第一節 約束の男

 どうしてあんなにも、空はのんびりとしているのだろう。ああ、鳩が飛んでいる。


父祖の残したこの地が異邦人に踏み躙られ、人々は約束の救世主の到来を信じて日々を耐え忍んでいる。荒くれ者の兵士どもはバカバカと砂煙を上げながら馬を乗り回し、税金を搾り取る。時の皇帝の名前は…忘れてしまった。

 わたしが生まれたのは、父祖の十二人の子供のうちの九番目の男の家系。父祖の信仰に報いて生まれたとされる男の、子孫の家系である。そして生まれ育ったのは、カリヨトという、イスラエル王国南ユダヤ地方の村だった。イスラエル王国は、地中海の恵みを受けるものの、周囲をギリシャやローマと言った異教徒に囲まれる小国だ。実際わたしの生活には、いつでもローマ帝国の属国としての搾取が何かしら入り込んでいた。ただわたしは、誇り高い我々イスラエルの民の労働をローマに売る取税人や、死体や、罪の結果である病気に触れる医者たちなどとは違い、どちらかというとイスラエル民族の生活必需品に携わっていたので、他のイスラエル人よりも、彼等と接する機会は少ない方だっただろう。

そんなわたしの名前は、当初家系の始祖の名前を取ろうとか、わたしの父の名前を取ろうとかいう意見もあったそうだが、祖父の名をとり、また生まれた村の地方の名前もとって、別の名前をつけられた。その名前は、始祖の異母兄弟の一人の名前で、『賛美』の意味を持つ由緒正しい名前。ありふれたものだったけれども、わたしはいつでも優越感に浸っていた。というのは、名前負けしないよう、幼いころからとても高度な教育を受けることができたからだ。家が裕福だったこともある。私は文字の読み書きが多少できて、特に計算が得意だった。なので、ローマへの税金を着服する取税人の罠は直ぐに見破り、わたしは自分の家の財産を守ることが出来た。父の仕事を手伝い、家計簿はわたしがつけさせてもらっていた。将来は父と同じように、香油売りになるものだと思っていたし、わたしもそれを望んでいた。香油はイスラエルの人間にとって大変重要な物だ。死体の防腐剤にも使うし、普通に火を灯すのにも使うし、子供の立身出世祈願などにも使う。香油売りは、場合によっては偉い先生方の頭に垂らす為の香油を売る事もあるので、偉大な先生とのコネが作れることもある、大きな仕事だ。父はそれが誇りだったらしいが、わたしは決してその希望があって望んでいたわけではなかった。惰性でそうなっていただけである。私は帳簿を睨みつけるようになると、決まって外へ出た。雨の日も、夜でもだ。

 わたしは空を眺めるのが好きだった。空を行く鳥が好きだった。種を撒くこともせず、刈り入れをすることもなく、ただ飛んで歌うだけで神に養われるあの鳥たちが、どんなにか自由で眩しく、美しく見えたのか、筆舌に尽くし難い。わたしはいつかああして、何のしがらみもなく、風に乗り風を纏い、自由に流れるように飛びたいと思っていた。

 わたしは自分自身がとても嫌な性格であることを知っていたし、それと同時にわたし自身がそれほど大した人間ではないことをよく知っていた。わたしは嫉みも妬みも人一倍持っていたし、奪うなと言われても奪おうと策を巡らせてしまう。それでもわたしが裁かれないのは、単にわたしに行動力がないだけだ。それなのにわたしは人によく見られたくて、大通りで犬に顔をなめられるような乞食に、一デナリオン(凡そ一万円)をポンと渡していた。決して優越感からした行いではなかったが、純粋な憐れみ故の行動ではなかった。ただ、渡すと心地いい気分になって、それが抗いがたいものだったからだ。勿論、そんなことが家族にばれると面倒なことになるので、帳面はごまかしていた。

 そういうわたしだから、仕事以外で人と関わりを持つのは、酷く苦痛だった。見栄があるのも、体裁があるのも、欲があるのも分かる。分かるが故に、わたしは自分の妬みの強さを自覚し、より一層自分が嫌になる。そんな風に自分の価値を下げていくくらいなら、香油を量っている方が良かった。香油を買いに来る客の一部は、先に述べたように家で出た死者の肉体が腐らないために求めてくる遺族だった。彼等は余計な事を喋らない。人一倍死や病などの苦痛は嫌いなくせに、私はこの世で一番、遺族と呼ばれる人々、つまりは寡が好きだった。彼女等は余計な事は言わないし言う必要もないからだ。だからわたしは、彼女達のような気の毒な、娼婦になる寸前の貧しい女達に施しをするのは快感だったのだ。まあ、だからと言って娶ろうと言う気はない。抑々わたしは、恋愛ごとより商売が好きだからだ、商売は信用だの何だのと鬱陶しいものだと思われるかもしれないが、そうではない。わたしにとって、商売に使う銀貨は全て小道具だ。その小道具をどうやって使うかで、商売の楽しさは変わるし、相手の扱い方も変わる。わたしはこの小道具の価値を正確に測る事で、仕事をやりやすくしていたのだ。

 それからわたしは、聖書の定めた律法も碌に守ったことがなかった。安息日は堂々と仕事を休むことができたので、それだけはきっちりと守っていたが、それ以外はてんで駄目。それについて考えていくとどんどん自分が惨めになるので、わたしは考えないことにしていた。ただ決められた儀式のように、生贄いけにえの動物だけを捧げることは欠かさなかった。律法も碌に守れないわたしでも、やっぱり我が身は可愛かった。動物を屠るだけで、わたしの死や病が遠ざけられるのならば、わたしは今後、何かの事情で生贄の動物が用意出来なかった時の為に、動物を買い占めて一度に屠ってやれれば安心なのに、と、常々思っていた。少なくともわたしは、自分の身の安全のために誰もが人間なり動物なり奴隷なりを利用していることは大賛成だったし、同じようにわたしが死と病とを忌避する為に手を尽くすことに関して、何のためらいもなかった。


 今日の分の香油を売り終えて、帳簿を付けていると召使の一人が呼びに来た。父が呼んでいるとのことだったが、生憎とわたしは今勘定をしている。あと二、三日で死ぬかもしれない父よりも、あと二十日先の生活を支える資金繰りの方が大切だったので、待つように言った。坊ちゃまはどうのこうのと言うので、じろりと睨んでやると、召使は黙った。全く、うちで飼ってやっているから物乞いをしないで良いと言うのに、余計な事をべらべらと。人の家庭には複雑な事情があるのだから放っておいてくれ。

 帳簿を付け終わり、屋上に出て軽く風に当たる。太陽は傾き、地中海に沈んでいく。もうそろそろ一日が終わり、夜になる。夜が来たら、昼に売る分の香油を選ばなければ。明日になるのだから。

 …ああもう、本当にしつこいし煩い。もう少し空を見ていたかったのに。わたしは苛々しながら家の中に入り、父の寝室に向かった。父は耳だけは良いので、わたしが部屋に入ると直ぐに気が付いた。

「倅や、倅。ここにおいで。遅くまでご苦労様。父も嬉しいよ。」

「お父さん、ここにいます。今日もお父さんの薬の分だけ、香油を売ってきました。今お母さんが用意をしています。」

 父は病に侵され、目と鼻が利かなくなっていた。父は生贄いけにえを欠かしたことがなかったのに、何故かこうして神から罪を咎められている。わたしはその意味で父を軽蔑していた。否、育ててくれたことも、わたしに教養を授けてくれたのも、それは感謝しているとも。けれども生贄いけにえを怠け、病の醜穢に落ちた父は尊敬できなかったし、わたしはこのようにはなるまいと強く思っていた。それでも父は、利かない目の代わりに、わたしに触れてくる。幸いなことに、わたしはそれが苦痛とは思わなかった。同情していたからだろう。穢れに満ちた病人が、闇の中で何にも触れられない事はきっと、とても怖い事だから。

「父はもう長くない。倅、お前ももう二十になるね。成人した記念にエルサレムに行ったことが、もう八年も前なんて不思議なものだ。今でもこんな可愛い、父の倅なのにね。」

「お父さん、弱気な事を言わないでください。先日、わたしの許嫁になる娘がようやく、歩きはじめました。あと十年もすれば、孫を抱かせてあげられます。」

「それは、主の下で見る事になりそうだ。ああ、倅。父の希望よ、父の為に祈ってくれ、父は死が怖い。」

 父は臥せってからこっち、弱気になるといつもそう言う。わたしは祈った事がなかった。わたしとて父が死んで悲しくない訳ではない。死んでほしい訳がない。ただ優先順位がある時にはそちらを優先するだけだ。父の事を蔑にしているから後回しにしているとか、そんなことは断じて違う。ただわたしは、わたしも死が怖いから。裁きが怖いから。だから祈りたくなかった。考えたくなかったのだ。


「お前がね、倅。」

「はい?」

「とても、悲しい夢を見たのだ。」

「はあ。」

 その日、父はいつになく、透き通った声で、まるで光が射すように語った。

「お前は何百年、否、何千年と、後の世に語り継がれる偉大な人物になるのだ。だけども、お前の為に、我々イスラエル人は死ぬ。殺される。お前を産んだ民族と言うだけで、我々の子々孫々は虐げられる。そしてその偏見は世界を取り込み、未来を取り込み、我等の主を侮辱する。我等が、主の平和を守ろうとすることが悪だと吹聴される。全てはお前の為した偉業の故に! 何という事だ、お前は正しい事をしたと言うのに、誰一人としてそれを知らないだなんて!」

 可哀想に、可哀想に、と、父は私の指先に口づけた。もう長くないのだろう。夢を啓示と間違えているらしい。わたしのような些末者が、後世に語り継がれるとしたら、わたしの子孫の伝承に出てくるくらいだろうに。それとも父は、イスラエル人が、地の果てまで、海を、山を、ローマをも乗り越えて広がり、尚そこで虐げられると信じているのだろうか。ローマ人でもギリシャ人でもエジプト人でも、アジア人ですらない人間? そんな人間がいるのか? そんな人間が仮にいたとして、彼等は、神の選び給いし我等イスラエル民族を打ちのめすほどの力を、悪魔に与えられていると?

 馬鹿馬鹿しい。もしそうだとしても、わたしには関係ない話だ。わたしは清い妻を娶るか何かをして、香油を売って、普通に暮らしているだけで良いのだから。


「倅、倅。」

「お父さん、ここにいますよ。貴方の息子はここにいますよ。」

「導かれて行きなさい。信じた道でも、正しい道でもなく、唯一つ、神の導きによる道を行くのだ。どんな誹謗中傷も、神に繋がっていればお前は護られる。嘗て、初めての殺人者が神に護られたように、如何なる罪をお前が犯そうとも、神はお前を護るであろう。父が主にそう願いに行こう。だからせがれよ、旅立つがいい。このカリヨトを、ユダヤの都市を出て、北の田舎へ、ガリラヤ地方へまでも! イスラエル王国の北へまでも行くのだ。この王国全ての死体に、お前の香油を売ってやりなさい。」

「はい、はい、お父さん。確かにそうします。」

 父は、そう言い遺して、三日後に亡くなった。わたしは父に、三百デナリオンはする最高級の香油を塗り、丁寧に布を撒いて、墓に入れた。私が二十の春、まだ時折風の突き刺す頃の事だった。


 父亡き後、わたしは未来、わたしの妻になる娘をカリヨトにおいて、少しずつ商売の幅を広げていった。旅人達が行きかう所にはどこにでも出かけた。香油は良い傷薬にもなるからだ。わたしはそうして旅費を稼ぎ、遠くへ出稼ぎに行き、村に戻る。その繰り返しをしていった。いつしかわたしの原動力は、父の言葉よりも、金勘定の楽しさに移動していった。実入りが良ければ、もっと良い香油を手に入れて売る事が出来る。そうすれば、母を世話する召使も増やせるし、めでたい日には傷の無い初物の羊を飼って屠ってやれる。その為には、どこに行こうか。何処に売りに行けば、新しい顧客が得られるだろうか。他にも良い香油を手に入れられる口はないだろうか。どこに行けばそのような噂や品物を見ることが出来るだろうか。そこへ行くにはどれくらいの予算がいるだろうか…。わたしは帳簿を付けながら、自分の商売が上手く行くことがとても楽しかった。金勘定は夢のある作業だった。

 わたしの許嫁が物心ついたころに、母はわたしに結婚の意思を聞いてきた。あっという間に、わたしは結婚適齢期になっていた。わたしは長男だから、この家の血を守り、子孫を残さねばならない。だが一人は気楽だ。妻を持ってしまったら、わたしの汚い所まで全て知ってしまう人間が現れてしまう。わたしはそれを何よりも恐れていた。もしかしたら、魂を滅ぼすことのできる御方よりも。わたしは、結婚はもう少し待ってほしいと言った。わたしはまだ、ガリラヤ地方に行ったことはなく、父の遺言を成していない。遺言に報いて、家長の風格を身に着けたなら、その時は満を持して妻を迎えに行く、と言った。母は納得し、どこか誇らしげだった。

しかしそうこうしている内に、わたしの許嫁はあっさりと病気で死んでしまった。突然の訃報に驚いて、急いで出稼ぎ先のエルサレムからカリヨトに戻ったが、その時既に、許嫁は墓に葬られて三日が経っていた。わたしは勿論悲しんだが、何よりも母がそれで参ってしまい、臥せってしまった。もう結婚も秒読みだと思っていただけに、期待は大きかったのだろうし、わたしの末の妹が、ちょうど許嫁と同じ年頃だったので、余計な心配をしたのかもしれない。わたしは母を安心させるために、許嫁だった娘の妹を妻に決め、祭司に大金を握らせて否がおうにも強引に妻として迎えた。母はわたしの強引な手引きなど知る由もなく、この家はもう大丈夫だ、と、安心して、安らかに逝った。父が死んで、僅かに三年後のことだった。

 幸い、わたしの新しい、そして最初の妻は、好いた男も、親が決めた許嫁についても知らされていなかった。わたしはたった一人の息子だ。商売に専念したくても、跡継ぎがいなければ教える事も出来ない。父は存外長生きをしたが、わたしもいつまでも生きている訳ではない。妻を得た以上には、商売よりもやらなくてはならないことが増えてしまった。非常に煩わしい事だった。わたしは商売が何より好きで、生き甲斐だったからだ。

 わたしは跡継ぎが生まれるまで、商売の助手をしていた妹婿たちに任せ、一度家に籠った。

三年後、何人かの赤ん坊は死んだが、漸く二人の息子が生まれ、もう大丈夫だろう、と、思って、わたしは商売に戻ろうとした。

 しかし、その為の全ては、妹婿たちが乗っ取ってしまっていた。わたしの商売人としての居場所は、もう無かったのだ。妹たちは、ずっと商売に明け暮れていた実の兄よりも、情を通わせた自分の夫がこの裕福な家で一緒に暮らすことを望んでいた。わたしの妻ですら、わたしの事は必要ないようだった。自分が商売よりもわたしに愛されていない事を理解していたからだろう。

 驚いている時間も惜しい。わたしは不思議と冷静だった。父の遺言を思い出したからだ。決めるや否や、わたしはこんな家はお前達にやる、と、妹たちを残し、遥か北の田舎、ガリラヤへ発った。父の死から六年、母の死から三年が経っていた。嫉妬も妬みも怒りも何もかも、家に置いてくる心算で、わたしは足早に家を出た。だが道すがら、わたしよりも正確に計算が出来ない妹婿への呪いが零れる事を止める事は出来なかった。零れた呪いは、わたしの足跡に残り、地面を抉っていた。だがわたしの心を抉った事は、あのように矮小な妹婿に心を掻き乱される位に、自分が落ちぶれてしまった事だった。

 嗚呼、こんな時に、誰よりも強いわたしの主がいたならば! わたしはこんな風に悩まされる事もないだろうに! 預言者の遺した言葉の通り、我等ユダヤ人を救い給う『王の子孫』がわたしの雇用主だったならどんなにか満たされるだろうか!

 そんなわけで、わたしは『王の子孫』について日々思い巡らしながら、ガリラヤに居を構えた。だがもしそんなお方がいたら、遠くから木に登って御髪の天辺だけでも拝みたいとも思っていた。きっとそんな高潔なお方は、わたしのような卑しい心根の者には見向きもしてくださらないからだ。

 

 ガリラヤに移住して一年は経っただろうか。ガリラヤは漁村が多いので、良い魚は食べられるが、如何せん首都エルサレムが遠い。以前に祭りに登った時は、死ぬかと思った。空も、鳩よりもぎゃあぎゃあと煩い魚を食べる鳥が多く、わたしの知る空とは違った。それでもやはり、空は空だ。こんな田舎だから、香油もなかなかどうして、安くしても安くしても売れない。この貧乏人どもめ。

そんな舌打ちを繰り返すような帰り道も、喧しい空を見上げると、やはり気がすぅとする。

 しかしその日の空はどんよりと曇っていて、もうそろそろ雨が降り出すかもしれなかった。わたしはだから早く帰ろうと思って、足早に家に向かう事にした。大切な壺が濡れては、香油の質に関わるからだ。村を流れるヨルダン川の近くへ来た時、何やら人がたくさん集まっているのを見かけた。どうやらある教団の代表者―――洗礼者が、ヨルダン川で洗礼を授けているらしい。駱駝の皮をまとった、あの野獣のような修行をする彼らを、わたしは好かなかった。普段だったら気にもせず、むしろ遠回りをしてでも距離を置こうとする。だが、なぜかその日、わたしはヨルダン川に側面する道を行くことにした。

 否、『ことにした』というより、『ことになった』と言った方が確実だろうか。とにかく何の気負いも意思もなく、わたしはその道を歩いた。

「そんな訳には行きません!」

 突然、洗礼者の濁った喉が金切り声をあげた。鬱陶しい男だ、と、わたしは足を止めて川を見やった。川べりに、三十ほどの男が立っている。どうやら彼は洗礼を受けたいらしい。あの熱弁家の狂信者が、真に望まれればまむしの子らにも洗礼を授けるあの博愛狂者が、洗礼を授けるのを拒むとはどういったわけだろうか、と、わたしは興味を持った。わたしは以前、律法学者たちや、彼等の中の更に上位の偽善者どもに、彼が喝を入れているのを見ている。あんな社会的にも宗教的にも力のある人間に、『蝮』だの何だのと、あの無鉄砲さにわたしは面食らった。

「私こそ、貴方から洗礼を授かるべきです。」

 そんな、あの男にそこまで言わしめる謎の三十路男に、わたしは興味をそそられた。香油を腕に抱えたまま、男の顔を覗き込もうとこそこそと移動してみる。しかし髭と髪が黒々としていて、ふさふさした所しか見えない。遠くからでもはっきりと聞こえる洗礼者の声と対照的に、男の声は静かで落ち着いている。何を言っているかまではわからないが、凪のように穏やかな声なのだということは分かった。

 男の声は何か強烈な力があったのだろう。洗礼者は納得し、男が川へ入っていく。そして彼は男の頭に手を置き、そっとその頭を沈めた。すぐのことの筈なのに、なぜか長く感じた。髪が張り付いた後頭部は、結構小さい。男が川から上がった。ふむ、なかなかいい男前じゃないか。

 その時、突然、男の頭上が光りだした。

 否、光りだしたのではない。空が開いたのだ。あのどんよりと覆っていた雲が割れ、隙間からまばゆい太陽が差しこんできている。濡れた男を乾かすかのように日の光は先ず男に当たり、次いでゆっくりとその光を広げていく。割れた空の亀裂はどんどん大きくなり、嘘のような晴れ模様が、あっという間に出来上がった。

 どこから逃げ出したのか、一羽の鳩が、空を行くのが見えた。


 わたしが先生を初めて見たときのことだった。

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