第二節 会堂の男

 わたしはあの、洗礼を受けた男の事が四十日ほど忘れられないでいたが、その内わたしの日常はいつもの平凡に戻りつつあった。ただ単に、ちょっと目立っただけの男。特に有名人でもないその男に、強い衝撃を受けたのも、日に日に過去に送られていった。

 その日、営業の為にカファルナウムという町にいた。わたしはいつも通り、実入りの少ない小銭が間違っていない事を確認し、どこで弁当を食べようかとふらふら歩いていた。すると会堂の前で、人だかりを見つけた。わたしはその人だかりに寄っていった。ヨルダン川の時よりも若干小さな群衆だが、あの人が―――あの三十路男がいるのだと気がついたのだ。労働に草臥れ、砂を被った男達の向こうに、彼がいるのだと思うだけで、わたしの胸は何かきらきらしいものに満たされる。

 ああまったく、よく見えないし群衆がうるさい。よいしょ、と、つま先立ちをしたその時、わたしの背中を、誰かがドンと突き飛ばし、人だかりの中心に、奇声を上げながら走って行った。悪魔憑きだ。背中を見る限り、それは男のようだ。視線で追うと、思った通り、ヨルダン川で洗礼を受けていたあの人が教えていた。彼はやはりラビ(教師)だったのだ。悪魔憑きは彼の前に躍り出て、両足を器用に結び、胸を反らせ、芋虫が叫んだ。

「一体、私たちに何をしようというのです。貴方は私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私は貴方が何方か知っています。神の聖者です!」

 すると、その言葉を肯定するかと思いきや、三十路男はキッと男をにらみ、叱りつけた。

「黙れ。この人から出ていけ。」

 わたしはその時初めて、三十路男の声を聞いた。穏やかに微笑む獅子のような声色に、私はぞくりと冷や汗をかいた。しかしもっと冷や汗をかいたのは、そのように言われた悪魔憑きが、本当にもだえ苦しみだし、激しい叫び声とうなり声に身体を引きちぎりながら、その男から本当に出て行ったことだ。これにはわたしも、ぽかんと口を開けた。人々がこの方は一体何者なのかと論じている声が酷く遠くに聞こえた。わたしの魂が、三十路男を求めて震えているのを感じる。わたしはとても感動していた。わたしは香油を抱えたまま、彼の話に聞き入っていた。

 その時から、わたしは名を名乗りあったことも、食事を共にすることもしていない三十路男を、先生と呼ぶようになった。妻を家に迎えたときよりも、激しく臓腑が震える。あの人の噂があるところ全てに香油を持って歩いて行った。一月分の金勘定が、一アサリオン(約二円)のズレも無く、取税人や別の商人の不正を全く許さなかった時の、なんとも言えないピッタリとした優越感。あの人がいる所に行くと、わたしはその優越感の更に上のところを思い知らされる。わたしはその領域に恋い焦がれていた。金と油だけに人生の楽しみを見いだしたわたしが、形のないものに初めて価値を見いだし、そこに熱中した。ふしだらと思われても構わない。わたしはあの人の言葉という踊り子の異邦の踊りに魅了されていた。

 わたしは、あの人に激しく恋をしていたのだ。

 時々聞くあの人の噂は、良い物も悪い物もある。あの人の名前を侮辱して呼ぶ者もいたし、今目の前に居るあの人は人間では無くて過去の預言者なのではないかという話も聞いた。

 あの人、あの人。わたしのせんせい。

 嗚呼、貴方になら、わたしの持っている三百デナリの油を全て踏みにじられても構わない。それで貴方のお姿が少しでも見られるのなら!


 先生の噂は、この悪魔憑きを祓ったことや、わたしの目の前で起きた中風の人や皮膚病の人を次々と、言葉一つで癒したことで、またたく間に広まった。しかしわたしは、先生が何者であるかなど、あまり考えなかった。考えれば、先生が遠く離れていくような気がしたからだ。先生をお呼びするための名前さえ分かっていれば、わたしは先生がどこの出身であろうと誰の息子であろうと構わない。父親の分からない猥らな女の息子であろうと構わない。そんなことはどうでもいい。

 しかし、ある時にわたしが営業ではなく全くの遊びでカファルナウムを歩いていた時、先生と出くわした。先生はその時、早くも弟子らしき初老の兄弟を連れていた。そういえば、以前漁師が四人も廃業したと言って、港が騒いでいたことがあった。

「先生、先生、今晩はどこに泊まられますか。」

 宿が決まっていないらしい。どうせなら、と、わたしは先生を、わたしの住む家に誘おうかとも思った。が、なかなか声が出せない。先生とその弟子が、一歩一歩、わたしの隣の平行線の上を歩いて近づいてくる。今言わないで、いつ言う機会があろうか。あんなに焦がれていた先生が今此処にいらっしゃるというのに、臆病なわたしは一体どうして下を向いて、剰えきゅっと口をへの字に結んでいるのだ、まったくこの軟弱者め! しかし、なかなか、『あの』という一声が、わたしの喉から出て行こうとしなかった。わたしがふい、と顔をそむけた時、先生の足音が、わたしの隣で止まった。すわ、邪魔になるかとその場を離れようとしたが、先生がわたしの名前を呼び、言われた。

「なぜ逃げるのですか。私は貴方の案内する所に行こうと思っているのに。」

「!」

 心を読まれた。先生の周りの弟子たちは、わたしを奇異の目で見ている。わたしは先生に何を言われたのか理解できず、不思議で見つめた。見れば見るほど、取るに足らない平凡な男だ。その顔は確かに凜々しいのかも知れないが、わたしが先生の顔を見つめても、先生の言葉の踊り子を見つめるような憧憬の炎は舞い上がらなかった。…と、いうより、わたしはこの何の色気も美しさもない中年男何を見つめ合っているのだと、だんだん虚しくなってきた。見れば見るほど、先生は魅力的な男ではない。少なくともわたしが先生に求めているものは、斯うしてただ見つめ合っているだけでは与えられなかった。

先生はわたしにもう一度言った。

「私は、貴方と夜の食事をしたいと思っています。」

「!!」

 一日のうちで最も大切な時間を、先生がわたしと共に? そのように親しい間柄に入れて下さるのか? なんと大胆な、すわこれは神の導きか!

 先生がわたしを御心に止めている。わたしに興味を持っているのだ。と、わたしは妙な自信のようなものを持って、先生を家に案内した。隣人達は、先生が最近噂になっている件のナザレ人だと知り、すぐに自分たちの家からパンを持って来たが、生憎わたしの家には彼らを入れる余裕が無かった。わたしは金勘定が好きなだけで、金を使うことには興味が無いからだ。要するに家は狭いし敷布もないし膳もない。寧ろ借りたくらいだ。

 先生はわたしに、先生の教えている事をもう一度、わたしだけに話して下さった。遠くから眺め、首輪や腕輪の飾りの鳴る音を聞くだけだった、わたしの踊り子。わたしの恋。それがわたしの前で、たった一人、わたしのためだけに踊っている。踊り子はわたしを見つめ、わたしも踊り子の瞳を見つめ、その前身の躍動を体で受け止めていた。法悦に満たされたわたしは、悪魔を祓った奇跡以上に有意義なものを感じた。あの時の興奮が、今は至極穏やかで、わたしの心は、春の木漏れ日のように揺れ動くこともなく、ただおっとりと咲いている野の百合のようだった。わたしは背負うものもない身、香油売りを止めて、この方についていこうと、その日の晩のうちに決意した。


 翌朝、わたしがそれを先生に告げると、先生はただ一言、ついてきなさいと言って、何も言わなかった。弟子たちはわたしに対して驚いていたようだが、わたしを歓迎してくれた。

 この先何があろうとも、わたしはこの方について行く。忠誠をお誓いするのだ。もう、故郷にいる家族の事など気にならない。わたしは、先生に隷属する悦びに満たされているのだから。 

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