第2話【第一章】
【第一章】
三日後、都内某所。
「おら、飯だ」
ガタン、と耳障りな音がして、食事が差し入れられた。食事と言っても、栄養剤を含ませた粘性のあるスープが一杯。辛うじて体力を維持できる程度の栄養素と水分しか含まれていない。
今の俺、瀬川篤は、周囲の味方の兵士たちを危険に晒したという理由で牢屋に入れられていた。窓はなく、裸電球が一つ、天井から吊り下げられている。また、ろくに掃除もされていなかったのだろう、強烈な黴の臭いが鼻をつく。
床も壁も天井も石を敷き詰めて造られており、冷え込みの激しい今の季節を過ごすには、なかなか厳しいものがあった。
こんな中で、味のない食事を差し入れられたからといって、空腹感を紛らわすことなどできるはずもない。
俺は、差し入れ口から滑り込んできたスープの碗を右手で取った。それを一旦床に置いて、再び右手を使って差し入れ口を押し返す。
何故右腕しか使っていないのか? 理由は単純で、今の俺には左腕がないからだ。
俺の意識が戻ったのは、洋上プラットホームでの戦闘があった翌日だった。その時には、既に左腕は切除され、幻肢痛が起きないようなケアも施されていた。
意識が鮮明になるや否や、俺は人事司令部へと引っ張り込まれた。右肩を支えられながら入室すると、上官が額に皺を寄せて待っていて、俺を禁固刑に処するとだけ伝え、すぐさま追い返した。
結局、順平を含めた戦死者の合同葬儀にも出られなかった。
そんな境遇において、俺の胸中を占めていたもの。それは、諦念だ。俺の判断ミスでヘリが撃墜されてしまったことも、俺の左腕が失われてしまったことも、既に終わってしまった過去として、受け止める外なかった。
禁固五年という司法判断にも異存はない。いっそ、十年でも二十年でも、好きに閉じ込めてやってくれという気持ちが強い。
両親を早くに亡くし、この準軍事組織・国防軍特殊作戦群第八課に身を置いたのも、死というものを身近に感じていたからだ。
どうせ死ぬなら、病に侵されたり、事件事故に巻き込まれたりするのではなく、『命を賭して当然』と言われる環境で、意義のある死を迎えたい。そう思っていた。
だから、順平が命を落としたと聞かされた今も、代わりに自分が死んでいればどれほどマシだったかと思わずにはいられない。
俺、修也、それに順平は、親を亡くした子供のための施設で出会い、そこで育った。それから先、十八歳になった今、共にこんな職務に就いているのも偶然ではあるまい。修也も順平も、自分なりに諦念を抱いていたはずだ。
家族を喪ったことで、社会から爪弾きにされてしまった。そんな諦めだ。
俺たちは、施設で酷い扱いを受けたわけではない。だが、家族のいる幸せを享受している人々を直視するのは辛かった。
そういう意味で、順平に妹がいたことは、正直羨ましかった。順平は、天涯孤独というわけではなかったのだ。もしかしたら俺や修也は、三歳下のその少女――森田梨華に淡い恋心を抱いていたかもしれない。
梨華は今、十五歳。兄の死を知らされて、一体どんな気持ちでいるのだろう。
俺は自分のことよりも、彼女のことが心配だった。俺、修也、順平の三人組が軍人として志願して以降、彼女の噂は聞いていない。
どこかで幸福に暮らしていてくれればいいのだが。少なくとも、兄の死を悲しむだけの人間らしさを抱いた状態で。
そこまで考えが及んだ、ちょうどその時だった。この牢屋のあるフロアが、何やら騒がしくなった。
誰が何を言っているのかまでは分からない。石畳に反響して、よく聞こえないのだ。
俺はだんだん、この牢屋という環境の静けさに慣れてきたところだった。騒ぎを起こすなら、他所でやってもらいたいというのが本音である。
だが、俺の希望に反し、ざわめきはこちらに近づいてくる。最奥部である、俺の個人牢に。
唐突に、何かが弾けるようなパチン、という音がした。見上げると、牢屋の中を映している監視カメラが停止している。一体何事だ?
やがて、俺の視界に見慣れた人影が入ってきた。第八課の課長を務める、沢木拓蔵大佐だ。
五十代前半で、でっぷりと肥え太った体躯をしている。とても実戦部隊の長とは思えないが、作戦立案の優秀さでこの地位に昇り詰めてきた人物らしい。
タレ目で豊かな口髭を持ち、代わりに前頭部が禿げ上がっている。デスクワーク上がりの人物だけあって、気迫もオーラも感じないのだが、それでも上官は上官だ。
俺は立ち上がって敬礼しようとして、見事に転倒した。
「うあ!」
無意識のうちに、左腕を使おうとしてしまった。左の掌を床に着こうとしたのだ。
「ああ、そのままで構わんよ、瀬川軍曹」
寛大さをアピールするかのように、穏やかな口調で語る沢木大佐。俺はせめて誠実であることを示そうと、上半身を持ち上げて右手で敬礼した。
大佐は頷きながら、ゆっくりと返礼する。
「実は、私から直々に、君に任せたい任務がある」
「俺……じゃない、私に、でありますか?」
つい地が出そうになってしまった。大佐は無感情なまま、言葉を続ける。
「我々第八課の人間から、脱走兵が出てしまった。瀬川軍曹、君には彼の身柄の確保を頼みたい」
脱走兵の身柄確保? それは憲兵隊の任務ではないのか?
そんな疑問が俺の顔に出たのだろう、大佐は『これは君にしかできない任務だ』と付け加え、隣に立っていた部下から一枚の紙を受け取った。
ひらり、と紙を空中で翻すと、そこに青白い立体画像が現れた。そして同時に、俺は自分の顔までもが青白くなるのを感じ取った。
「しゅ、修也……?」
思わず俺は、立体画像に呼びかけていた。そこに現れたのは、疑いようもなく俺の親友、谷修也曹長の姿だった。
軍の身分証明用の写真であるから、厳しい表情をしている。しかし、それでも人懐っこさを感じさせる柔らかな目元や、穏やかな微笑みを隠しきれてはいない。
「か、彼が一体何を……?」
「脱走だ」
大佐の部下が、冷たい声音で応じる。さっき言っただろうが、という苛立ちを隠そうともしない。
それを頷いて肯定しながら、大佐は続けた。
「ん。問題は、谷修也曹長が、重要な機密データを保持して逃走したということだ」
機密データ? 一体何だ?
「セキュリティやバックアップ体勢はどうだったのですか?」
「生憎、そう簡単に答えられるものではなくてね」
大佐はさも残念そうにかぶりを振った。とにかく、世界に一つだけの最高機密データらしいということまでは理解した。
「瀬川軍曹。君は幼い頃から、谷曹長と親密な仲だったと聞いている。確かかね?」
「は、はッ」
今更ながら、俺はようやく大佐の言わんとするところを察した。修也の動向を掴むために、彼の親友だった俺が、この任務に適任と判断されたのだ。しかし、そこには大問題がある。
「しかし大佐、自分は傷痍兵の身です。万が一追跡や、戦闘状態に陥った場合、圧倒的に不利です」
「その点は心配ない」
大佐は俺と目を合わせたまま、後ろに手を遣った。すると大佐の部下が、先ほどと同様の紙を手渡した。立体画像投影紙だ。
大佐が再び、ひらりと紙を翻す。そこに映ったものを見て、俺は息を飲んだ。
太い上腕に人工関節、循環器系のシステム、細部まで構築された五本の指。
「君に与えよう。この新しい左腕を」
俺はついつい魅了されてしまった。檻の柵に手をかけ、じっと見入る。
「もしかしたらと思ったが、左腕への未練は大きかったのかもしれないね、軍曹?」
その言葉にはっとした。まあ、自分の左腕よりも、左腕と共に失われたもの――順平やヘリのパイロットたちの命――の方が価値あるものだと思いたいところだが。
それに、この腕が与えられるのは、飽くまでも捜査を行い、修也を確保するためだ。最悪、修也をこの左腕が殺してしまいかねない。
「君の懸念はよく分かるよ、瀬川軍曹」
目をつむりながら、大佐は言った。
「だが君が、自ら十分な捜査を行わなければならないという状況に変化はない。でなければ、君は失われた左腕のことを思いながら、この監獄で長い時間を過ごすことになる。分かるかね?」
そうか。大佐は俺に、覚悟を決めろと言いたいのだ。
無論、修也を傷つけたくないという自分のスタンスは変わっていない。しかし、
「これは私にしかできない任務なのですね、大佐?」
「そうだとも」
腕を組み、大佐は大袈裟に頷いた。
それに、他人任せにしたら、どうして修也は機密データを盗んで脱走しなければならなかったのか、一生分からず仕舞いかもしれない。
俺は右腕で檻を掴み、自分を立たせ、身体の重心を意識しながらゆっくりと敬礼した。
「その任務、どうか私にやらせてください」
すると、大佐はその顔に満面の笑みを浮かべ、顎をしゃくった。部下がすぐに、牢屋を開錠する。
「では、君のパートナーを紹介しよう」
俺は一歩、右足を踏み出しながら、ぐっと頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます