第7話

 病院は真っ白で無機質な外観とは裏腹に、一階ホールがまるでホテルのエントランスのように綺麗だった。一階から最上階の五階まで見える吹き抜けの構造は開放感があり、病院という閉鎖的なイメージを持つ場所の入り口には適しているように感じた。

 昔、千景の母を見舞いに行ったときとまったく変わっていない。ここは本館で主に各専門科の診察、検診が行われる場所だ。入る場所は同じだが、入院患者のいる別館はエレベーターで四階まであがり、連絡通路を通る必要がある。


「こっち」


 正面入り口から入ってきた柊介が辺りを見回していると、インフォメーションカウンターのそばに立っていた千景が呼んだ。

 心の一番上にある感情がいつもわかりやすい千景だったが、今の表情は何を思っているのか読めなかった。

 悲痛、不安、怒気、後悔。色んなもの混ざり合って自分でも何を感じているのかわからないように見える。ただ、その名前のない感情は柊介の心を否応なく掻きむしっていた。

 聞きたくない足音がもうすぐそこまで近づいている気がする。

 柊介が数歩、歩み寄ったところで千景がバッチを投げて寄越した。


「ついてきて」


 質問は受け付けないという風に千景は背を向けて歩いて行った。受け取ったバッチには面会と大きく書かれていた。

 初診受付、会計受付、外来・入退院会計。弧を描くように並んだカウンターを後目に千景の後を追う。カウンターの前に並べられたいくつものソファーには人が埋まっており、自分の番をまだかまだかと待っている。世の中にはこんなに具合の悪い人がいるのかと億劫になった。

 

 何度か道を曲がり、エレベーター前に辿り着いた。

 八年前の記憶が視界にダブる。あの時、隣りにいたのは理歩だった。隣りの千景は当時の理歩と同じ顔をしていた。

 すぐにきたエレベーターに乗り千景は四階のボタンを押す。エレベーターの中でも降りたあとの道のりも二人は言葉を交わさなかった。それがルールとして決まっているように厳守する。その間、柊介は辿り着く先で待っているものの可能性を考えては脳内で消してという繰り返しをしていた。

 

 無意識に拳に力を込めていた。

 出てくる可能性は全て似たり寄ったりで根本的なものは変わらない。せめて理歩が千景と一緒にいてくれればもっと多様な考えが浮かんだはずだった。自分達はいま誰か見舞いに行こうとしている。

 

 そして、今ここに理歩の姿はない。

 

 連絡通路から別館へ入って、再びエレベーターに乗った。今度は七階のようだった。廊下を進んでいく最中、すれ違う看護師に千景は挨拶をする光景が何度か見受けられた。互いに顔を見知っているように見えた。

 

 フロアの一番奥の扉の前で足を止める。明らかに他の病室とは逸する扉の表札を見て柊介は眼を強く閉じた。そこには『常盤理歩』と書かれていた。


「どうしてこんな無茶したのっ!」


 千景のノックしようとした手が止まる。

 今にも引きちぎれそうな叫びは理歩の病室から聞こえたものだった。久々に聞く。この声は理歩の母親のものだった。

 千景は迷いを見せながらも静かに引き戸を数センチほど開けた。室内の声の鮮度が上がる。千景はここで初めて柊介の目を見た。

 扉の隙間から今度は理歩の声が聞こえる。それは電話で聞いた声よりもずっと弱々しいものだった。千景が扉を開けたのはこのためだろう。

 密閉されていたら、理歩の声は多分聞こえなかった。


「……何回言っても、外出許可出してくれなかったから」


「それはあなたの身体が保たないからよっ! それを無断で出かけようとするなんて。どうしてわかってくれないのっ」


「ごめんなさい……でも、今日だけはどうしても」


「千景ちゃんも千景ちゃんよ。協力するなんて……信じてたのに。こんなことならあの子に教えるんじゃなかったわ」


 柊介は千景に目を向ける。千景が正面から言葉を受け止めて明らかに傷ついたのがわかった。今にも泣きそうなくらいに顔を歪める


「ちーちゃんを、悪く言うのはやめてよ」


 責められ、反省の様子を窺わせていた理歩の語気が強くなった。


「私がお願いしたの。最初は反対してくれてたけど折れてくれた。ちーちゃんは悪くないの。私がどうしてもってワガママ言って、それで」


「それでもやって良いことと悪いことがあるわ。本当に信じられない」


「やめて……」


「あの子の母親が大変だったときは何度も面倒を見たのにそれを」


「やめてって言ってるでしょっっ!」


 突然の怒号に身体が引き締まる。理歩が怒鳴った声なんて柊介の記憶では一度もなかった。千景も驚きを隠せないように目を見開いていた。


「お母さんはいつもそうだよっ! 考えないで決めつけてっ、私以外を悪者にするっ! 私はお母さんが思ってるより真面目じゃないっ! 完璧じゃないっ! 私今まで頑張ってきたでしょ? 最後くらい……わがまま聞いてよっ」


 理歩も彼女の母親も千景も柊介も、聞いた人の全員が傷つくような声だった。

 すすり泣く声が聞こえ、会話が途切れる。


 柊介はここだなと区切りをつけて扉をそっと閉めた。


「……出直そうぜ」


 小声で言う柊介に千景は僅かに頷いてみせた。

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