【008】<2004/12/26 : Silvie side> シルヴィーとキアーヴェ~初めてのチュウ
少女に小気味よく挑発されたアレクセイが懐に手を入れてから、数分。
人通りの喧騒と耳鳴りだけが鼓膜を支配していた。
意味を成す音は、少女の耳に入ってきていない。
これを人は膠着状態と呼ぶのだろう。
次に意味を作るのは誰でしょう、と彼女はあたりに耳を澄ましていた。
「……アレクセイさん、よ」
ようやくして、マフィオーゾが口を開く。
「ここはロシア連中の縄張りじゃあない。俺達の縄張りだ。幾らアンタが大物だからって、好き勝手しちゃ……、シチリア総勢、黙っちゃいられませんが?」
「若いなあ、若い若い。粋がっていられる相手を見誤ったな、ん? そこの女を庇い立てするのなら、全面抗争も辞さない意向だ」
「……アレクセイさんってマフィアだったんですか?」
ほぼ同時に発せられた二人の言葉のどちらに反応していいのか、マフィオーゾは判断出来なかった。
再び沈黙。
「…………」
その間に彼女の頭は高速回転していた。
──否、違う、それは、違う。
──何が違う?
──文法が違う。
──頭は回転しない。
──私が回転させる。
──頭を回転させる。
──頭は高速回転させられていた。
──……そしてこれはどうでもいい修正。
──熟考すべきことは、私が大人しく連れ帰られるかどうかということ。
──先ほどから逃げる方策を考えていた。
──しかし全て下策。
──大勢の人を巻き込んででも、私なら逃げられる。
──そう、巻き込まなければこの場から大人しく去ることができない。
──私は欠陥兵器、だけどこの程度の人数に劣る道理は無い。
──私は欠陥兵器、だから一般人を巻き込んで幸せを奪ってはいけない。
──結論。
──帰るしかない。
──もう、抜け出す機会は与えられないかもしれないけれど。
──でも。
──空と海を見ることができたから。
──後は施設の中で死ぬのを待つのも、それはそれで……。
「分かりました」
数分。
ようやくして、今度の沈黙は彼女が引き裂いた。
「私、帰ります」
「ほおう? ほうほうほう、物分かりのいいことだ」
満足気に頷くアレクセイに、彼女は一歩、一歩と近付いていく。
「えっと……」
やり残したこと、言い残したことはないかと、頭をめぐらす少女。
空を見た。
海を見た。
間は抜けているものの、ちょっと会話が楽しいと思える素敵な男性に出会えた。
「あ。マッチ、買って頂いて有り難うございました」
振り返り、マフィオーゾに頭を下げる。
訊き忘れていたことを尋ねる。
「あの、最後に、お名前教えてくれますか? 私が外に出た、最初で最後の思い出にしたいので」
「……え?」
マフィオーゾは、頭を回転させる。
しかし。
マフィオーゾは彼女程の加速力も無ければ、限界速度も低い。
彼は気の利いた言葉を紡げなかった。
しかし。
しかしたった一つ、たった一つだけ、頭に焼き付いた言の葉がある。
それを、口にした。
「最後……?」
「ええ、お名前、教えてくれませんか?」
微笑む彼女。
マフィオーゾの主観ではあるが、それは。
とても寂しげで。
とても儚くて。
とても哀れで。
とても悔しげで。
まるでマフィオーゾ自身さえもそんな気持ちになってくるような。
そんな
笑顔。
「キアーヴェ=ファルコーネ」
だからマフィオーゾは、自分の名前を、とっておきの宝物を披露するように、己の中の大切な一部をこっそりと覗かせてあげるように、一音一音、大切に、とても丁寧に、紡ぎ上げた。
「キアーヴェさん、ですね。お買いあげ、有り難うございました」
それを受け、彼女もキアーヴェ、という、「鍵」を意味する男の名前を、やんわりと発音する。
それは抑揚もなく、聴く者の心を打つことは稀であろうが……、それでもこの場では最適なものであった。
もう一度、彼女は愛らしく──これもマフィオーゾの男の主観であるが──頭を下げる。
転。
続けてマフィオーゾの口から出た言葉は。
別れの言葉ではなかった。
──はっ?
──おいおい……。
──ふざけンじゃねぇぞ?
心の中で毒々しく呟いてから。
「待て」
低い声で呼び止める。
「……え?」
立ち止まる、彼女。
ピクリと頬を動かす、アレクセイ。
立ち止まる、周りに散置されていたアレクセイの部下達。
「何ですか……?」
噴き上がりそうな感情を抑え込みながら、彼女はもう一度振り返った。
表情は、微笑。
それは、ほほえみ、というよりは、
ビ ミョ ウ ナ ワ ラ イ ガ オ。
その表情も、次の瞬間には 崩れた。
「俺は、お前を、買った」
その言葉を聞いて、 崩れた。
マフィオーゾが、はっきりと崩した。
「何を……、言っているんですか?」
筋肉を引きつらせながら。
無理矢理に、笑おうとする。
笑おうとする。
つまり、笑 え て い な い。
「だから、100万ユーロ払っただろう? あの100万の中には、マッチと、マッチの籠と、マッチの籠の中に入っているモンと、そしてお前自身が含まれている」
「っ……、それなら、100万ユーロをお返します!」
異常とも云える程に珍しく声を大にし、足音を大きく立て、札束を握り締め、彼女はマフィオーゾに近付いていった。
転。
──せっか、く、あっさりと、帰れると、思った、の、に、決心、つけられた、の、に……、こ、の、男……、頭悪い……!!
稀にも心の中でマフィオーゾに雑言をぶつけ、彼女は腕を伸ばせば男に届く距離へと進む。
俄かに札束を持った手を男に突き出した瞬間。
彼女の腕は、マフィオーゾに掴まれた。
「えっ……」
普段の反応速度をもってすれば、彼女は腕を掴もうとするその動作など造作もなく避けられた。
しかし。
どうかしていた。
マフィオーゾに対する理不尽な怒りに。
どうかしていた。
彼女は マフィオーゾに 引寄せられた。
彼女は マフィオーゾに 顎を掴まれた。
彼女は マフィオーゾに 唇を奪われた。
「…………」
何の反応も出来なかった。
周りからも、何の反応も無かった。
男と女の修羅場を潜り抜けてきたであろうアレクセイも、何の反応も出来なかった。
「…………」
唇を離し、
ツーッ……、
と糸を引く唾液。
頭の回転が完全に動きを止め。
思考回路が焼けてしまったような感覚に襲われているシルヴィー=スビシュトフに。
キアーヴェ=ファルコーネは言い放った。
「残念、返金は受け付けてない」
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