第36話 カフェテリア


 入学前説明会とオリエンテーション。三日に渡る準備期間を経て始まった大学の講義は、顔見せの挨拶程度の物だった。

 周囲には同じ新一年生。皆の服装はスーツ姿が多かったオリエンテーションに比べカジュアルな物になったが、高校とは勝手の違う講義と、何より周囲に友達の居ない環境に慣れないのか、落ち着かぬ様子だった。


 小熊は他の新入生より幾らか余裕のある状態だった。高校時代に従事していたバイク便の仕事では、社内で最も若い唯一の現役女子高生ライダーとして、年長者に囲まれつつ対等に仕事をしていたし、バイク便に仕事を頼む現場の多くが余裕の無い状態だったせいか、客先でも人々が激しいやり取りをする雰囲気に慣れていた。当然小熊もその一部で、彼らが大人でで自分が子供などという感覚は、カブに乗って走り出した瞬間に置いてきた。少なくともバイクに乗っている限り起こり続けるあらゆる出来事の前に、年齢の区別など意味を成さない。


 一応は講義授業という事で、教科書とルーズリーフファイルと筆記用具、タブレットを持って来ていたが、高校の時に比べ荷物が少なくなった気がする。高校時代からずっと使っていながら、破損や劣化が無い一澤帆布のディパックも、そろそろもう少し小さい物を買い足したほうがいいのかもしれない。教授の自己紹介を聞き流しながらバッグの事に思いを馳せていた小熊は、同級生の礼子の事を思い出す。礼子もきっと今頃、高校時代にずっと使っていたtumiシェパードの防弾ディパックを買い替えているのかもしれない。ただ、高校卒業後は放浪する事に決め、今頃その第一歩となるベトナムへのパックツアーに出発しているであろう礼子は、きっと自分とは逆に、もっと大きなバッグを背負っている。

 

 同級生ながら専攻の異なるペイジは、一般教養の講義で見かけた。

 髪を束ね地味な灰色ので講堂の一番後ろの席に座っていたペイジは、小熊がわざと目の前を通るまで気づかなかった。夕べのペイジなら、ジムニーを駆っている時にそうであったように、小熊が講堂に入ってきた時点で、背中に目が付いているかのような鋭い感覚で、こちらを振り向いていただろう。

 小熊と視線を交わしたペイジは、すぐに視線を机に落とす。小熊にとってやや退屈ながら大学卒業に必要な義務をこなしている充実感もある講義は、ペイジが自分を殺す時間なのかもしれない。

 

 午前の講義が終わり、さすがに四日続けて同じ学食では単調すぎると思った小熊は、学内で最も大きい共済食堂とは別の、カフェテリア学食へと向かった。

 店内はファストフードレストランのような雰囲気だった。大手ハンバーガーチェーンが日本向けにローカライズされる前といった感じで、手書きのメニューや壁の派手なデコレーションなど、マニュアルに従った物しか無いチェーン店より居心地が良さそうに思える。

 どこか都心での仕事で行った事のあるアンナ・ミラーズを思わせる店で、ジャンボ・ハンバーガーとポテトサラダ、メニュープレートに震え上がるほど美味いと銘打たれたキーライムパイと、ラージグラスのスキムミルクを頼んだ小熊は、少し待たされた後、店員から番号札を受け取る。


 一人で来る客が少ないせいか、昼食時ながらいくつか空席のあったカウンター席に落ち着き、間もなく届いたパテから手作りだというハンバーガーにかぶりつく。味は昨日の共済食堂よりいくらか余分な金を払った価値があると思わせてくれる物だった。

バーガーやサラダの容器が普通のファストフード店のように紙やスチロールの使い捨てではなく、陶器の皿だというところにも好感を抱いた。少なくともこの店でランチ、あるいはディナーの時間を過ごしても、家畜が餌を詰め込むような侘しい気持ちにはならない。


 四分の一ポンドのハンバーグを二枚挟み、プロセスチーズながら混ぜ物じゃないレッドチェダーとたっぷりのトマトとオニオンの入ったハンバーガーを、付け合わせのディル・ピクルスと一緒に食べながら、小熊は店内を見まわした。

 混み合った店内では派手なミニスカートにブラウス、胸を強調するエプロンを身に着けた店員が忙しく働きながらも、馴染みの客と仲良さそうに喋っている。

 客も何人かのグループで来ている人間が多く、小熊のように一人で来ている学生はあまり見かけない。店内に居るのはほぼ学生で、教職員は見かけないと思ったが、テーブル席にはゼミの皆で来たであろう初老の男性と若い人たちが居て、ツイードの上着とネルシャツを着こなした初老男性は、共済食堂で昼食を済ます教授や准教授より洒落者に見える。


 小熊はこっちの学食にも時々来ようと思った。郊外の住宅地にある喫茶店や中華料理屋など、常連だけの店に行くと、一人の疎外感から居心地の悪さを感じる事もあるが、ここはそういった気の置けない雰囲気を傍観者として眺め、目を楽しませつつ食事の時間を過ごす事が出来る。

 学業に必要な高品質の栄養が安価に補給可能で、静かなテーブル席で講義の時にやり残した話し合いの続きなども出来る共済食堂とは違う雰囲気。この店は一人でも居心地がいいが、高校時代に同級生だった礼子や椎を連れてくれば、それはそれで楽しいだろう。


 ハンバーガーとポテトサラダ、震え上がるほど美味いという宣伝文句が概ね本当だったキーライムパイを、昔は脱脂粉乳と呼んでいたらしいスキムミルクと共に楽しんだ小熊は、テーブルにチップを置かないのが申し訳なくなるほどの満足感を味わいながら店を出た。

 午後の講義に出席した小熊は、カブ90で大学を出た。

 今日は金曜日なので明日、明後日は休日。これから店を回って色々と買い込み、自宅とガレージのリノベーション作業を本格的に始めなくてはならない。

 

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