そのネタで僕をからかうのはやめて欲しいんだけど?」


「ネタじゃねぇって! お前ら、付き合ってんだろう?」


「いや、全然?」


「あんなにいつも一緒にいるのにか?」


「同じ文学部でも、君は心理学専攻で、僕と彼女は日本文学専攻。君とより、彼女と同じ授業になることが多いのは当然だろう?」


「でも、授業以外でもよく一緒にいるじゃん?」


「サークルも同じだからね」


「それはもう恋人じゃん!」


「……なんでそうなる?」


 首を傾げる。理論が全く構築されていない。


「まあでもさぁ、ぶっちゃけお前としおりちゃんって、お似合いだと思うんだよねぇ」


「……そうかな?」


「顔は全然釣り合ってねぇけどな(笑)」


「それは知ってる」


「あ、頭もか(笑)」


「それは言わなくていい」


「でもお似合いだと思うのは本当なんだって。なんか栞ちゃんってさ、お前と一緒にいるときは笑顔が多いっていうかさ、安心してるように見えるんだよね、なんとなく」


「…………そうかな?」


「絶対そうだって。だからお前からアタックすれば絶対に落せるって! 間違いない!」


 康介は、相変わらずふざけているように見えて、今度は割と真剣な表情で力強く断言してくる。理屈ではなく、直感で何かを確信しているのだ。


 同時に、静夜も康介が語るその「もしも」の話に、それはそうもしれない、と他人事のような投げやりさで納得していた。


 別に、これは自意識過剰でも、自信過剰でもなんでもない。

 ただ、アプローチの掛け方次第では、そんな未来が起こり得るかもしれない、という客観的な計算の結果として、そう思い至っただけである。


 何故なら彼女には、月宮静夜を頼る明確な理由があるから。


 その時、チリン、チリン、と跳ねるような鈴の音が、学食の喧騒を掻き分けて耳に届いた。


 2コマ目の講義が終わり、人で溢れ返りそうになる学食の中、澄み切った鈴の音は心地の良い音を弾ませて、真っ直ぐ静夜たちの元へ近付いて来る。


「おったおった! 静夜君、康君! おはよう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る