Prolog

【009】<1992/05/24 : Another side> 序章~伝説のマフィオーゾ

 ──1992年、5月24日。


 ──シチリア島北部、モンレアーレ。


 違法建築アパートの一室で、二人の男が食い入るようにテレビの画面に魅入っていた。

 イタリア国営放送局RAIの下手糞なカメラマンの所為で画面が揺れ、政治家か何かのコネで入れて貰ったようなリポーターが、何やらしどろもどろに話している。

 相変わらず腹が立つような無能ぶりだ。

 カメラはパレルモ大聖堂でのミサの様子を生放送していた。


「……で? これが何だってんだ?」

「分からないのか?」


 訝しみ、尋ねた長身の男に対して相棒の中背の男は何かを悟っているような、諦観の表情を浮かべて視線を送る。

 否、達観というべきか。

 ともかく、前々から少し奇矯なところがあった男だが、この頃は更にそれが悪化したかのように見受けられる。


「さっぱりだ、そんな事より祝宴だ。チビ──サルヴァトーレ=“トト”=リイナ──を待たせると怖いぞ……、早く支度しろ。俺達ゃ、英雄なんだぜ?」

「英雄? 違うね……、俺達は元々、地の底まで堕ちる因果にあるが、これで堕ちるとこまで堕ちちまったのさ……、しかも、一瞬にしてな」

「おいおい、何を言ってんだよ?」


 雲行きはますます怪しくなる。

 長身の男には中背の男の心情が全く読めない。

 中背の男は如何にもなマフィアっぽく葉巻をふかしながら、皮肉と絶望の織り交ざった顔で再びテレビに視線を戻す。

 画面に一人の女性が映る。


「俺達の神話は崩れたんだ、夢の続きは見れそうもない……」

「おい……? テメェ、何を考えてる?」

「まだ分からないのか? ……もう、終わりって事さ」


 その言葉を合図にして、長身の男は拳銃を抜く。

 そして銃口を中背の男の眉間に突き付ける。

 中背の男は熱した鉄のように、その獰猛そうな顔を朱に染め、悲しそうで寂しそうで、それでいて軽く笑みを浮かべながら、銃口から視線を逸らし長身の男を見詰める。


「テメェ、まさかこの事を警察にタレこむ気か!?」

「そんな事はしない、俺も筋を通して生きて来た男だ。名誉ある男の一人だ……」

「信用出来るか! あのバシェッタの豚野郎も裏切りやがったんだ!! テメェもあの大嘘吐きのように、俺や他の十六人を告発する気だろう!!」


 バシェッタ。

 その名を聞いた時に、中背の男の眼が見開かれる。

 トマッソ=バシェッタ。

 ラバーベラ一家の有名な殺し屋で、三つの大陸を股にかけ“百の顔を持つゴッドファーザー”や“二つの世界を牛耳るボス”、“ドン・マシーノ”と称された、押しも押されぬマフィアの世界の大物である。

 彼がマフィオーゾの戒律を破り、検察側に寝返ったのはコーザ・ノストラ──“我々のもの”という意味の、近代的マフィア組織で中央集権的な性質が強い──に強い衝撃を与えた。

 そして、その寝返りに習うかのように、サルヴァトーレ=コントルノを筆頭に転向者──つまり裏切り者──が続出した。

 バシェッタには、内心では敵対すべき筈のコルレオーネ一家に属する中背の男も敬意と同情を寄せていた。

 彼はマフィアの神話をあくまで守り抜こうとする男だし、彼の二人の息子は名誉ある男──マフィア構成員──ではないにも拘わらず、そして、バシェッタ自身もコルレオーネに反抗している訳でもないにも拘わらず、この未だ若い二人の息子は殺されてしまった。

 更に、バシェッタも消された保守派のマフィア・ステファーノ=ボンターテと懇意にしていたというだけの単純な理由で、命を狙われるようになった。

 “明らかな敵だけでなく、完全には信頼出来ない者、更にはその可能性がある者についても、一人残らず徹底的に抹殺する”がコルレオーネ一家の鉄則となっていき、彼等は女、子供は殺さないといったオメルタ──沈黙の掟──を、上層部から公然と破り始めた。

 ある日、同じコルレオーネ一家のガスパレ=ムートロが中背の男に意見を求めに来た事があった。


 「マンノーイアの家族を殺した事について、お前の意見を聞きてぇ……」


 かつてサルヴァトーレ=リイナと同じ刑務所に服役し、一時期、その運転手も務めた事があるムートロは、沈痛な面持ちで語り始めた。

 彼の悩みは、一家がオメルタの固い掟を破って、転向者のマリーノ=マンノーイアの母と姉と叔母の三人を殺害した事にあり、また、グレコ一家のピノ=グレコが、サルヴァトーレ=インゼリーロの十六歳になる息子を殺害した事にも触れていた。


 「女や子供を殺す事は、確かに我々の掟に反する事だ。バガレッラ──レオルーカ=バガレッラ、コルレオーネ一家の副頭領──は何と言ってる?」

 「あの女達はマンノーイアを陰で支え、それを助けたから報復の対象となった……、そう言っていたが、とんでもねぇ、詭弁だ。やり過ぎだ、組織の中で規制が聞かなくなっているし、皆、互いに疑心暗鬼に囚われている……、明日は我が身だからな」


 ムートロはそう言い、少なからず自分にも“転向”の意志がある事を中背の男に告げた。

 どうせ、いつものように挑発や愚弄好きのムートロの戯れ言だと思っていた男は、その告白に動揺を隠せなかった。

 結局、男はそれに一言も返さなかった。

 しかし、サルヴァトーレ=トト=リイナにもレオルーカ=バガレッラにも、ベルナルド=プロヴェンツァーノにも何も云わなかった。

 ムートロと同じような事を、薄々、中背の男も考えていたのである。

 ただ素朴で。

 誠実で。

 崇高な精神を持っていて。

 若い頃は“馬鹿正直の塩商人”と散々、馬鹿にされた男だが、互いに疑い深くなった今のコーザ・ノストラにおいては、その心意気が何よりも信頼となった。

 イタリアの人間は基本的に狡猾で、国家や雇い主という大泥棒から上前をはねる事に苦心する人間が多いから、何が正しいのかなどとっくに喪失していたからだ。

 その所為か、中背の男の下を訪れる“裏切る可能性がある者達”は日に日に増していった。

 そして、その所為で中背の男は危険な人物として監視される羽目となった。

 それでも、偉大な殺し屋としての彼は、今回の重要な暗殺事件の実行犯たる“18人”に選ばれたのであった。

 睨み合う二人を他所に、テレビに映し出されている若き婦人の言葉が部屋に響く。


『マフィアの男達よ、ここに来ている事は分かっています…私は貴方方を許します。でも、まずひざまずいて懺悔して下さい。もし、生まれ変わろうとする勇気があるなら……』


 涙ながらに語るその言葉は、長身の男には右耳から左耳に素通りする音に過ぎなかった。

 だが、中背の男には、その言葉がまるで自分の心臓に突き刺さる十字架のように感じる。

 心はとっくに泣き虫になってしまっている。

 もう、耐えられないのだ。

 中背の男は溜息を吐き、眼を霞ませる涙を拭い、親友と向き合う。


「本気で言ってるのか?」

「本気だ……! お前はバシェッタの野郎に随分と同情的だったじゃねぇか、怪しいと思ってたんだよ!!」

「夢の続きは見れねぇんだよ……、何故、分からない?」


 ─―そうさ、夢はもう見られない。


 ─―マフィアの神話。


 ──俺達が見続けた神話。


 ──国民を陥れ不条理な税金をかけ、故に欧州一の所得隠し立国イタリアを生んだこの泥棒的な国家に見せ付けてやる、自分なりの反骨精神のシンボル……。


 ──それが鉄の掟を持つ“マフィア”だったのに……。


 ─―そのマフィアが今や貧しい人々を食い物にし、政治家を買収し、老いぼれの醜態を晒しながら生き長らえている……。


 ──それは、とても悲しい事だ。


 そして中背の男は、世の中に疲れた笑みを浮かべる。

 長身の男は彼を見下すように吐き捨てる。


「テメェが勝手に夢を見てただけだ! 俺は単に金持ちになりてぇから、コルレオーネに入ったんだよッ!!」


 中背の男の襟首を掴みながら、長身の男が息巻く。

 長身の男は、中背の男のように自分の主義・主張や精神でマフィオーゾになったのではない。

 ただ、マフィアに入れば金持ちになれる……、そう思って、マフィオーゾになったのだ。

 そうすれば、病気がちな母親を私立の豪勢な老人ホームに入れるなり、高級な介護サービスを受けさせるなり、する事が出来る。

 家族が病気になっても、蛆虫とゴキブリが沸くような国立病院で順番待ちにされる事もなく、私立の、金をふんだくる分に見合っただけの豪勢な施設に入れてやる事が出来る。

 街灯もなく、電気回路は幾度となくショートし、蛇口を開けば黄土色の水が飛び出す違法建築の物件に住まなくても済む。

 何より。

 国という大泥棒から資産を守る事が出来る。


「あぁ……」


 魂が抜けるかのように、脱力し。

 精魂尽き果てたかのように抑揚なく。

 中背の男が呟く。


「そうか、俺だけが夢を見てたのか……」


 長身の男の言葉に、中背の男は肩を落とした。

 今まで中背の男を支えていた何かが、音を立てて崩れ去っていく

 もう、中背の男には悔いなどない。

 マフィオーゾは、組織を去る時は入会の時以上の血を流すものだ。

 だから、中背の男は転向者などにはならず、オメルタに従い、それに殉じる事を望んでいた。

 テレビでは相変わらず国葬の映像が流れ、まだ、婦人の言葉が続いていた。


『しかし、貴方がたは変わろうとしないし、変わりもしないのです……』


 ─―それは誤解だよ……。


 女性の言葉はますます中背の男の心、良心を締め付ける。


 ─―組織は変わり過ぎたのさ。


 ──そして……。


 ──戻れないのさ……。


 中背の男は上の空で、視線をただ天井に彷徨わせる。

 完全な放心状態だ。

 その頬を、長身の男が渾身の力を込めてぶん殴る。


「テメェ!」

「歳は取るもんじゃなかったよ……」


 力なく崩れ落ちた中背の男は、そう呟いた。

 激昂し尽くした長身の男は、拳銃を再び中背の男に向ける。


「っ、この老いぼれが!!」


 長身の男が引き金を引くまでの動作が、中背の男にはスローモーションに見えた。

 そして、銃口が徐々にずれていくのも確認出来た。


 ガァンッ!!


 弾丸は中背の男の靴先を掠め、黒い影を残して床下に飛び込んだ。


「……おい?」

「とっとと失せろ! テメェはもう死体だッ!!」


 意外な一言だった。

 この長身の男の辞書に“見逃してやる”という言葉があるという事を、中背の男は初めて知った。


「は、ははっ……」


 気が付くと、中背の男は笑ってしまっていた。

 複雑な心境だった。

 組織の不条理な理を恐れて抜けようとした連中が殺されて、掟に殉じようと思った自分が見逃される……、おかしな話だ。

 人生をとっくに諦めている男が残ってしまうのだから。


 ──これは喜劇だ。


 ──どうやら死にたくても簡単には死ねないらしい。


 ──……それは罰なのかもしれない。


「……」

「いいから行け! パオロのジジイを脅して、口裏を合わせておいてやる!! テメェは組織を裏切ったから、その場で俺に殺された! パオロのジジイはいつものように、その死体を家屋に塗り込んだ!! 分かったら失せろ!!」


 家畜に怒鳴り散らすように長身の男が吐き捨てた。

 パオロ=ベルルスコーニ。

 パレルモの不動産業者で“鉄筋コンクリートの魔術師”の異名を持つ一家の死体処理課の課長。

 コルレオーネの野獣共が積み上げた死体をその所有物件に塗り込む事で非常に悪名高く、本来、血は流さない殺しを“白いショットガン”と云うが、彼はやり過ぎて“白いマシンガン”と揶揄されるようになった。

 ただ、本人は非常に臆病な老体で、常に暗殺に怯えており、中背の男に助けを乞うた事もあったほどだ。

 すっかり気力の抜け切った中背の男は、助かったついでに厚かましい願いを言う。


「あぁ……、すまない。なあ、最後に一つだけ頼みがあるんだが……」

「あぁ? 厚かましい奴だな、死体の分際で……」

「少しばかり金が欲しい……」

「逃亡費用くらい自分で何とかしやがれ!」


 いつものがなり声で、長身の男が怒鳴った。

 中背の男は虚ろな眼差しのままで。

 それでいて強い意志を秘めたそれで。

 長身の男と見詰め合う。

 中背の男は、逃げる気はさらさら無いし、転向者になる気も全くないのだが、助かった以上はやらなければならないと思っている事があった。


「違うんだ、その……」


 テレビは、“パレルモに正義を!”、“マフィアは消えてなくなれ!”、“政府からマフィオーゾを追放しろ!”といった白い横断幕を映し、デモ隊の痛烈な言葉がパレルモ中に響くのではないのかという程の大音量で、テレビを離れ空間を支配している。


「理由は聞かないで欲しいんだ。些細だけれど、その、とても大切な事で……」


 テレビでは、再び23歳の未亡人が画面に映っていた。


『もう一度言います。私はマフィアの人達を許します。どうか改心して下さい』


 涙ながらに語るその言葉が、中背の男に重く圧し掛かった。

 中背の男は言葉に詰まりながらも、搾り出すように紡ぐ。


「花を……、買うんだ」


 中背の男はそう言い、いつものように力なく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る