彼女の事情

第8話

 柊介と千景は屋上のベンチに座っていた。


 学校と違い、病院の屋上は開放されていることが多い。息が詰まることが多い病院ならではの配慮だろう。

 空は不思議だ。どんな色でも自分の中にスパイスを与えてくれる。雨でも晴れでも心に変化をもたらしてくれる。空の見えない場所に出口はないのだ。


 屋上にはお決まりのベッドシーツが干されている光景はなかったが、大学病院だからか屋上というよりは庭園と形容していいくらいに整備されていた。華やかな花壇にアンティーク調のベンチ。どこか伯爵のお屋敷に招待された気分になる。


 しばらく無言に落ちていた空気に柊介は遠くを見ながら口を開いた。

 いつから。と呟く。


「理歩は、いつから?」


 千景は途切れ途切れに話し始めた。


「中三の時から入退院繰り返してるみたいで。私が知ったのは去年の、高一の春。その年の夏からもう一年以上入院してる」


「……マジかよ」


 柊介はやりきれず、空を仰ぐ。理歩が入院している間、自分は何度彼女と電話やメールを交わしただろうか。ラブレターの一件の時も、こないだの電話もこの病院からということになる。


「まいったよね、ほんと」


 千景は立ち上がり、数メートル先のフェンスまでいって遠くを見つめた。

 力無い彼女の背中はいつもより小さく見えた。


「偶然だったんだ。久々にりーちゃんがうちに遊びにきて、そのとき突然倒れちゃってさ。それからちょっとしておばさんから、全部聞いた……全部ね」


 ことさら、千景は全部を強調する。


「全部?」


「…………もう、あんまり長くないって」


 思っていたほどの、衝撃は受けなかった。

 言葉にするまでもなく千景の一挙手一投足が理歩の容態が悪いことを示していたからかもしれない。理歩は昔から身体が弱いほうだった。床に伏せることも多くて、柊介と千景と遊ぶときは彼女の家が多かったと思う。

 

 長くない。その言葉はどれだけの時間を示すのだろうか。一年か、一ヶ月か、一週間か、どれを選んでも同じ苦痛がわき上がってくる。足りなかった。重たかった。 

 これが赤の他人から聞かされたらやり場のない気持ちに押し潰されていただろう。目の前に同じ気持ちを抱いた人がいなかったら。


「千景……大丈夫だったか?」


 一人で抱えていた千景の苦しみは、柊介が思うよりも大きいはずだった。大切な人を失う経験をした人なら、尚更だ。千景は柊介の問いに答えず空に手を伸ばしながら言った。


「あーあ、隕石とか落ちてこないかなぁ」


 その突拍子の無さには驚かない。柊介は一つ息をついて苦笑した。


「理由は?」


 柊介が問うと、千景が振り向いて「そうしたら」と続ける。柊介は千景の声に被せるように同じ言葉を言い放った。


「「一緒に死ねるから」」


 ハモるように同時に口にした言葉を聞いて千景は吹き出すように笑った。


「よくわかったね」


「お前が単純なだけだ」


 千景は嬉しそうに足下を見つめて続ける。


「後を追っても、同時に死んでもりーちゃんはきっと嫌がる。死んじゃったあと仲良く死後の世界に行ける保証もない」


「不可抗力なら仕方ないな」


「そういうこと」


 皆死んでしまえばいい。単純乱暴な思考はまさに千景そのものだった。それでも千景の笑顔には影が見える。そんな彼女を見ても、柊介はまだ実感が欠けていた。


 理歩が死ぬ。身近な人の死には経験があったはずなのに、頭ではわかっているはずなのに、受け入れることが出来ていない。それはきっと、死がそういうものなのだからだろう。人がいなくなるという想像は想像の域を超えないのだ。いなくなる人が大切であればあるほど、想像力は失われていく。そして、いずれ訪れる悲しみに溺れてしまう。


「大丈夫だよ、私は」


 千景は微笑む。その笑顔に、嘘はなかった。


「まぁ大丈夫じゃなくても、あんたには言わなかったよ。りーちゃんから口止めされてたし、それに柊介、暗さマックスだったから話す気にもなれなかった」


「さいですか」


 強がりな部分はあったはずだ。けど、相談する相手として相応しくなかったという評価には反論の余地はなかった。自分の頼りなさにやるせない気持ちになる。


 本当に傷をつけてばっかりだ、俺は。


 そこでおもむろに千景が自分の携帯電話を取り出した。画面を見てやってしまったというように眉を寄せる。


「あちゃー、さっき聞いてたことバレてたかな。りーちゃんのベッドからは扉見えないはずなんだけど」


「理歩からか?」


「うん、引き返させてごめんねって。おばさんもう帰ったみたい」


 相変わらず気配探知が達人レベルである。昔から脅かしてやろうと画策してもすぐにバレてしまうのだ。


「じゃあ、行くか」


 柊介はベンチから立ち上がり病室へ向かおうとするが、千景はその場を動こうとしなかった。


「千景?」


「……私、帰るから一人で行って」


「どうして?」


 千景は眼を泳がせながら言った。


「どうしても」


 訳を言えない理由がある、そういうことだろうか。

 幼なじみとはいえでも男女の差は越えられない。昔から千景と理歩の間には柊介が迂闊に入れない空気のようなものがあった。けれど、柊介がそれを嫌だと思ったことは無かった。


「わかった。気をつけて帰れよ」


 千景が頷いたことを確認して、柊介は理歩の待つ病室に向かった。

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