第4話


         ※


 病室を出た俺と霧崎は、ひとまず腹ごしらえをすることにした。といっても、俺も彼女も既に臨戦態勢である。時間が惜しい。

 また、俺には『左腕の具合を確かめたい』という気持ちもある。


「取り敢えず、感覚はあるな」


 そう呟きつつ、指先を擦り合わせたり、手を握ったり閉じたりする。

 それでぼんやりしていたせいか、俺は自分がどこに向かって移動しているのか、自覚していなかった。

 気づけば、先を行く霧崎が立ち止まっている。第八課本部のエントランスホールにある、自動販売機の前だった。


「あんたも無味でいいわよね?」

「え?」

「だーかーらー、『え?』じゃないわよ! 移動しながら食事を摂るのに、栄養ゼリーを買おうって言ったのはあんたでしょう?」

「ああ、悪い」


 そう答えた直後、俺の分の栄養ゼリーが放られてきた。俺は反射的に、左手を差し出してこれをキャッチする。


「なんだ、あんたの左腕、もう十分動かせるじゃない」

「確かめたかったのか、それを?」

「別に。直接手渡すのが面倒だっただけよ」


 普段の俺だったら、『可愛げのない奴だ』と嫌味の一つも垂れたことだろう。だが、今は違う。


「これが、俺の左腕……」

「ほら、さっさとして」

「……」

「ちょっと、何してんのよ?」


 俺の右肘を取って、強引に先へ行こうとする霧崎。しかし俺は、足から根っこが生えたかのように、その場に立ち尽くしてしまった。

 その視線の先には、左手に掴み込まれた栄養ゼリーのパックがある。


「俺、右利きだったんだ。それなのに、今これをキャッチする時、左腕の方が先に出た」

「優秀な左腕ね」


 いや、おかしい。利き腕が代わるとは聞いていない。


「まさか俺、脳みそまでいじられたのか?」

「知らないわよ、そんなこと。ほら、急ぎなさいよ! こうしている間にも、谷修也曹長は逃げ道を確保して――」


 霧崎が熱弁を振るっていたが、俺の耳には途中から入って来なくなった。

 俺の利き腕が代わったということは、四肢を動かす脳の神経まで改造された恐れがある。俺はそっと、右手で頭頂部のあたりを擦ってみた。違和感はない。


 医療の専門家でない以上、俺がここで満足のいく回答は得られない。それが否応なしに、俺の胸中に焦燥感を焼きつかせる。


「俺の考え過ぎ、か?」

「ちょっと、聞いてる? さっきから何考えてるか知らないけど、バディである以上、私が話してるときは私の目を見て」

「悪い、でも俺の脳がどうにかされたと思って」

「だからどうでもいいのよ、そんなことは!」


 その言葉に、俺ははっとした。目を上げると、霧崎は肩をいからせて怒気を露わにしている。しかしそれよりも熱い怒りが、俺の左腕を動かした。

 気づいた時には、俺の左腕は彼女の首筋を捉えていた。


「ぐっ!」


 苦し気な呻き声を上げる霧崎。だが、俺に容赦するつもりはない。そんな余裕がない。


「どうでもいい、だって? ふざけるな!」


 俺は唾を飛ばしながら、感情のままに言葉を吐き出した。


「この左腕は義手なんだ、もう俺のものじゃない! それに、脳みそだっていじられた可能性があるって言ってんだ! 俺の身にもなってみろ! 冗談じゃねえぞ!」


 霧崎の首に回された俺の指先が、ジリジリと力を強めていく。ちょうどそれは、俺の中の不安が膨れ上がるのに比例しているように思われた。


「く、は……」


 その時だった。


「おい、お前たち何をしてるんだ!」


 たまたま通りかかったのだろう、兵士と思われる男たちが、後ろから迫ってきた。俺を羽交い絞めにしようと試みる。


「ふっ!」


 俺はすぐさま霧崎を放し、腰を捻るようにして真横に左腕を振るった。振り返った時、そこにいたのは、無様に転倒した兵士が三人。うち一人は、俺の拳が腹部にめり込んだらしく、口元から吐瀉物を垂れ流していた。


「くそっ、反逆罪で身柄を拘束するぞ!」


 反対側にいた兵士が、片膝を立てて拳銃を構えた。だが、この距離ならすぐに詰められる。

 俺が左腕を引き絞って、跳びかかろうとしたまさに直前。


「待ちなさい!」


 甲高い声が、エントランスホールに響き渡った。霧崎だ。

 彼女は咳き込みながらも立ち上がり、警察手帳の画像を展開した。


「私は霧崎羽澄警部補、こちらは瀬川篤軍曹。特殊任務のため、現場に急行するところです。全員武器を置いて、両手を挙げなさい!」


 はっとした様子で、拳銃を置く兵士。残り二人は気絶している。


「瀬川軍曹、あんたもよ」


 そう言われて、俺はようやく正気に戻った。ゆっくりと両腕を上げ、後頭部で組み合わせる。俺は銃火器こそ取り出してはいないが、それに匹敵する威力を秘めた左腕を有している。


「軍曹、あなたの権限で、医療チームを呼びなさい。この三人を医務室へ」

「霧崎、あんたは平気なのか?」

「いいから早く!」


 幾分掠れた、しかし有無を言わさぬ調子で急かす霧崎。俺はぱっと腕を解き、襟元の小型マイクに吹き込んだ。


「こちらエントランスホール、負傷者が三名。命に別状なし。医務室に運んでやってくれ」

《エントランスホールで負傷者? りょ、了解。そちらは何者だ?》


 俺は答える前に通信を切り、霧崎のそばを通り過ぎた。


「行くぞ、霧崎。車は地下駐車場だろう?」

「え、ええ」

「いろいろ詰問されると面倒だ。さっさと行くぞ」


 今度は俺が先行する形で、地下へと続く階段を下りて行く。霧崎は、俺の前を歩いていた時の勢いを完全に失っていた。

 俺の左腕の性能を見せつけられて、気後れしたのかもしれない。


「ねえちょっと! あんた、三人も負傷させておきながら逃げる気なの?」

「俺たちの狙いは谷修也曹長だろう? 任務には優先順位がある。この三人が立場上味方であっても、邪魔ならどいてもらう」

「そんな……。任務の優先順位どころで済む話じゃないわよ!」

「帰ってきたらいくらでも牢に入るさ」


 俺は振り返らずに、元に戻った身体の重心を感じながら、地下駐車場に出た。


         ※


 それから十五分ほどが経過した。

 俺は霧崎の運転する普通乗用車の助手席で、再び左腕を微に入り細に入り動かしていた。


「グー、チョキ、パー、と……。神経は本当に問題ないみたいだな」


 最早正論を並べ立てる気をなくしたのか、はたまた俺の怒りに触れて恐れをなしたのか、霧崎は無言のまま。俺の独り言と、天井に取り付けられた温風循環器の低い唸りだけが車内に満ちている。


 車は、東京都から内陸部の隣県に向かって走っていた。高速道路上を、スムーズに車体が滑っていく。快適なものだ。穏やかですらある。


「これじゃあ危険な任務の緊張感も削がれちまうな。それに」


 俺はちらりと運転席を見遣った。

 今の霧崎は、本調子でない。俺のような鈍感な人間でも、そのくらいのことは察せられた。俺の独り言を咎め立てしないところなど、実に彼女らしくない。


 出会って早々、左腕を装着していない俺をつっ転ばした女だ。黙り込むくらいなら、なんやかやと文句をつけてきそうなものだが。


 仕方ない。俺が折れるとしよう。


「さっきは悪かったよ、霧崎。ただ、俺も怖かったんだ。自分の身体がどうなったのか、左腕が義手になったこと以外は、誰も何にも教えてくれないしさ。不安なんだよ」


 沈黙したまま、ハンドルを握り続ける霧崎。


「ん? 自動運転にしてないのか?」

「オートにしたら、敵襲に遭った時にすぐに対応できないかもしれない」

「それもそうだな」


 取り敢えず相槌を打っておく。


「話を戻すけど。俺の義手、ただ左腕の代わりをするだけの代物じゃないみたいだな」


 そんなことは言わずもがな、なのだろう。偶然かわざとか、霧崎は自分の喉元を軽く擦ってみせた。


「だから悪かったって。俺もつい、カッとなっちまったから……。幸か不幸か、この左腕、強化されてるよな。生身の人間にはできないことができる」


 まあ、専ら破壊や殺傷に関することになるだろうが。


「どうせ俺を実験台にする狙いでもあったんだろうけど、まあいいか」


 聞こえよがしにそう言った、その直後。

 車が急に蛇行し始めた。霧崎がこちらに身を乗り出し、俺を揺さぶってきたのだ。そして、叫んだ。


「ちょっとあんた! 自分だけが実験台だなんて思わないでよ!」

「うわ!」


 唐突に大声を上げた霧崎に、俺は驚きを隠せない。


「ちょっ、前見ろ前!」

「今、自動運転に切り替えたわ。それより、この任務にあんたが加わることに、ずっと反対してたのよ、私」

「は、はあ……?」


 突然何を言い出すんだ?


「あんたが親友の森田順平軍曹を亡くして、今は谷修也曹長と相対する立場に置かれてる。自分の身体を改造されてまでね。それは――あまりにも気の毒よ」

「な、何だよ? 今更同情か? あんた、情緒不安定さに定評があるみたいだな」


 すると、ふっと霧崎は顔を前方に戻した。


「それに身体を改造された、って言っても左腕だけだ。脳まで改造された根拠はないんだし。生活に支障はない」

「それはそうでしょうけどね」


 前髪をかき上げる霧崎。

 取り敢えず、彼女のご機嫌取りはしておいた。思いがけず過去話になりそうにはなったが、今はそこまで踏み込む間柄ではなかろう。


 それでも、今の会話が俺にもたらした効果は絶大だった。


「あー、なんか落ち着いたみたいだな」

「全っ然落ち着かないんですけど!」

「あんたじゃない。俺だ。わけの分からん話になっちまって、すまなかったな。少しは不安を紛らわせることができたみたいだ」


 すると、霧先は左眉を軽く上げた。


「そう? ならいいけど」

「ああ」


 再びハンドルを握り直した霧崎の横で、俺は今後の問題点について考えた。


「いつかはこの左腕で、修也を殺さなきゃならないのか」


 呟いた俺に、一瞥をくれる霧崎。一応、気の毒だと思ってくれているのは嘘ではないらしい。


 そこまで考えが及んだ、その直後だった。車体が凄まじい勢いでガードレールと接触したのは。

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