第51話 象徴
竹千代はそれまで使っていたノートPCを脇にどかす。小熊は立ち上がり、和室に仕立てられた部室の隅にある小さな台所でポットを手に取った。
「コーヒーでいいですか?」
気を遣いたくなるような相手ではないが、情報を得るからには礼節くらい守ろうと思った小熊に、竹千代は答える。
「紅茶で、何も入れずに」
小熊は頷き、台所を探したが保温ポットの類は見当たらない。節約の中でも電気代を少な目に抑えるには、ポットや炊飯器、冷蔵庫などの点けっぱなし家電を出来るだけ使わない事だと聞いたことがある。大学設備である部室の電気代を竹千代が払っているようには見えない。きっと自分の財布を気にする以前に本質の部分でケチなんだろう。
簡素な台所にミスマッチな業務用のウォーターサーバーがあったので、蛇口を捻り鉱泉水をヤカンに注ぎ入れた。竹千代は小熊の姿を興味深げに見ている。小熊は一つの器からもう一つの器に水を移している自分の姿が、タロットカードの「節制」の図柄に似ている事に気づいた。
出来るだけ竹千代の視線を無視しながらヤカンを火にかけた小熊は、白無地のティーカップとティーポット、フォートナム&メイソンの水色の缶を取り出す。
台所のあちこちを見ているうちに湯が沸いたので、型通りカップとポットを熱湯で温めた後、ポットに茶葉と熱湯を注ぎ、台所布巾を縫ったらしき手製のティーコジを被せる。
時計より嗅覚を当てにして茶葉が開くタイミングを読んだ後、銀のティーストレーナーで濃しながらカップに注ぐ。台所は狭いながらも片付けられていて、必要な物がどこにあるかわかりやすく、且つすぐ手を伸ばせる位置に置かれいた。きっとバイク整備のガレージを作る時も、動きのいい配置をしてくれるんだろう。
小熊が紅茶を淹れている間、竹千代は人形か絵画のように動くことなく待っていた。小熊は竹千代がさりげなく送る視線に、自分の一挙手一投足を観察されているような気分を味わったが、それくらいの情報提供は仕方ない。
小熊は膝をつき、薫り立つ紅茶を竹千代の前に置いた。竹千代は微笑んで頷く。立ち上がった小熊はそのまま自分のティーソーサーを手に持ちながら、壁にもたれかかる。竹千代から見て右斜め前。カジノでギャンブラーが好んで座る、ディーラーに精神的圧迫を与える位置。
小熊としては単に座敷や座り机は気に入らなかっただけ。床に座り込んでいると何かあった時の対応が遅れる。それに、竹千代の向かいに座ったならば、これから話される内容次第で目の前の相手にティーカップを投げつけてしまうかもしれない。
竹千代は小熊が手に持った紅茶を飲むのを待つことなく、先に口をつける。一応は信頼されているのかもしれないと思いながら、小熊も熱い紅茶を一口飲んだ。
「さて、小熊君はどこまで知っているのかな」
小熊は紅茶で手を温めながら答える。
「大まかに。親が死んで高校をやめて、働いて、飢えて、あんたに拾われたと」
竹千代は紅茶の味より、それを他人に淹れさせた事に満足しているような表情のまま言った。
「その通りさ、小熊君が利きたいのは、春目君がなぜスーパーカブを嫌っているか、という事だね」
つまり竹千代が春目にどんな価値を見出し、大検や受験の面倒を見たかについて、今は答える気が無いらしい。
小熊は自分の斜め下に居る竹千代に黙って頷く。小熊としても複雑な問題は少しでも単純化して貰ったほうがありがたい。
「春目君は、仕事でスーパーカブに乗っていたんだ」
それは言葉より春目の仕草で知っていた。ただ押して歩く様を見ただけで、力の入れ方や手の位置など、ちょっと借りて乗った程度でないことはわかる。
「学資の無い人間を扶助する奨学金制度のある仕事はそう多くない。春目君も大手新聞社の配達業務や運輸会社の仕事にでもありついていれば、あのまま無事に高校を卒業していたことだろう。しかしそうならなかった。春目君が自治体の紹介で入ったのは、あまり良好な就業環境とはいいかねる広告会社でね」
小熊はそこで起きた事を自分なりに解釈した。春目の引っ込み思案な性格や、不運と随分仲がいいらしき言動からイメージした職場での姿は察しがつく。しかし、その想像は必ずしも正しいものではないのかもしれない思った。
「駄目な奴だった?」
竹千代は首を振りながら、体の微妙な動きでティーカップの中身に生じたさざ波を眺めながら言った。
「仕事がね、出来すぎたんだよ。その広告会社は春目君に原付の免許を取らせ、チラシの戸別ポスティングをさせたが、春目君は人の半分の時間で仕事を終わらせてしまう。原付バイクにはすぐ慣れたし、道の選択も上手く、何より手の抜き方を知らなかった。今の仕事や生活を失いたくなくて必死だったんだろう」
小熊もバイク便の仕事をしていた関係で、貧困ゆえ食うに困りハイリスクハイリターンの仕事に飛び込んできた人間を何人か知っている。そういう人と仕事をするようになった時、小熊は相手を働かせるより、あまり働かせないよう気を使うことが多かった。日常生活で心労を抱えている人間は、本人も知らない間に仕事の負荷に対する容量が小さくなっていて、些細なきっかけでいともあっさり壊れてしまう。
「働けば働くほど、今までより多くの仕事を入れられる、人からも仕事を頼まれる、それでも春目君は働いた。そしてある朝、春目君は住み込みの部屋から仕事場に行こうとして、靴紐の結び方がわからず部屋を出られなくなったらしい。それで夕方まで玄関先にしゃがみこんでいた。仕事先は無断欠勤扱いであっさり解雇さ」
小熊の体に痛みが走った気がした。親を失い、これから高校生としての生活を続けられるのか不透明だった頃、家から出ようしてドアを開ける手が、いくらドアノブを回そうとしても動かなくなった事がある。竹千代は話し続けた。
「私が復学への協力を申し出るまで、春目君はひどい生活をしていた。春目君にとって、自分を削り尽し、最低の境遇にまで落としたのが、スーパーカブだったんだ。私が春目君に新しい住処と仕事を紹介した時、春目君は何度も聞いた、もうカブに乗らなくていいんですか? と。春目君が今でも、新聞配達や銀行の営業で街を走るスーパーカブを見かけた時、顔を強張らせるのは、一緒にいればそのうちわかると思う」
小熊は苦い記憶を無かったことにしようとするかのように首を振った。冷めてしまった紅茶を飲み切る。砂糖とミルクを入れたらよかった思った。
「私にはわからない」
小熊は自分と竹千代のカップを下げ、台所で洗った。竹千代は小熊が知るべきことは全て伝えたと言わんばかりの態度で、ノートPCのキーボードを叩く作業に戻った。洗い物を終えた小熊は、後ろを通りがかりながらディスプレイを盗み見た。学業か金儲けのファイルかと思ったら、ソシャゲの画面だった。昔ボードゲームで流行った、人が一生を全うするゲーム。画面の中で始まり終わる人生は簡単に幸福を掴み、すぐに壊れる。
あまり釈然としないまま部室を出た小熊は、カブで自宅まで戻った。カブに乗る仕事でひどい目に遭ったからといって、カブを嫌う、二度と乗りたくなくなる気持ちはわからない。自らの境遇はあくまでも環境とそれを選んだ自分自身が招いたもので、少なくとも物に罪は無い。
家に帰った小熊は夕食の準備をした。昨日炊いた米が残っているが、今さら料理をしようという気も起きないので、冷蔵庫の上にある棚に手を伸ばした。
高校時代に散々食べた、スーパーで一番安く売っているレトルトカレー。最近は値が張るが美味なレトルトカレーを選ぶ事が多く、たまには自分でカレーを作るようになったので、長らく食べていなかった安物カレー。
湯を沸かして温めるのが面倒になった小熊は、皿に盛ったご飯の上に冷たいままのレトルトカレーをかける、炊いて丸一日たった生ぬるい飯に冷えたカレーがかかった瞬間、自分に何もなかった頃に散々嗅いだ臭いが小熊の鼻にまとわりつく。
「あぁ、わかった」
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