第52話 歪み

 翌日以降、小熊と春目、そして節約研究会との関係は、付かず離れずの状態が続いた。

 当初は退屈に嫌気が差すような講義内容も、少々ながら好奇心を抱きながら聞けるようになった。

 ただ大卒という社会で役立つパスポートを最小の労力で得るために選んだ人文学専攻だが、授業への集中がそれなりにテストに反映された高校の時と違って、何か別の作業や考え事をしながら頭の半分でラジオでも聞くように講義を受けていると、時間の経過もそれほど辛くない。物事は集中力の維持だけでなく、手の抜き方を覚えることもまた重要という事を学んだのが、今のところこの大学で得た唯一の知恵かもしれない。


 大学の学業以外の部分、同じ学部の人間との交流については、今のところほぼ皆無だった。最初はいつも真っ赤なライディングウェア姿で大学に来る新一年生に、話しかけたそうにしている人間の気配を小熊も感じていたが、やがて大学でも同じ専攻の中でグループが出来ていくに従って、それらの輪から外れた小熊への好奇の目線は無くなり、誰からも注意や注目を受けなくなった。もしかして入学から数日の間、竹千代を筆頭とした節約研究会の面々と行動を共にしているところを、多くの人に見られた事と関係があるのかもしれない。


 小熊としてはなくても困らない。あると利益より損失の多い、大学同期の交流なる物が義務として発生しないのはありがたい。自分が人間関係の構築能力に乏しい事を、機械にもよくある改善すべき欠点として認識する事もあるが、同じ一年生なので専攻は違えど時々同じ教室で講義を受けているペイジを見ていると、それが馬鹿げた考えだと気づかせてくれる。

 夜闇の中を旧いジムニーで走り回る事こそが全てで、昼間の大学生としての時間は死んだような目をしているペイジの生きざまは、小熊が憧れを抱くほど美しく、その宝石はつまらない物に触れることで簡単に輝きを失う。


 人間関係というものは世の多くの人間にとって重要だが、埒外の存在というものは居る。多勢の常識が当てはまらない異端の者。小熊はそんなペイジが世に汚される事なく生きていけるように扶助、保護している事については、竹千代を評価している。

 小熊は講堂の椅子に座り、目の前で行われている講義が空白の虚無であるかのように、精気の感じられぬ目を向けたまま動かないペイジを横目で見た。自分は彼女ほど強くはないし、世俗にまみれている。しかし、ああなりたいという気持ちだけは失いたくないと思った。


 ペイジの姿を横目で盗み見る事で、多少は退屈が紛れた講義を終えた小熊は、カブに乗って家に帰る。今乗っているのは、最近買ったカブ90ではなく、一度貰い事故で廃車にした後、自分で修復したカブ50。

 既にカブ90もパナソニックの実用自転車もある暮らしに、予備のバイクなど意味はないと思っていたが、実際にカブ50を路上復帰させてみると、それなりに稼働の機会は多かった。

 元々カブ50についていたウインドシールドや前カゴ、後部ボックスは外してカブ90に移したが、それらの装備が無いというだけで走行の感触は随分身軽になり、特に大きな買い物や荷物運びの用が無い時はカブ50を出したくなる。


 小熊は今までカブの改造を、生活の道具としての信頼性を損なう物として避けていたが、既にカブ90がその役目を負っているなら、カブ50は改造のベースにするのも悪くない。無改造では静粛性が高く、早朝の住宅街でも気兼ねなく走れるカブも、マフラーを取り換えればそこらの大型バイクに負けない迫力ある音を発する事も、強度に優れ高回転を許容するカブのエンジンは、金のかけ方次第で限りなく速くなる事も知っている。


 夢想に浸りながら自宅に到着した小熊は、コンテナガレージにカブをしまった。この二〇フィートコンテナも、入居以来こまめに行っていたガレージ作りが功を奏し、機能的なだけでなく楽しい時間を過ごせる空間となった。

 コンテナの戸を閉めた小熊は、玄関を開けて家に入る。広いダイニングとホームバーが目に入る。服を脱ぎNHK-FMを聞きながらシャワーを浴びた小熊は、部屋着のスウェットを着て夕食の準備を始めた。


 山梨に居た頃より買い物の選択肢の広くなった南大沢の大型スーパーで買った、賞味期限間近のスペアリブに塩胡椒を振ってフライパンで焼き、缶入りのトマトソースを入れた後、別のコンロで茹でていた生パスタを放り込んで和える。

 キッチンで料理をしていた小熊は、そのまま背後を振り向いて分厚い檜材のカウンターにパスタの大皿と、レタスとタマネギだけのサラダを置く。続いて炭酸水の瓶を冷蔵庫から取り出してカウンターを回り、スツールに腰かけて夕飯を食べ始めた。


 小熊によるセルフリノベーションの結果、住環境が整った家でもうやる事が無くなった頃、それらの満たされた環境の中に居るのが自分一人で、分かち合う誰かが居ない事に孤独を覚えた時もあったが、それはどうにもならない物だと思うようになった。

 痛みもそれに慣れればやがて自分の一部となる。機械もそうだが何でも改善、改良し欠点を潰せばいいとは限らない。カブだって仕事じゃなく趣味で乗る人間の多くは、優れた性能だけでなく、意外と多い人間的な欠点に惹かれてカブに乗り続けているという。このまま孤独と共に生きていれば、それは愛憎入り混じりながら折り合いをつけ、共に暮らす大切な存在になるのかもしれない。


 悩み事未満のささやかな懸念を、頭の中にある見たくない物を放り込む棚にしまった小熊は、豚バラの骨付き肉にかぶりつき、パスタを頬張る。炭酸水を飲んだ小熊は、ダイニングスペースを振り返る。

 くたびれた砂壁は珪藻土で塗り替えたことで見違えた。落ち着いたオフホワイトの壁は白熱灯の灯りを優しく、かつ無駄なく反射し、照明を蛍光灯に切り替えても目に眩しくない。

 入居して間もない頃は、柱と床も必要に応じリフォームしようと思っていたが、今となっては長い年月の堆積を鈍く重厚な色で表す木材は、もったいなくて新品に変えることなど出来ない。木の床は綺麗に清掃し蜜蝋のワックスで磨き上げると鈍く輝き、ダイニングの空間全体とそこで過ごす時間を高品質な物にしてくれる。

 入居して間もない部屋には余分な家具も無く、すっきりと片付いている。小熊はこの家で過ごす時間が好きで、それに伴う孤独という物も、悪くないのではないかと思い始めた。


 バーカウンターの向こう側に回り、パーコレーターを火にかけて食後のコーヒーを淹れた小熊は、椎がお土産に置いていったムセッティ・パラディソの香りを楽しみながら、床を見回した。

 ついさっきダイニングを眺めた時、視界の隅に気になる物が映った。板張りの床。それも床の上にある物ではなく、床そのもの。

 見た目は上等とはいえ、築年数の経った家。湿気か何かによる建材の歪みでも発生しているのかと床材を注視してみたところ、入居前に何度もビー玉を転がして平面を確かめた床に異変は見当たらない。


 気のせいかと思い、コーヒーをカップに注いだ小熊はもう一度背後を振り返る。つい今しがた異常が無い事を確認した床の端が、めくれあがるように歪んでいた。

 熱いコーヒーを一口飲んだ小熊は、少々平静を失いつつ床を注視した。やはり平坦で歪みの無い床が波打ち、歪んでいくのが見える。

 小熊はその時になってやっと気づいた。歪んでいるのは床ではなく、自分自身の視界だと。

 コーヒーカップが手から落ちる。飛沫が足にかかるが熱さを感じない。床が自分の頬に向かって飛んできた。

 小熊は変形しながら回る天井を見つめながら、自分の意識が消失していくのを感じていた。


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