ドーナツ

17BPM

ドーナツ

 “あなたとわたしで、はんぶんこ”。

 そんなコピーに惹かれてやってきた。

 

 「……はあ」

 

 一度食べたら忘れられない味、あの食感。外はさくっと、中はもっちり。

 少しも迷わず、わたしはそれを一つだけ買って、店を後にした。

 ため息が漏れる。こんな表情でドーナツ屋を出るのは生まれて初めてだと思う。子どもの頃から大好物の品が目の前にあるのに、なぜか喜べない。

 あの日からずっと、世界は色あせたままだ––––ドーナツなど手に取ったところで、それは変わらない。

 

 はんぶんこ。

 前にそんなことしたのは、いつだっけ。

 

 「……おかあさああああん!」

 

 大きなショッピングモールの通路に出た途端、泣き声が飛び込んできた。

 たくさんの人が行き交い、それよりはるかに多くの声が飛び交う中でも、子どもの声はよく通る。そういえば、助けを求める声は聞こえやすいように人体はできている、と聞いたことがある。

 にもかかわらず、通り過ぎる彼らは自分の体がそのように作られた理由をわかっていないようだ。

 わたしもそうだった。

 彼に、出会うまでは。

 

 「どうしたの?」

 

 声をかけながら、わたしは救難信号の発信源に赴いた。

 小さな男の子。丸顔。黒髪。大声で泣いている。母親を呼んでいる。

 周囲の人は迷惑そうにこちらを見ているが、彼は命がけだ。わたしにはわかる。

 

 「大丈夫だよ。ここで待ってよっか」

 

 しゃがみながら話しかけると、彼は涙を拭いながら頷いた。

 それからは、静かになった。時折鼻をすすりながら、男の子はわたしの目をじっと見ていた。

 怖がらせないように––––というか、自然に笑顔になれた。目の前の彼が、どうしようもなく愛おしかった。

 ここにいたはずの人が、今まさにここにいる。そんな気がした。

 

 「はい、はんぶんこ」

 

 だから、しなくなって随分経つ行為もそつなくできた。

 きっと、彼もこの味に夢中になるだろう。さくっとかじった瞬間に広がる、甘いもちもち食感が、一生の大好物になるだろう。

 

 「お母さんには内緒ね」

 

 彼は、満面の笑みで頷いた。

 赤いほっぺに砂糖の粉をつけた様子が、今まで見たどんな子どもより可愛かった。もう二度と味わえないはずの感覚が、そこにあった。

 モノクロの世界も、今だけは色を取り戻してくれたように見えた。


 しばらくして、母親がやってきた。

 スカートに包まれた膝に、彼は抱きついた。

 なんども頭を下げられて、いえいえと返すのが数回続いた。別れてからも、こっちに向かって手を振り続ける彼を、わたしは見送った。

 遠くから、よく通る声が聞こえた。

 

 「おかーさん! ドーナツ買って!」

 

 今夜は、いつもより少しだけ寂しくない。

 今夜だけは。

 

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