第15話
「俺の親父が?」
俺は素っ頓狂な叫び声を上げた。しかし、できたのはそこまで。今度は口の開閉もままならず、完全に動けなくなってしまった。息をしている石像状態である。
「とんだ偶然があったもんだと思うでしょうけどね」
対する霧崎は、静かな口調で続ける。
「忘れようがないわ。私が八歳の時のクリスマス。ちょうど十年前ね。都内の地下鉄で爆弾テロがあったでしょう? 私はその生存者よ」
ちらりと一瞥をくれる霧崎。まさか、そんなことが。
「気分を害したのなら謝るわ、篤。でも、私はあなたに知っておいてほしいのよ。あなたのお父様が、どれほど立派な方だったのか」
そうして、霧崎は淡々と語り始めた。
※
八年前の十二月二十五日。都内のとある地下鉄の駅ホームにて。
「ご機嫌そうね、羽澄」
鼻歌でクリスマスソングを奏でる霧崎に、母親が流暢な日本語で声をかける。
「だってケーキ、すっごく美味しそうなんだもの!」
「そうかそうか! 奮発した甲斐があったなあ」
霧崎を挟んで反対側にいた父親が、笑顔で霧崎を見下ろす。その手は霧崎と繋がれ、反対側にはケーキを包んだ買い物袋を握っている。
霧崎親子三人は、次の列車の到着を今か今かと待っていた。その光景は、まるでテレビコマーシャルから切り取ったような、典型的かつ健全にして幸福な親子像だった。
やや大きめのアナウンスが、構内に響き渡る。
「さあ、行くわよ羽澄」
「はーい!」
霧崎が無邪気に腕を掲げた、直後だった。
耳を聾する爆音と共に、父親が勢いよく吹っ飛ばされた。同時に、真っ赤な炎がトンネル内を焼き尽くさんとする。
霧崎の身体も投げ出され、したたかに床に叩きつけられた。悲鳴を上げたような気がするものの、正直、よく分からない。視界は回って当てにならないし、背中には鈍痛を感じる。仰向けに倒されたらしい。
方々から、大人たちの声や悲鳴が聞こえてくる。テロ、爆発、怪我人といった言葉が行き交う。
父親の姿が見えないことに気づいた霧崎は、反対側の母親の方を見遣った。随分掠れていたが、『お母さん』と呼びかけたことははっきりしている。
母親は、そこにいた。正確には母親『だったもの』が。身体の損傷が少なかったのは、不幸中の幸いだった。霧崎が目にしたものが母親のバラバラ死体だったとしたら、彼女は永久に立ち直れなかったかもしれない。
いずれにせよ、母親は既に息絶えていた。
再び声を掛けようとした霧崎。しかし、彼女は慌てて転がり、うつ伏せになった。スプリンクラーが作動し、ホームのあちこちから放水が始まったのだ。
同時に、付近を警戒中だった警官たちが、霧崎の元へと集まってくる。
「負傷者発見! 子供が一名!」
子供? ああ、自分のことか。そう思いながら、霧崎は顔を上げた。
そこには二人の警官が立っていた。一人は若く、線が細い印象。もう一人は、巨漢といってもいい人物で、制服越しにでも筋肉質な体躯であることが分かった。
「瀬川警部補、どうしますか?」
「馬鹿! 救助に決まっているだろうが! お嬢ちゃん、今から安全なところまで運ぶからね」
言葉の後半は、意外なほど柔らかで優しくもあった。その警官に自分と同い年の子供、すなわち瀬川篤がいることを霧崎が知ったのは、数ヶ月後のことだ。
警官や消防士たちが来たことで、周囲はより騒がしくなった。皆が自分を瀬川警部補に任せ、より爆発現場に近かった方へと駆けてゆく。
「さあ、負ぶってやるからな」
そう言って瀬川が霧崎の手を取った、直後のこと。
がこん、と何かが外れるような音がした。はっとして振り返る瀬川。その視線を追う霧崎。彼らが見つめていたのは天井だ。
部分的に老朽化していたのか、アーチ形の天井の一部が崩落しかかっている。
「ッ!」
瀬川は霧崎の小さな身体を強く抱きしめ、元来た方へと駆け出そうとした。しかし、既に天井内側のコンクリート片が剥がれ落ちてくるのは防ぎきれない。
「すまんな、お嬢ちゃん」
そう言って、瀬川は霧崎を放り投げた。
今思えば、とんでもない芸当だったと思う。しかし、霧崎が尻を着いたその場所は、確実に安全と思われる場所だった。天井の崩落もなく、火の手も回っていない。
もし瀬川が、自身も助かろうとしたならば、きっと霧崎と共に瓦礫に埋もれていただろう。そこまで計算して、彼は霧崎の身柄を安全な場所へと投げ遣ったのだ。自分一人が確実に命を落とすであろうことも覚悟して。
「あ、ぁ……」
まともに呼吸ができないのは、黒煙のせいだけではあるまい。
「君、怪我はないか? 大丈夫なのか?」
後方からやって来た消防隊員が、霧崎を引き起こそうとする。そして、絶句した。
それはそうだ。霧崎の左足は、爆風で揺さぶられた地下鉄の車体に押し潰されていたのだから。
「負傷者一名! 子供が一人、床と車体の間に挟まれてるぞ!」
「よし、この車体を持ち上げろ!」
「二、三人じゃ無理だ! どうする、出血が酷いぞ!」
その時になって、ようやく霧崎は自分の左足の感覚がないことに気づいた。いや、左足以外の感覚は戻った、と言うべきか。
左足は最早無痛であり、どうなっているのかよく分からない。
「仕方ない……。輸血準備。全身麻酔をかけるぞ」
「まさか、この子の左足を? それは早計だ!」
「俺は瀬川警部補が彼女を助けるのを見たんだ!」
片方の消防隊員が怒鳴る。もう一人は、愕然とした様子で『本当か?』と呟いた。
「じゃ、じゃあ、瀬川警部補はどこに?」
「あの瓦礫の下だ。助かるまい」
これは大人同士で行われた会話。しかし、霧崎ははっきりと見た。見てしまった。
瓦礫の下から、血だまりが広がっていくのを。
スプリンクラーによって、血と煙、それに消火剤が混じり合い、異臭を発している。
それを感じたのを最後に、霧崎の意識はぷっつりと切れた。
※
「病院で意識を取り戻した時、訊かれたわ。これからどんな人生を送りたいか、って」
既に空になったグラスを弄び、ソファの上で体育座りをしながら霧崎は、言った。
「そりゃあもちろん、普通の生活を送りたい、左足を取り戻したい、って気持ちはあったわ。けど、私が安穏と暮らしている間にも、テロリストは次の作戦を実行するかもしれない。そう考えたら、居ても立ってもいられなくってね」
「だからあんた、警察官になったのか。左足に武器を内蔵しながら」
こくん、と頷く霧崎。
「もうこれ以上、私のような子供が出てくるリスクを看過してはいられなかった。だからイギリスやアメリカに留学して、飛び級を繰り返して警部補になったのよ」
すると霧崎は足を下ろし、立ち上がって上半身を向けた。そして、
「ごめんなさい」
と言って、再び頭を下げた。
「ど、どうしてこの話の途中であんたが謝るんだ?」
「あなたのお父様、瀬川惇警部補が犠牲になったのは、私のせいよ。あなたから父親を奪った責任の一端は、私にもある」
「そ、それは」
テロリスト共が悪いんだろうが。そう言いかけて、俺は口を閉ざした。
では、今俺たちが追いかけている修也はテロリストなのだろうか? 反乱分子ということになってはいるが、世間に事態が公表されれば、人々からはテロリストのレッテルを貼られることになるだろう。
単なる呼称の問題だが、自分がテロリストと同格に扱われるのは、修也とて不本意ではあるまいか。
だが、そんな考えは、再び俺の隣に腰かけた霧崎に――羽澄に見つめられたことで、一気に吹き飛んでしまった。
「あなたには、私を恨む権利がある。それに気づいてもらうために、私はあなたに冷たくあたってきたのよ」
「いや、俺はそんなことを気にしてるわけじゃない」
ふと目を下ろすと、パジャマの襟元から羽澄の胸元が見えてしまった。もちろん下着は着用していたが。
急速に沸騰する自分の全身。その熱を抑えるべく、俺は再び話題の変換を迫られていた。
「あー、とにかく寝よう! あっちがあんたの部屋なんだろ? このソファ、貸してもらってもいいか?」
「えっ?」
これまた話題の切り返しが突然過ぎたか。羽澄はきょとんと、真ん丸くて青い瞳をパチクリさせている。
「明日も、いや、今日の未明にも何か動きがあるかもしれない。眠れる時に眠っておかないと、気力も体力ももたないぜ」
「そ、そうね。うん。じゃあ、こんなソファで申し訳ないんだけれど」
「気にすんなよ」
俺はできる限り優しく、左手で羽澄の後頭部を叩いた。
「修也は、俺たちがどこまで歯向かうことができるか、それを試している節がある。今は、果報は寝て待て、ってことでいいんじゃないか?」
すると羽澄はゆっくりと頷いて、ソファから立ち上がった。
「あの、篤」
「ん?」
「絶対この部屋にいてよね。あなたがいてくれなかったら、私、怖い夢を見そうだから」
「心配すんな」
俺は、振り返った羽澄に向かって左腕を曲げ伸ばししてみせた。
「寝ずの番は厳しいが、あんたの身は守ってやる。何せ、親父が守った命だからな」
そう言い終えると、羽澄はやや頬を赤らめながら『馬鹿』と一言。
そのまま寝室に繋がる襖をぴしゃりと閉じてしまった。
「何か気に障るようなこと言ったかな?」
状況が変わったのは、翌朝、日が昇ってからのことだった。
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