禁術

「ッ!」


 その瞬間、舞桜は息を殺して、既に晒した動揺を悟られまいと平静を装う。だが乱れた呼吸と震える瞳から、彼女の内心は静夜に筒抜けだった。


 思い出されるのは、妖犬が舞桜に迫ったあの一瞬。

 彼女の反応は明らかに遅く、呪符を取り出す動きもぎこちなかった。実戦に慣れていない証拠だ。


 それに、彼女は今も先程取り出した呪符を握りしめているが、そこからは一切の法力ほうりょくを感じない。たとえ印を結んで唱えたところで、念のこもっていない呪符では、小さな妖の一つも倒せないだろう。


 陰陽師の世界に身を置く者なら、知らぬ者はいない京都の名門、竜道院家りんどういんけ。次男の娘ともなれば、どんな箱入り娘でも噂を聞かないということはあり得ない。


 それが今の今まで気配すら見せなかったとはいうことは、竜道院家が彼女の存在を意図的に隠していたということ。そして、それが突然、表に飛び出し、《陰陽師協会》の遣いと接触した途端に命を狙われた。


 それらの事実が示す真実は、つまり、


「――竜道院の血を引きながら陰陽術を扱えない一族の恥さらしだから」


「……な、なんだと?」


「……違うの?」


 少女の眼を真っ直ぐに見返して、静夜は真偽を確かめようとする。


「お前も、私を馬鹿にするのか?」


 冷たく燃える朱色の瞳は怒りと殺気を滲ませていた。


 月が雲に隠れた常闇でも、この距離だと端正に整った少女の顔立ちはよく分かる。寒さで赤くなった鼻先に乾いた唇。心を見せまいとする硬い表情は険しくて、屈辱に歪んでもなお、静夜を睨む眼光に淀みはなかった。


「……いや、そんなつもりで言ったわけじゃない。でも、ごめん。気を悪くしたのなら謝るよ」


 静夜は自分の浅慮を悟る。なるべく真摯な声で頭を下げるが、一度口にした言葉は決して取り消せない。彼の言葉にむきになったのか、舞桜は静夜の前に出ると、結界の外に屯する妖犬の大群と対峙した。


「……別にいい。私が足手まといだと思うなら、お前は私を置いて逃げればいい」


「え?」


 突然の提案に、静夜の表情は歪む。


「奴らの狙いは私だ。私が囮になれば、その怪我でもお前はなんとか逃げ切れるだろう?」


「ふざけてるのか? 呪符もまともに使えないのに、こんな状況をどうにか出来ると思ってるの?」


「どうにかする必要はない。囮が務まれば、お前はそれで満足だろう?」


 その一言に、静夜は静かな怒りを燃やした。


「……見縊みくびるな」


 その物言いは、聞き捨てならない。


「僕はこの程度の怪我で死ぬほど弱くはないし、敵の大群のど真ん中に年下の女の子を置いて一人で逃げるほど、クズでもない」


 生きている右手と左足を使って、何とか立ち上がり少女を見下す。


 舞桜は顔だけを静夜に向けて再び睨み返した。


「……その怪我で、お前に何が出来る?」


「君こそ、何も出来ないなら、何もするな」


 互いに、精一杯の侮蔑と嘲笑を込めて言い放つ。

 静夜も舞桜も引く気はなかった。


 その時、結界の外の喧騒が増す。


 見ると結界の所々にはひびが走り、妖犬たちはあと少しと言わんばかりに攻勢を強めていた。

 もうそろそろ、限界だ。


 静夜が悟った次の一瞬、結界は押しつぶされ、飢えた妖犬たちが一斉になだれ込んで来る。


 額に滲む冷や汗。冬の夜風に、流れた血は凍る。圧倒的劣勢。希望を見いだせない戦場。その深淵に――、


 ――微かに、雲の合間から月の光が差し込んだ。


「……お前の方こそ、私を見縊るな」


 舞桜が呟く。押し寄せる敵。生死を分ける一秒に、それは場違いな反論。

 それなのに、何故か静夜の耳には、少女の声が鮮明に届いた。


「確かに私は、まともな陰陽術が扱えない。でも、何も出来ないとは言っていない」


 敵を忘れて振り返る。

 凛と響く声の主は、その小さな体で天に輝く月を仰いだ。


「――我が名に集え。我が身を満たせ。我が魂を犯して喰らえ。されば汝の偉大なる威光は、我がめいに宿りて報いるべし!」


 穏やかに唱え、結びを告げる。


「――開門」


 その刹那、触れることすら許されない禁忌の扉が開け放たれた。


 顕現するのは、世界に溢れるありとあらゆる呪詛、怨念、そして虚無。すべてが収束するその中心で、齢十四の少女は慄然と佇み、己を呑み込む闇を受け止めた。

 夜空の雲が晴れ渡る。凛と立つ少女はその髪を桜色に染め上げ、身に纏う雰囲気を一変させた。


 吐き気を催すほどの濃い瘴気を漂わせ、


 心臓が潰れそうになるほどの強い鬼気を発し、


 呼吸すら忘れるほどの美しい妖気を醸し出す。


 竜道院舞桜は、冬の月夜に狂い咲く、妖しい桜と化していた。


 時が止まったような錯覚。しかし妖犬たちは構わず舞桜に飛び掛かる。物量にものを言わせた総攻撃。それを彼女は、――


「――一掃しろ」


 その一言で、飛び掛かった無数の妖犬たちを消し去った。


 あまりの光景に、静夜は己の目を疑う。

 生き残った妖犬のうちの一匹が、背後からの奇襲を狙って、舞桜の右後方から静かに、されど速く鋭く迫った。舞桜はそれを一瞥することもなく躱し、すれ違いざまに呪符を張り付け、


「――祓え」


 と唱えて念じた。たったそれだけで妖犬は霞となり、散り失せる。


 圧倒的な何かが、そこにはあった。


 その後も舞桜は、妖犬たちの猛攻をいとも容易く躱し続け、呪符を投げては言霊一つで妖犬たちを祓い、清めていく。


 信じがたいその光景は、どうしようもなく、今の舞桜が行使する得体の知れない術によるものだろう。少なくとも、それは静夜が今まで見て来た如何なる秘術とも異なる何かだ。


 彼女から感じるのは、肌にまとわりつくような不吉な力。それは、人が操る法力とは似て非なる、不浄の力。

 不意に、とある禁術の名前が頭をよぎった。


 もし、これが真実なら、いろいろな疑問が一気に解消されてしまう。


 今目の前で繰り広げられる一騎当千の大立ち回りも、あの少女がなぜ今ここに居て、命を狙われているのかも。


 静夜はしばらく、左腕と右太ももの激痛も忘れて、狂い咲きの桜の如く乱れ舞う少女の様に見入っていた。


 数え切れないほどだった妖犬の大群は、つい先刻まで追い詰めていたはずの少女を相手に次から次へと滅され祓われ、一矢報いることもできぬまま、その数を瞬く間に減らしていき、それでも最後の一匹まで決して諦めることはなく、少女に歯向かい、愚かな最期を遂げていく。

 全滅するまでたったの三分。それをただ茫然と眺めるだけだった静夜の眼には、もっと長い、永遠の時間のように感じられた。


 ようやく舞い戻った夜の静寂。


 無駄に広い大学のキャンパスの、殺風景な中庭の真ん中で、季節外れに咲き誇る妖しい桜は一人、儚げなまま立ち尽くしていた。

 綺麗に雲の晴れた夜空に浮かぶ月の光は、少女を美しく照らしている。


「……憑霊術ひょうれいじゅつ


 それが彼女の操る禁忌の名称。


「……妖を呼び出して、その力を身に纏い戦う、禁術の一つ」


「……見るのは初めてか?」


 桜色の舞桜がゆっくりと振り返る。北風に靡くその髪から、何故か目を逸らすことが出来ない。


「うん、初めて見た」


「そうだろうな……」


 静夜は頷き、舞桜は鼻で笑う。それは自嘲をするようで、誇ることなく悲しげだった。


 歩いて静夜のところに戻って来ると、舞桜は呪符を二枚取り出し、まだ血が止まり切らない左腕と右の太ももの傷に張り付けた。


「――治せ」


 印もなければ、九字を切るわけでもなく、ただ念を言葉に乗せるだけで、術は激痛を和らげ、傷口を塞ぎ、果ては破れて血の染みた服まで完全に修復してしまう。


(すごい。……でも、)


「確かにこの術は強すぎる。会得してたった数日の私でもここまでのことが出来るのだから、驚異的だ。だが、その反面リスクは大きい。纏った妖を暴走させれば最後、術者は周囲の人間や街すら巻き込んで、酷い死に方をするとも言われている。……ただの言い伝えだがな」


 しかし、その言い伝えが恐ろしいから、いくら強力でも誰も使わないし、誰も使わないように禁忌とされた。

 それに、この京都という街では、妖の力を受け入れるような術法が忌み嫌われている。


「でも君は、その術を使った」


 桜色に染まった儚い少女。それでも彼女の朱色の瞳は澄み切っていて真っ直ぐに前を見つめていた。

 そこに悔いはないとでも言うように。


「……君は、破門されたんだね」


 舞桜は、その身に纏う妖を解放してその長い髪を黒色に戻すと、何も言わずに頷いた。

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