The day before

【010】<2001/xx/xx : Chiave side> キアーヴェ目覚める

 ──2001年。


 ──バゲリーア市内のボロアパート。


 朝。

 少年はいつもの小汚い部屋で眼を覚ました。

 外壁は罅割れし、色褪せ、如何にも貧相な外装のアパートの一角に男は住んでいる。

 上の階では、正式に移住してきたのかも疑わしいアルジェリア人一家がピラフを回し喰いしていた。

 ベランダに出て声を掛け、少年もそのお裾分けを貰う。

 ピラフを三口くらい平らげた後、今度は上から紐で吊るしたパックの牛乳が下がってきた。

 コップ一杯分だけ貰い、感謝の意を示してそれを返す。

 左隣のアルバニア人はベランダ越しにピザを一切れくれた。

 少年はそれに太っ腹にも煙草を一箱くれてやる。

 右隣の部屋では、いつものように幼馴染の馬鹿女が大音響でスラッシュメタルだかデスメタルだか、やたらと背徳的なものを垂れ流している。

 かなり不評で、周りの住民からの苦情が彼に回ってくる。


 ──そろそろ脅すかシメて止めさせないといけないか。


 それでも女だから暴力を振るう気は無いが、いい加減腹立たしいので、少し痛い目に合って貰わないともう気が済まない。


 ──色々と借りがあるしな……。


 そんな、いつもと全く変わらぬ夜明け。

 しかし。

 その日は少年にとっては特別な日であった。

 少年はもう一人の自分であり、愛しくも恐ろしくもあるナイフを握り。

 今日の生を悟る。

 そして、洗面所で右眼窩に義眼を嵌め込み、時計に目をやる。

 まだ、時間には余裕があった。

 だから、彼は軽く運動を始めた。

 少年──右目は義眼で一重瞼、左目は眼がちゃんと残っているが二重瞼という奇怪な風貌をした少年──キアーヴェ=ファルコーネは、今日という日が運命の転換期になる事を覚悟する。

 まだあどけなさが残る、しかし影を抱くキアーヴェ少年にとって、今日は恐らく自分がイタリア市民としてのキアーヴェ=ファルコーネでいる最後の日になるだろうからだ。

 キアーヴェはその日、マフィオーゾになろうとしていた。

 そうする事が彼に存在意義を与えてくれると思っているからだ。

 良い汗をかいたところで、電池が切れかけているのでコオロギの鳴き声よりも小さなチャイムの音が聞こえた。

 迎えが来たようだ。

 ドアを開けると、身長160cmそこそこの、おまけに三つ編みを垂らした少女が立っていた。

 否。

 “彼”は少女ではない。

 キアーヴェ以上に珍妙な容貌の男である。

 少年の名親になってくれた、インゼリーロ・ファミッリァの幹部クラウディオ=マンノーイアだ。


「よう、よく眠れたか?」


 ニッコリ笑って、クラウディオはキアーヴェに言う。


「ええ、よく眠れましたよ……」


 キアーヴェは、少し恥ずかしそうにそう答えた。

 クラウディオが苦笑する、その後ろでもう一人の人物も微笑した。

 そこで漸くキアーヴェは、クラウディオの背後に居る人影に気が付く。


「あ、ロザリアさんも一緒ですか……、おはようございます」

「おはよう、キアーヴェ。やっぱり眠れなかったみたいね」

「……眠れましたって」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて言うロザリアに、キアーヴェは不服そうに返す。

 マフィオーゾの妻になるであろう女性であるにも拘わらず、娼婦上がりであるロザリアはいつもの綺麗な顔を綻ばせて、未来の弟分の額にキスをする。

 キアーヴェの頬が少し赤みを帯び、心臓の太鼓が鳴らさなくても良いほどのボリュームで音を叩き出す。

 同時に込み上げてくる軽い吐き気。

 それを抑えて突然の行為を非難する。


「な、何するんですか!」

「良かった……、眼が覚めたみたい」

「そりゃ……、覚めましたよ。もう、そろそろ行きましょう……」

「ああ、さっさと行くぞ! ロザリア、テメェもそう簡単にキスしてんじゃねぇよ!!」


 苦々しくクラウディオが言った。

 しかし、それだけだった。

 ロザリアも、はいはい、とクラウディオを宥めるように言い、その後に続く。

 二人の後姿を見ながらキアーヴェはふと、クラウディオと出会った頃を回想した。

 思えば、クラウディオと出会った前後の記憶は曖昧だ。

 15歳からこっち、その頃迄はよく思い出せもしない。

 今でさえ浮遊感がたっぷりだ。

 ただ、ナイフだけがそこにあった。

 ナイフだけが、彼が認識した他者であった。

 否。

 もう一人の自分であった。

 そんな彼であったから、誰も近付きはしなかったし、彼としてもそれで充分だった。

 ずっと。

 ただナイフだけをまるで母親の柔らかい手でもあるかのように手放さずに。

 握り締めていたのしか思い出せない。


 ──尤も、母親の手なんて知らねぇけど……。


 そんな時、クラウディオと出会った。

 どうして彼がそこに居たのかは分からない。

 違法建築だらけのチャクッリ市で、無茶苦茶な再開発の末に建った崩落寸前のビルの谷間に、人一人がすっぽりと嵌るような隙間があった。

 そこが大好きで、キアーヴェはいつもそこで寝ていたところ。

 クラウディオは何故かそこを訪ねて来た。


 ──ずっと自分の世界にこもっていたのに。


 ──コイツは強引に扉を蹴破って無作法に人の家に上がり込んで、散々にチラかしていきやがった。


 ──だから、息の根を止めてやるつもりでナイフを振るおうとした。


 ──そして、銃を突き付けられた。


 それが、彼がマフィアを知ったきっかけだった。

 それから、これも理由が判らないのだが、ジューセッペに引き合わされて。

 気付くと半ばインゼリーロ・ファミッリァの構成員みたいな形になっていた。

 そのまま。

 流されるままにクラウディオに教わって、各所のショバ代集めや騒動の仲介役なんかをやっている内に、徐々に自分の居場所が出来ていってしまった。


 ──思えば、やっとそこまでなって少しだけ笑えるようになったような気がする。


 クラウディオもロザリアもキアーヴェの事をまるで実の弟のように可愛がってくれたし、クラウディオの妹のアウローラやファミッリァの先輩であるシーロは良い話し相手になってくれた。

 気が付くと。

 ずっと路上暮らしであったのが、アパート住まいにもなっていた。

 気が付くと。

 自分にとっての他人は増えていた。

 気が付くと。

 笑い方を覚え始めた自分が居た。

 気が付くと。

 帰る場所も帰らせてくれる人達もできた。

 それこそ、自分でも気付かないほどの早さで出来上がっていった。

 そして今。

 自分はとうとうそれらとの完全な融合を果たそうとしている。

 不安は拭えない。

 ファミッリァのボス・ジューセッペは甘い男ではない。

 死ぬかもしれないという予感もまた、拭えない。

 自然と重苦しい空気が彼に圧し掛かる。

 嗅ぎ慣れたシチリアの血と酒の混じった空気が、今日はただ観光客が抱くグロテスクな印象と同様に感じられてしまう。

 言われてからずっと、不安と期待が入り混じった奇妙な感覚に囚われていた。

 自分が正式にファミッリァの組員となる事への喜びと。

 “儀式”と銘打たれた入会手続きへの恐怖が。

 折重なっていたのだ。

 それが、前日になっていきなり儀式の流れを教えられた。

 どうもそういうものであるらしい。

 しかし、あくまで流れだけだ。

 形式だけは教えられたが、その後どうなるかまでは矢張り教えて貰えなかった。


「大丈夫よ」


 キアーヴェの不安を察したのか、ロザリアが声をかけてくる。

 それから、綺麗な白い手でキアーヴェを撫でながら、続ける。


「クラウディオだって、マフィオーゾになれたんだから」

「それはどういう意味だッ!?」


 朝っぱらだというのに、クラウディオが怒鳴った。

 ロザリアはそれを見てクスクスと笑う。

 肝心のキアーヴェはというと、少しふてくされていた。


 ――いちいち、頭を撫でるなよ……。


 どうもロザリアは自分を子供扱いしているところがあると、キアーヴェは苦々しく思った。

 それでも文句は言わずに、促されるままに車に乗り込む。

 目的地はバゲリーアの中心部にあるバーだがカフェだが判らない“パトーラ・ピーノ”という店。

 そこで儀式をやると、決まっているらしい。

 クラウディオも、その他の連中もそうしたとの事だ。


 ――まぁ、なるようになるだろう……。


 そう割り切って。

 キアーヴェはいつも不機嫌そうな顔を、より不機嫌そうに見せて。

 町の中心部へと進んでいった。

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マッチ売りの少女 -The Little Match Girl meets Boy- ピュシス @bcphysis

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