第37話 壁
金曜の夕食を先日買い込んだ安売りの身欠き鰊で作った甘露煮とわかめご飯で済ませた小熊は、就寝までの時間に今日買った物を並べ、明日からの作業内容を確認した。
ここに越して数日。生活や学業に必要な物を概ね揃える事の出来た我が家の中で、小熊が何とかしたいと思っていたのは家の壁。
小熊の暮らす木造平屋は、内壁が和風建築でよく見られる砂壁に統一されていて、旅館などの真新しい抹茶色の砂壁は風合いがあって小熊も好きだが、この家は築年数が経っているためか、砂の表面が手垢や陽光によって劣化していて、触ると砂が落ちる上に見た目が汚らしい。
元より昭和の高度経済成長期に中流所得層のために建てられた賃料安価な平屋とはいえ、好き好んでボロ屋に住んでいるわけではないので、綺麗に出来るところは何とかしたいと思った小熊は、入居が決まり内見を行った時から、この砂壁をリフォームする方法を調べていたが、高価で技術も必要な砂を張り替えるより、漆喰で壁を塗りこめるのが一般的らしい。
壁紙で仕上げるにしても、漆喰で下地を作らなくてはならない。小熊も建築現場で見かけた壁塗りはプロの左官職人がやる仕事だと思っていたが、仕上がりの綺麗さを問わなければ素人でも可能らしい。
ここでの暮らしが一段落したら、まずは壁に手をつけようと思っていた小熊にとって、大学の入学準備が済み、講義が始まって初めての休日は好機だった。大学で知り合ったセッケンと呼ばれる奇妙な人たちの影響を受けた事は認めたくない。
さっそく壁リフォームの準備に着手し始めた小熊は、ネット通販とホームセンター等での店舗販売の値段を見比べながら材料を揃えた。
小熊が食事を片付けた後のバーカウンターに並べたのは、漆喰より吸湿性や耐火性に優れ、施工も簡単なので近年、和室の壁材の主流となっている珪藻土。
小熊の記憶では漆喰や珪藻土は塗る前に適正な分量の水で溶き、作業しやすい固さになるまで練っていた。どちらかというと塗りの作業よりそっちのほうが難しいと思っていたが、小熊が通販で買った珪藻土のDIY壁材は、既に練られた状態でプラスティックのバケツに入っていた。
壁材は幾つものカラーが出ていたが、小熊は身に着ける物の色として選ぶ事の多いオフホワイトにした。染色や漂白をしていない木綿のような、バニラアイスのような色。
あとは作業に必要となる数種類のコテや養生材。こっちは通販より安いホームセンターや百均で揃えた。
職人の世界で言い伝えられる、段取り八分仕事二分という言葉にある通り、事前の準備が作業の質を決めるのはバイクの整備も家のリフォームも変わりない。必要な物が全て揃えられたバーカウンターを見ていると、今すぐ作業を始めたくなるが、夜になってから壁を塗れば珪藻土の乾燥は遅くなるし、人工の灯りの下では細部の仕上がりを見られない。作業が終わっても壁が半乾きの部屋で眠りにつくのは遠慮したかった。
事前の段取りが最も重要なのは、道具じゃなく自分自身。このまま夜更かしして生活のリズムを荒らしたくなかったし、睡眠不足のまま作業をしてもいいことなど無い。
新しいオモチャを前に後ろ髪を引かれる思いをしながら、小熊は和室に布団を敷き、眠りについた。
翌朝、昨日の甘露煮で作ったにしん蕎麦で朝食を済ませた小熊は、さっそく作業を始めた。
空は晴天で、もうすぐやってくる夏を思わせる気温ながら湿気の無い、梅雨前特有の気候。
カブを買ったのもこのくらいの季節だったと思いながら、壁塗り作業を始めた。
壁を清掃した後、柱や壁のスイッチ等を養生テープで丁寧に保護し、床にもブルーシートを敷く。養生作業を終えた後、密封されたプラスティックのバケツを開けた小熊は、何か美味しいそうなクリームのように見えるオフホワイトの壁材を、盛り板という油絵のパレットのような手持ちの板に乗せ、コテに取って壁に塗りつけ始めた。
気分だけでも左官職人になったような壁塗り作業は順調に進んだ。先日買った防水ラジオでNHK-FMを聞きながら、ケーキにクリームをデコレーションするような作業は楽しく、作業前には難しいと思われた平滑な塗面を出す方法も、やってみれば簡単だった。
以前中古バイク屋のシノさんが持っているサニートラックの修理を手伝った時に使った、ボディ補修用のエポキシパテを思わせる感触だが、ヘラにくっついて粘り、なかなか平面の出せないパテよりも扱いやすい。
小熊が買ったDIY用の珪藻土は、作業後に蓋を閉めればしばらく持つというので、二度塗りが必要な壁リフォーム作業を何日かに分けて行おうと思ったが、昼前にダイニングルームと玄関スペースの塗り作業が終わってしまった。
続いて寝室の養生を行った小熊は、一度外に出てカブで十分弱の南大沢駅前で買った中華テイクアウトのチャウメンと呼ばれる香港風焼きそばで昼食を済ませ、寝室として使っている八畳和室の壁を塗り始めた。
二度目で勝手をわかっていた事もあって、寝室の壁塗りはダイニングより早く終わる。続いて小熊がバイクの部屋と呼んでいる、趣味の物を集めた四畳半和室の壁も塗る。
途中で一休みすることにした小熊は、パーコレーターで淹れたコーヒーと、先日買って冷凍庫に入れていたドーナツを楽しみながら、塗ったばかりの壁を見渡した。
オフホワイトの珪藻土壁は自分でも満足出来る、ひいき目に見れば玄人裸足の仕上がりになった。平滑度も極めて良好。このまま同じような作業で二度塗りを済ませれば、汚かった砂壁はプレハブか建売住宅に使われている既製品の壁のように綺麗になるだろう。
休憩を終えて作業を再開させた小熊は、珪藻土壁材の蓋を開け、盛り板にたっぷりと乗せた。
先ほどと同じように壁を塗り始める。一度目の塗りと違うのは、思い切り大雑把な塗り方。
ある場所では不均一な厚塗りをして、違うところではわざとコテの跡を残す。平坦なだけの壁では、この手で快適な空間を作り上げる意味が無い。見た場所や触れた場所、光が当たった角度によって違う表情を見せてくれるような壁にしたい。機械ではなく手作業でしか出来ない仕上げにしようと思った。
キッチン周りの作業に入る。こっちは汚れが付く事を考え、一度目の塗りよりも丁寧に平面を出す。
自分なりの方法でダイニングの壁を塗り終わった小熊は、作業の勢いを維持しながらバイクの部屋の壁塗りに移る。こっちは後で壁紙やポスター、タペストリーなどを貼りたいと思っているので、出来るだけ平滑に仕上げる。この拡張性や柔軟性も手作業のいいところ。一つの正答に依りがちな機械の整備とは異なり、創意が求められる住宅リフォームの妙味でもある。
寝室では、数種類のコテを駆使して流れるような紋様を作ってみた。固形の珪藻土で、周囲を常に流体が動いているかのような形を作る。きっとこの壁に囲まれて眠れば、分厚く堆積した岩盤か氷河の上にでも居るような気持ちになれて、閉塞感を覚える事も無いだろう。
時間、費用、仕上がり、あらゆる形で理想的な壁のリフォーム作業を終えた小熊は、道具を片付けて養生していたシート類を剥がす。
珪藻土の壁材は宣伝文句によれば二~三時間で初期乾燥を終え、日常使用に問題無いくらいまでに硬化するらしい。
壁が固まるまでの間をどう過ごそうか小熊は少し迷った。部屋で大学講義の予習復習でもするか、コンテナガレージでカブのメンテナンスでもするか、それとも少し早いけど夕食の準備を始めるか。
あれこれと考えた小熊は、作業着をデニム上下に着替え、キーとヘルメットを手に外に出た。そのままカブに乗って家を出た。
大通りに出た小熊は、ロードサイドにあった回転寿司屋で夕食を済ませた。
それほど高級な皿は選ばなかったが、自炊の夕食より余分な金を使いながら小熊は満足感を覚えていた。リフォームの中で大きな作業だと思っていた壁まわりの作業が成功した事を祝いたい気持ちもあったし、何より外で食事や所用を済ませて帰宅し、玄関のドアを開けた瞬間に、自分の家がどんなふうに目に映るのか見てみたくなった。
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