第13話
柊介は一つ、息を吸う。
これを人に見せるのは八年ぶりだ。柊介はリモコンで部屋の明かりを消す。室内が真っ暗になったことに気付いて千景が顔を上げたのがわかった。
柊介は自分の前に両手を出して、掌を向け合う。するとバスケットボールほどの黄色く発光した球体が瞬時に姿を現した。その球体の表面は細かく迷路が刻まれたような模様が広がっており、柊介の両手側にはパネルのようなボタンが何個も浮かび上がっていた。
蝋燭が灯ったような黄色い光が部屋を照らす。その光は暗闇の真ん中を切り取り、柊介と千景はお互いの顔が視認することができた。自分の顔が見えるようになったことに気付き、千景はすぐに目元の涙をこすった。
「これがいわば……端末みたいなものだな。これを介して人の夢に介入する。利便性も生産性もない力だよ」
千景は生まれて初めて見た生き物に触れるように人差し指を恐る恐る球体へ近づける。しかし、千景の細い指は立体映像のように球体を突き抜けた。
「……触れない」
「俺以外はな」
信じられないという表情で千景は球体を見つめていた。千景の頬についた涙の跡を見ながら柊介が言った。
「俺は、ずっと自分が特別だと思ってた。他人が持っていないものを自分だけが持っている、そんな優越に浸ってたんだ。でも……お前のあのときの言葉で気付いた。これがどれだけ人を狂わせるものなのかをな。謝るのは俺なんだよ、千景。あと一歩のところで俺はお前を壊すところだった」
柊介は球体を消して、部屋の明かりを点ける。そしてそのまま頭を下げた。
「済まなかった。今まで黙ってて」
千景は鼻をすすったあと、正座を崩した形に座り直した。「恥ずかしいから、一度しか言わないけど」と前置きし、祥介が頭を上げたことを確認してから続けた。
「お母さんが死んじゃったときさ。私、全然実感湧かなくて、すぐにお母さんは帰ってくるんだって思ってたんだ。最初に家に引きこもったのも、柊介たちと遊ばなくなったのも、悲しいからじゃなくてね。帰ってきたお母さんを一番に迎えられるようにって家を出たくなかっただけだった」
その頃を思い浮かべたのか、千景は焦点の合わない眼をして切なそうに微笑む。
「でも……いつまで経っても帰ってこなくて。なんでかな、嫌われちゃったのかなって思い始めたとき、夢を見始めた。お母さんと楽しく過ごす夢。もう曖昧な記憶だけど覚えてる。毎日、毎日それが楽しくて、あるとき気付いたんだ。あぁそうかって。もうお母さんとはここでしか会えないのかって。それで柊介たちに酷いこと言っちゃったの。それでそのあと……もう一度夢を見たんだ。お母さんの夢」
「え?」
そのあと。
柊介は記憶を呼び起こした。千景の家からどう帰ったのか、理歩とどう別れたのか覚えていない。けれど少なくともその日から柊介は能力を使ったことはなかった。
「お母さんに怒られたんだ。いつか謝ってお礼を言わなきゃだめよって。私、お母さんに怒られたことなくて、生まれて初めてだった。でもそれが誰に対してなのかは最後まで教えてくれなかった。恥ずかしながらつい昨日までずっと忘れちゃってたんだけど」
柊介たちのことだったんだね、と千景は柊介を見つめた。そして、眼に溜まっていた涙が一筋流れる。その涙を千景は拭うことはしなかった。
「ごめんね、柊介。それで……ありがとう。私、救われてたよ」
心の奥底まで染みこんでくる。それは真っ暗な闇のなかでようやくまばゆい光を目にした気持ちだった。感謝も謝罪も要らなかった、要らなかったはずなのに、柊介は気が付けば泣き出していた。必死で声を殺しながら。
そのとき握られた千景の手は、理歩の手と同じくらい温かかった。
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