第53話 搬送
一度失った意識が戻った時、玄関の外から聞こえる人の声に気づいた。
小熊は真っ先に、先日振り回すのにちょうどいい長さと重さだったので、頼んで譲って貰った短管と呼ばれる建築足場用の高強度鉄パイプを短く切った棒を目で探したが、台所とバスルームの間にある掃除道具入れに放り込んだ短管に手を伸ばそうにも、体が動かない。
聞こえてきたのが知っている人間の声だと気づき安堵する自分がイヤだった。強いノックと共に春目が大きな、悲壮ささえ感じさせる声で「小熊さん!」と繰り返している。
竹千代が冷静ながら決然とした声で「開けてくれ」と言った。「離れてろ」という声はペイジだろう。近々いい素材があったら取り換えようと思っていた、薄い合板のドアがあっさり破られ、節約研究会の三人が土足のまま部屋に入ってきた。
他の二人を制しつつ、ハンカチで目と鼻を覆いながら近づいてきた竹千代は、すぐに離れスマホを取り出した。
ダイニングの床に倒れている小熊に駆け寄って来た春目は「大丈夫ですか? しっかりしてください!」と言いながら小熊を抱きかかえる。
玄関を破る用途に使ったらしき、ジムニーの中にいつも常備している手斧を片手に、事のなりゆきを無表情なまま見守っていたペイジは外に出た。ジムニーの始動音とタイヤが地面の上で空転する音がした後、敷地前の公道に沿って駐められていたジムニーが九〇度転回し、後部を玄関前に付けた恰好で駐められる。ペイジが玄関を出て十秒足らず。
小熊は手を動かそうとした。腕は蜂蜜に漬けられたかのように動きの自由が利かず、持ち上げて下ろす程度の事しか出来ない。口が何とか動くことに気づいた小熊は息を吸い、それから微かな声で言った。
「出ていけ」
小熊は自分の部屋に、たとえ有事であったとしても他人が押し入る事を好まないし、もしも今、自分が置かれている状況が命の危機だったならば、最期に看取られる相手くらい選びたい。正直なところ、死ぬなら一人のほうがいい。今際の際に見るものに自分以外の人間が映っていたなら、それが誰であろうと目障りでしかなく、人生という杯の最期の一口をじっくり味わうことさえ出来ない。
小熊の意志に反し、竹千代はスマホを手に見下ろしてくる。この人を惹きつける美貌に恵まれた女が、自分の意思を実行するため何人の犠牲を産んできたのかは知らないが、あぁ、また一人死んだかといった表情のまま口を開く。
「救急車を呼んだほうがいいかな。この辺なら五~六分で来るだろう」
ペイジは冷静で無駄のない動きでジムニーのテールゲートを開けながら言った。
「救急車よりこっちのほうが速い」
春目は他の二人よりだいぶ平静を失っているようだった。意識の混濁した小熊に、必死で話しかけていた春目は、さっきから鈍い痛みを訴えている小熊の腹に触れた時、顔色を変える。
「わたしが運びます。急がないと」
そのまま春目は竹千代に目で合図して小熊を任せ、玄関から外に駆け出す。
ペイジはコンテナを開けて駆け込む春目の背に向かって言った。
「私のジムニーより速いのか?」
春目の返事の替わりに、コンテナの中からカブの始動音が聞こえてきた。
小熊のカブに勝手に乗ってコンテナから飛び出してきた春目は、蒼白な表情のまま震える足を平手で思い切り叩いた。ペイジは何のチューンアップも施されていないありふれたカブ50を見ながら言う。
「私なら十分で山を越えられる」
ペイジが指さした先には町田市北部の山岳地帯があった。この山の向こう側にある町田の中北部には、幾つかの救急病院がある。
カブのスロットルを吹かし、エンジンオイルを循環させた春目は、もう何百回も繰り返した仕草であるかのように、車体の各部を目視で点検しながら言った。
「道の上を走る車では間に合いません、五分で山をまっすぐ抜けないと手遅れになります」
ペイジは春目の腕を掴みながら言った。
「ジムニーで行くべきだ、カブでは危険だ」
春目は自分より頭ひとつ背の高いペイジの胸倉を掴む。今まで見た事の無いような激しい感情の籠った瞳でペイジを見つめながら言った。
「間に合わなかったんです!」
人格的には全く信用できないが、肌に触れていると何ともいえない良い香りのする竹千代に抱きかかえながら、小熊は春目の話を思い出した。
広告会社でカブに乗って宣伝商材をポスティングするスタッフとして働き、そして過重な労働で使い潰された春目の話からは、同じ仕事の苦労を分かち合う同僚や仲間の話は出てこなかった。正確には、その仕事に入った頃には、同じく恵まれない境遇の親友が居て、仕事でも住み込みの部屋でも一緒に居たらしいが、ある時期を境に、春目の話にその親友は一切出てこなくなった。
ひとつ頷いたペイジは、室内に入って来て小熊の体を持ち上げる、そのまま小熊を抱えて家を出たペイジは、春目の跨るカブの荷台に小熊を乗せた。春目がペイジに言う。
「荷締めを持ってきてください。急いで」
ペイジは「タイダウンだな」と言ってコンテナに入ったが、いつの間にかコンテナの中に居た竹千代が「このガッチャ帯のことかな」と、バイクを車載する時に使うナイロン製のラッッシングベルトを差し出した。バイクの世界ではそう呼んでいるが、業種によって、あるいは同じ仕事でも世代や所属会社によって呼び名が異なるらしい。
意識が朦朧としていて、カブの二人乗りで掴むグラブバーを握る事さえ出来ない小熊は、ラッシュで春目の体に縛り付けられた。
よほど人の大事な物をくすねるのが上手なのか、すぐに小熊のヘルメットと予備ヘルメットを探し出した竹千代は、小熊と春目の頭に被せながら言った。
「誰かの命を守りたいなら、守る自分自身の命をまず守るんだ」
それから片手に持ったスマホを見ながら言う。
「山向こうのパン工場跡地にある病院に行くんだ。今から連絡を入れてすぐに受け入れ態勢を取らせる。私の名を出せば決してたらい回しにはしないだろう」
ペイジが小熊の体を固定し終わったペイジが、春目の肩を叩く。三人が部屋に押し入って来てから二分足らず。
被らされたハーフキャップタイプのヘルメットを、それが仕事中の流儀だったのか後ろに傾けてあみだ被りした春目は、まっすぐ前方を見据え、カブを急発進させた。
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