暗闇のキャンパス
思わず叫んで、目の前の少女を押し倒す。舞桜に向かって飛び掛かって来た黒い影は、二人の頭上を飛び越えると、身体ごと振り返り鋭い眼光を飛ばして唸った。
――ガルルルル、と低い体勢から牙を剥くのは、一匹の犬の影。その身に纏う瘴気と殺気の禍々しさは、それが陰陽師の敵、妖であることを悠然と主張していた。
「……
静夜は目を細める。
なぜこんな時に? と、即座に疑いの視線を少女に向けた。見ると、彼女もまた静夜と同様に驚愕し、朱色の瞳は震えるように揺れている。
――ワン! という低くてドスの利いた咆哮と共に、妖犬は再び攻撃を仕掛けて来た。
さらに、妖しい気配は三つに増える。左右の後方から新手の妖犬が忍び寄っていた。
舞桜はまだ固まっている。静夜は彼女の右手を引いて強引に立たせると、素早く背中に少女を庇い、ダウンジャケットの中から一丁の拳銃を引き抜いた。
――バン、バン、バン! 乾いた銃声が鳴り響く。
三方向に三発。弾丸は全て妖犬の頭に向かって直進し、最初の二発は妖犬を仕留める。だが、最後の一発は躱され、妖犬は俊敏な動きで二人に迫った。
静夜は冷静に突進を引き付けると妖犬の首を捕まえ、地面に力強く叩きつける。足で体を抑えつけ完全に取り押えると、銃口を額に押し当て、とどめの弾丸を撃ち込んだ。
三匹の妖犬は祓われ、その姿は掴めない霞となって霧散する。
しかし、これで終わりではなかった。
「な、……なんだこれ?」
いつの間にか、大学の中庭は黒い妖犬の大群によって包囲されている。逃げ道は既に、どこにもなかった。
「
突然の窮地に非難の声を上げる。一瞬、静夜は自分が嵌められたのではないかと本気で疑った。
少女の表情はなおも険しいまま、漂ってくる緊張感は静夜以上に張り詰めている。加えて、彼らを取り囲む無数の妖犬たちは、一様に舞桜を睨んで牙をむいていた。
「私は知らない。……まさか、追手……?」
一匹の妖犬がワン、と吠えて号令をかける。大群は堰を切ったように一斉に駆け出し、二人に迫った。
話を詳しく聞いている余裕はない。静夜は拳銃一丁のみで迎撃を試みるも、この物量に追いつく道理はなく、脇をすり抜けた一匹が少女を間合いに捉えた。
己に這い寄る殺気にハッとなり、舞桜は慌てて中学の制服のポケットから一枚の呪符を取り出そうとする。動きが鈍い。術は間に合わない!
咄嗟に静夜が身体を差し込むと、妖犬の獰猛な牙は彼の左腕に食い込んだ。
「ウッ!」
痛みに顔を歪ませながらも、右手の拳銃で妖犬を撃つ。妖は浄化されて消え去るが、その隙に別の一匹が舞桜の足下に迫っていた。
静夜は体を入れ替え、再び身を挺すると、今度は右の太ももに噛み付かれる。激痛に耐え、引き金を引き絞って銃を撃つ。
肉を切らせて骨を断つとはまさにこのことだ。犬の姿をしていた妖しい影は、霞となって北風に攫われ、静夜は膝をついてうずくまった。
「お、おい、お前!」
さっきまで固まっていた舞桜が思わず彼を支えようとする。そんな暇があるなら早く逃げろと静夜は内心で毒づいた。
とは言っても、業を煮やした妖犬たちは次から次へと沸いて来ていて、脱出は完全に不可能な状況となっていた。
そんな中で、舞桜は何故か、雲に覆われた夜空を睨んで苦虫を噛み潰している。
今日初めて顔を合わせた青年と少女はいつの間にか、訳も分からないまま、絶体絶命の窮地に立たされていた。
静夜の体内では血液が大騒ぎで全身を巡っている。服と体には穴が開き、冷たい風が吹き込んでくるのに、全身は焼けるように暑くて息苦しい。とにかく、止血と状況の整理が出来るだけの時間が欲しい。冷静な頭はその必要性を訴えていた。
妖犬が今度こそ目標を仕留めんと迫る寸前、静夜は震える両手で印を結ぶ。
「――
意識を自身の内面に向けて、言の葉を紡ぐと、強固な結界が二人の周囲を包み込み、妖犬たちは見えない壁によってその進軍を阻まれた。
これで当面の安全は確保できる。全身から力を抜き、その場に座り込んだ静夜は、大きく息を吐いて緊張を逃がす。脳が不足していた酸素を受け取ると、頭が徐々に冴えて、戦況を理解していった。
「結界? でもまさか、
舞桜は突然現れた結界に驚いている。半球体の透明な壁を見上げて声を上げた。
それが少し呑気に見えて、静夜は苛立つ。
「……そんなことより、いろいろと訊きたいことがあるのはこっちです」
「ッ!」
口調は穏やかでも、鋭い視線が少女を威圧する。左腕と右足に走る痛みはかなりのもので、止血にも手間取ってしまう。
「追手とは、どういうことですか?」
「……私には、分からない」
「……あの妖犬たちの狙いはあなたのようですが?」
「……」
「……あなたは誰かに追われているんですか?」
「…………」
目を逸らし、舞桜は口を固く閉ざす。きまりの悪い顔で俯いているのは、静夜の怪我に負い目を感じているからか、それとも何かを隠しているからか。
静夜が応急処置を終えてもまだ、妖犬たちは結界の周辺に隈なく張り付いている。諦める気配はなく、尋常ではない執念すら感じる。これがこの妖の習性なのか、それとも誰かが操っているのか、答えは考えても分からなかった。
静夜はもう一度、奴らに狙われている少女に目をやる。
竜道院舞桜。14歳。中学三年生。小柄で華奢な体躯、黒くて長い髪と穢れを知らない白い肌。そして、鮮やかに澄んだ朱色の瞳。
陰陽師としての実力は、不明だ。
静夜の知る限り、竜道院家の次男の子息は、大学生の長男と高校生の次男の二人しかいないはずだ。中学生になる長女がいるという話はこの京都に引っ越してきてからの約八か月間で、一度も、噂ですら耳にしたことが無い。
そして、なにより気になるのが、《
京都の陰陽師を束ねる、名門一族の集団《平安陰陽学会》と、全国の陰陽師を統括、管理している《陰陽師協会》は、ずっと犬猿の仲で、今でも冷戦状態が続いている。
《平安陰陽学会》が《陰陽師協会》に所属する陰陽師を罠にかけるために、今回の事を企てたということは十分にあり得るが、舞桜の様子を見るにそれはおそらく違うのだろう。妖犬たちの殺気は今も純粋に竜道院舞桜へと注がれている。
つまり、狙われているのは彼女の方。この少女は何かから逃げて来て、それを誰かに追われている。そう考えると、舞桜が《陰陽師協会》を頼った理由もおのずと見えて来る。
「
「……何?」
「これからどうするつもりだ? この様子だと、奴らは絶対に諦めないぞ?」
「……どうするもなにも、僕はこの怪我です。結界が破られたらまず勝てません」
「他に
「こんな戦闘は想定外です。弾だってそんなに手持ちはありません」
地面に置かれた血の付いた拳銃は、静夜が愛用する45口径のオートマチック。妖を祓うために開発されたいわゆる現代陰陽術というもので、銃身と弾丸が特殊な製法によって作られている。陰陽師が扱う法具の一種だ。
静夜の弱気な発言に、舞桜は首を横に振って苛立ちを示す。
「そんな玩具みたいな鉄砲ではなく、呪符とか錫杖とか、そういう法具らしい法具は持って来ていないのか?」
「残念ですが、それもありません。僕は普段、そっちの方は持ち歩きませんので」
「なッ! じゃあ、どうするんだ! このままだと私もお前も殺されるぞ!」
「……そう言う君は、戦えないんですか?」
「え?」
そこで、静夜は鋭く切り返し、反対に舞桜に問いかけた。
「君は、何か出来ないの?」
「何、か……?」
このままだと、二人共殺される。そんなことは言われなくても分かっている。
妖犬たちは結界を破ろうと、突進したり噛み付いたりを繰り返していて、頼みの綱は既に風前の灯火だ。
噛まれた怪我の事を考えると、今の静夜が戦っても、無事にここを切り抜けられる可能性は低い。年下の女の子に頼るのは、情けないかもしれないが、確実で賢明な選択だった。
それに、……
「……陰陽師の街とも言われるこの京都を牛耳る《平安陰陽学会》。その御三家の一つに数えられる名門、竜道院家の御令嬢である君なら、こんな危機的な状況でも、もしかしたらなんとか出来るんじゃないのか?」
一つの、ある意味嫌な確信をもって、静夜は敢えて、少女を煽る。いつの間にか、上辺だけの敬語は無くなっていた。
「そ、それは……」
訊かれた本人は、やはり言葉を濁して後退る。
結界に閉ざされたこの狭い空間で、その動揺の意味を察するのは簡単だった。
「……もしかして、やっぱり君は陰陽術が使えない?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます