第4惑星
いとー
第4惑星
農作業を終えて丘の上の我が家に戻ると、西の空にゆっくりと迫り来る砂嵐が見えた。わずかに赤みを帯びているくすんだ薄茶色の空が、舞い上がった砂塵によっていつもより濃い茶色へと塗り替えられている。地平線を遮る巨大な砂塵の壁。この景色を目にしたのは、20月に入ってからこれで3度目だった。
「この前よりも大きいわ」
妻のダイナが農具を片付けながら言った。彼女の言う通り、砂塵はこれまで以上に高く舞い上がっている。見掛けではもう雲と砂塵のどちらが上にあるのか分からないくらいだ。きっと1日以上は砂塵に包み込まれることになる。
秋に植えた作物が何よりも心配だった。ジャガイモもライムギも、葉を付け始めたばかりでまだ弱い。砂塵が強く吹き付ければ痛むし、日照量の低下と乾燥は生育不全に繋がる。そして嵐が去った後には、埃っぽい砂塵が畑に分厚く積もった様子を呆然と眺めることになるだろう。
「これじゃあ冬を越せない」
分かっているよダイナ。数年前にも同じような砂嵐に襲われていくつも畑が死んだのは覚えているさ。だが相手は自然だ。昔と違って、今は誰も手を付けられない。
「大丈夫だよ。西の畑は根菜にしたんだから、地中までは荒らされない」
「ライムギが心配なの。これ以上痛んだら、麦踏みを代わりにやってくれたなんて言えなくなるわよ」
「言えることを祈るさ」
それが出来ることの全てだ。あるいは諦めるか。
実際、ここ数年で状況は急激に悪化している。冬の訪れと共に砂嵐はやってきて、耕作可能な平原を、乾燥限界を超えた赤い荒野へと塗り替えていく。この季節に砂嵐が頻発することは、人類が移り住むはるか以前からのサイクルだから仕方ないとしても、我々を襲っている砂嵐は単に季節性という言葉で片付けられるものではない。これは、この星の暴力的な反抗なのだ。
変化に先立つ事象、あるいは復元力。それはずっと前から存在していた。
かつてのクリュセの町並みは今でも覚えている。青春時代とその後の余韻を過ごしたこの街は、若者に希望を持たせられるほどには発展していた。東側に広がる海と護岸に並ぶ船舶は、北半球を占める大海洋への玄関口というこの街の特色を端的に示す代表的な光景だっただろう。要港の存在は海への憧れを持つ者にとってこの上ない魅力であり、私も魅了された若者の1人だった。やがて私はダイナと出会い、望んでいた港湾労働者にもなったが、それは長くは続かなかった。
後退する海岸線。かつての管理者達が居なくなって以来、この星の海は縮小し続けている。海水温の低下、海氷形成、地殻浸透、上層大気からの水蒸気流出。学者達はあれこれと原因を提唱していたが、解決策を提示してくれる者はいなかった。
結局のところ、この星は自然状態ではないのだ。大気も、海も、植物も、全ては人の手によって造られた。誰かが全てを把握して手を加えなければ維持できないが、今の我々はその誰かになれない。テラフォーミングの技術と知識は失われ、取り戻すには途方もない多くの時間と資源が必要だろう。だがその間にも、この星はかつての姿に戻ろうとする。酸化鉄を多量に含んだ大地。水は失われ、大気も磁気圏も存在しない、極寒の赤い惑星。
クリュセの港は数年の間で干上がった。こうなることは分かっていたし、これまで何度も同じことがあって対処してきたが、ついには掘削も移転も間に合わなかった。かつては護岸に並んでいた船舶が、今では露わになった海底の上に放置されている。まるで墓標だった。
諦めずに後退した海岸線を追いかける者もいた。オキアミ養殖業なら港がなくても海水さえあれば出来る。だが私達を含めた多くの家族は、西側から侵食する赤い荒野を食い止めるべく農家になることを強制された。港は再建すればいいが、砂塵に埋まれば都市自体の価値がなくなる。だから荒野を耕す者がいれば猛威を振るう砂嵐に対抗できると、その時のクリュセの支配階級は本気で思っていたらしい。
この星にとっては、無駄な足掻きかもしれないが。
私とダイナは砂嵐を逃れるべく籠城していた。家のドアや窓はいつものように全て締め切っている。
まだ陽は沈んでいないはずだったが、砂嵐に覆われて時間が経っていたせいで外は既に暗くなっていた。外に見えるはずの我が家の農地もすっかり見えなくなり、窓は嵐によって巻き上げられた砂塵が当たり、サラサラと音を立てているのが聞こえる。
「夜には抜けてくれるかしら?」
ダイナが呟く。窓の外、何も見えない空を眺めながら。
彼女が何を言いたいのかは分かっていた。宵の明星――彼女が昔から明星信仰に熱心なのは知っている。だが今回の砂嵐は巨大だ。半日で抜けるようなことはないだろう。今日の夜はおそらく真っ暗だ。
「見えなくても祈れるさ。気にすることはない」
私にとってはどちらでも良かった。彼女ほど信仰している訳ではない。ただ慣習として私は祈っているだけだ。
「見えることが大事なのよ。存在していることを実感しないと、祈りは明確にならないわ。それにもしかしたら、彼らもこちらを見ているかもしれないでしょう?」
「歴史学者は、彼らは滅んだと言っている」
「文明が崩壊しただけ。彼らが全員死んでしまった訳じゃない。明星は輝いているもの」
なぜそんな期待を持てるのか、私には分からなかった。彼らが生き残っているという証拠は何も見つかっていない。宵の明星も、明けの明星も、その輝きは単に太陽光が地球に反射しているだけの物理的な現象によるものだ。地球で再興しているかもしれない人類の活動の証ではない。
「どうして彼らをそんなに信頼しているんだ? 偉大な力を持っていたのに、あっけなく文明を崩壊させた。そんな彼らが、遥か昔に取り残した人々の末裔を気に掛けると思うか?」
「それは分かってる。彼らは愚かで、過ちを犯したわ。けどこの星を作り変えたのは、その彼らよ。私達じゃない。頼らない理由がある?」
空しい信仰だと、改めて思う。私達は生き残ったというのに、未来に待ち受ける緩やかな死を避けるには、滅んだであろう人類の復活に頼るしかない。それは確かに事実だが、どうしてそこに信仰を絡ませられるのだろう。
ダイナ、君は宵の明星に何を祈るんだ? 未来への期待でも、ささやかな幸福でもなく、ただ助けてくれと救難信号を送るのか? 約束された救済がないのなら、私にはそんなことをする気力は湧かないよ。
ふと窓の外を見やる。景色は一向に変わっていない。ただ舞い上がった砂塵が風に吹かれているだけで、陽が沈むにつれてそれも徐々に見えなくなっていった。明日にはここも荒野に塗り替わっているだろう。
この星にとっては、それがあるべき姿なのだから。
第4惑星 いとー @ITO_MIRAI
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