第16話【第三章】
【第三章】
俺の起床時刻は、まだ日が昇る気配すらない頃だった。端末を開くと、短針が午前五時を指すところ。
「ん……。あ、そうだ、羽澄」
ふと心配になり、ドア越しに耳を当ててみた。すぅすぅという、規則正しい寝息が聞こえてくる。流石に最初の任務で、あれだけのカーチェイスやら白兵戦やらを体験したとあっては、疲労に押し潰されるのも当然だ。
俺は窓を開け、ベランダに出た。
「やっぱ冷えるな……」
そう言いながらも、上のパジャマを脱いでランニングシャツ姿になる。白い息がまとわりつくが、気にしない。
俺は日課であるところの、筋トレを始めた。昨日はそんな暇がなかったので、今日は念入りに。特に、左腕がどれほど強靭なものか、確認しておく必要がある。
俺はまず右腕一本で、腕立て伏せを始めた。
「……、九十八、九十九、百!」
それから左腕。だが、左腕の運動はすぐに終わってしまった。
「おいおい、マジかよ」
左腕が脆弱だったわけではない。逆だ。あまりにも筋組織が発達しすぎていて、運動で負荷を加えることができないのだ。
見た目は右腕と変わらず、細すぎも太すぎもない左腕。だが、この腕に仕組まれた何か、それも暴力性を伴うものが、自らの存在を騒ぎ立てている。
俺は筋トレを諦め、拳銃の分解整備に取り掛かろうとした。
その時だった。
カタン、と軽い音がした。玄関からだ。俺はさっと目を遣って、同時に耳を澄ます。既に人の気配はないが、確かに音がしたのだ。誰かが何かを置き、去って行った。
俺は羽澄の部屋のドアを軽くノックした。これだけで異常を察してくれたのだろう、寝癖もそのままに、羽澄は急いで、しかし静かにドアを開けた。
「何事なの?」
「郵便受けだ。何かが投函されたらしい」
「えっ、そんな!」
驚くのも無理はない。ここは羽澄のセーフハウスなのだ。誰かが手紙を寄越すなど、あり得ない。少なくとも、民間人には無縁のスペースなのだから。
「人の気配はない。すぐに去って行ったんだろう。俺がトラップに注意しながら玄関ドアを開けるから、あんたは俺を援護しろ」
無言で頷き、すぐさま拳銃を手に戻ってくる羽澄。
当然ながら、室内にトラップの気配はない。俺は廊下を忍び足で歩き、左腕で勢いよくドアを開け放った。
俺の予想通り、人影はない。左腕を引き、いつでも敵を殴れるように警戒しながら、ふっと横を見た。そこにあったのは、今時珍しい郵便受けだ。一通の手紙が差し込まれている。
「だ、大丈夫なの?」
「今時古風だな。紙に直筆の手紙を寄越すなんて」
「だから、大丈夫なのかって訊いてんの!」
「ああ。薬物が仕込まれている様子もない」
しかし妙だ。
「あんたのこの部屋、存在を知ってる人間は?」
「わ、私とあんただけよ」
「情報が漏れてる。にしては――」
俺は封筒を裏返しながら、
「相手は直接手を下そうとしない。今は、相手のペースに乗せられてみるしかないだろうな」
「つまり、この中の手紙を読む、ってこと?」
「そうだ」
俺はカッターナイフで封を切り、中の手紙に目を通し始めた。それは、以前回収した箱の裏に貼られていたのと、同じような材質の手紙だった。さっと上から下まで目を通す。
「やっぱりな。修也の筆跡に間違いない」
こうして、俺と羽澄は、修也からの二通目の手紙に目を通し始めた。
※
瀬川篤軍曹へ。
僅かながら残された映像からすると、やはり俺を追ってきているのはお前のようだ。
坂田哲郎軍曹の身に何があったのかは、詳細は把握できていない。だが、お前とその相棒は、上手く状況を打開したらしいな。
だが、彼と会った以上、彼もまた俺同様に、『正義』の下で戦闘行為に及んでいたことを理解するには十分だったと思う。お前にはそのぐらい分かるはずだ。
まだその『正義』、また、それに基づく我々の作戦を明らかにはできない。そのあたりは、もしかしたらお前たちではなく、どこかの諜報組織が先に嗅ぎつけるかもしれない。
お前たちのセーフハウスは確認させてもらった。だが、そこで手を下すほど、我々は野暮ではない。飽くまでも倫理的に、我々は行動しているつもりだ。
忠告させてもらう。お前に俺は倒せない。
理由はまだ明らかにはできないが、その理由は『正義』に直結するものだ。
もしかしたら、逆に俺がお前を倒すこともできないかもしれない。今回の案件は(引き起こしておいて言うのもなんだが)、それほどデリケートな問題なのだ。
現実から目を逸らせ。そして俺たちのことは忘れてしまえ。今や、俺はお前の親友でも戦友でもない。敵だ。もし、そのように正しく俺のことを捉えられるなら、この任務から離脱するのがお前のためだ。
自らを『敵』呼ばわりしておいて矛盾するようだが、俺はお前のことを心配している。
貴官らの賢明な判断を期待する。
以上。
※
「篤」
「……」
「篤、瀬川篤軍曹!」
そう声を掛けられて、俺ははっとして顔を上げた。
「あ、ああ」
「何ボーッとしてんのよ! これ、谷修也曹長の直筆で間違いないのよね? やっぱりあんたの心を揺さぶって、自分たちの戦いを有利に進める気でいるのよ!」
すっと手紙に手を伸ばす羽澄。だが、俺は素早く手紙を彼女から遠ざけた。
「これは俺と、修也の問題だ」
羽澄は俺の前に回り込み、尚も手紙を引っ手繰ろうとしたが、俺はひょいひょいとその手を躱し、手紙には指一本触れさせなかった。
暴れる猫の相手をしているような気分になってくる。だが、それよりも俺の心を占めていたのは、『まさか』というある考えだった。
修也が持ち逃げしたのは『機密データ』だと言われている。そこに嘘はないだろうと思う。だが、もしかしてその『データ』とは、自らの意志を持ったものではないのか? つまり、人間なのではないか?
『正義』『倫理』という言葉を多用していることや、『デリケートな問題』と修也が書いて寄越したところからの推測だ。いや、推測というよりは俺の勘に過ぎないのかもしれない。
しかし、それでも俺はその考えを捨てきれなかった。下手をすれば、修也はその人間を人質に使うかもしれない。
「いや、修也がまさかそんな汚い真似を……」
だが、そんな考えを断ち切るように、腕時計型の端末に通信が入った。立体画像が浮かび上がる。羽澄の端末からも、同様の画像が展開される。
「谷修也曹長を、特A級のテロリストと判断する……!」
驚いた様子で、羽澄は読み上げた。だが、俺に驚きはない。頭の中に、そんな余分な感情が入る余地がない。
「篤、あんたも知ってるわよね。特A級テロリストへの対処法は」
ぱっと顔を上げ、俺の横顔を見つめる羽澄。
「発見次第殺害! 民間人の犠牲もやむを得ない! 酷すぎるわ、こんなの!」
「俺に噛みつくなよ。俺だって、予感はしてたんだ」
「よ、予感って何よ? 谷曹長が特A級の――」
「違う」
俺は一つ、大きなため息をついて視線を上げた。
「修也が仕留められるなら、その仕留める相手は俺になるんじゃないか、ってことだ」
「な……!」
横目で見遣ると、羽澄の顔が紅潮していくところだった。しかし、恥じらいからではない。明確な怒りからだ。
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ! 民間人を巻き込んででも仕留めろ、だなんて、いくら何でも横暴すぎるわ! 治安維持機構だからって!」
俺は、目だけでなく顔を向けて羽澄を観察した。そして、その怒りの熱量を読み取ろうと試みた。
「民間人を巻き込んだら、それこそ私たちの方がテロリストになるわよ! だったら私はこの任務から下りるわ! 私の居場所はここじゃない!」
俺に構わず、一気にまくし立てる羽澄。だが対照的に、俺は自分が冷静であることを自覚した。
「なあ羽澄、ここ以外にお前の居場所はあるのか?」
「えっ?」
「だから、この任務を投げ出して、警察でのお前の立場はどうなる?」
すると途端に、羽澄の視線が上下左右にさまよい始めた。
「そ、それは……。でも、自分の任務のために、無関係な民間人を巻き込むなんて!」
「あんたの言い分は分かるよ。昨日、話してくれたしな」
俺が理解を示したと思ったのだろう、羽澄の眼球運動はぴたりと止まった。
「だが、今修也を止めなければ、今後の世界がどうなるか分からない」
「世界? そんな、突然大袈裟よ!」
「大袈裟だって? 冗談よせよ。特A級のテロリストを取り逃がして、日本が海外から叩かれずに済むわけがない。この国の治安機構の信頼は失墜するぞ。最悪の場合、大規模テロや政府転覆の可能性もある。それを食い止めるための特A級措置だろうが」
羽澄の目線はだんだん下がり、やがて俺の足元のどこか一点に定まった。
いや、定まったというより、流れ着いたとでも言うべきか。
「俺もあんたも、この事件に踏み込み過ぎたんだ。今更引き返すことなんてできやしない」
すっと息を吸った羽澄を宥めるように、俺は言葉を繋ぐ。
「民間人に被害が出ないよう、最大限努力はする。生憎、俺はあんたを嫌いになれそうにないしな」
「ッ!」
ぽんっ、と羽澄の頭頂部から煙が立ったように見えたのは気のせいだろうか。
「だが、修也本人を前にして、俺が何の躊躇いもなく戦えるという保証はない。その時は、あんたが代わりにあいつを撃ってくれ。恨みやしない」
「う、うん……」
再び俯いた羽澄に向かい、俺は国防軍情報統括室に通信を試みた。もちろん、秘匿回線で。
「こちら特殊作戦群第八課、瀬川篤軍曹。谷修也曹長の身柄確保のため、機密情報の開示を要求する。繰り返す――」
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