第38話 処分

 壁のリフォームを終えた家で一晩を過ごした小熊は、極めて良好な仕上がりに改めて満足した。

 漆喰や珪藻土の宣伝文句になっている、合成素材より優れた吸湿、保湿性のおかげで、生活環境が良くなった気がする。

 もちろん見た目も素晴らしく、ドアを開けて部屋に入るたび劣化した砂壁を見て抱く、家賃相応のくたびれた家という印象は払拭された。オフホワイトの壁は長年の使用で磨かれた重厚な木の柱や床とも調和している。

 灯りを蛍光灯から白熱灯に変えた時に浮かび上がる。あえて不均一に塗った壁の陰影などは、今すぐ誰かを家に呼んで自慢したくなる出来だった。


 まだ入学して間もない大学ではそんな人間など居ないので、高校時代の同級生にLINEを送ってみたが、ベトナムに旅立った礼子はツアー会社の不手際で現地の空港に足止めされていて、このまま空港暮らしになるのではないかと愚痴っていた。

 椎は入学早々勧誘されたフットサルのサークルに入り、一年生五人しか居ないフットサルチームの再興に夢中になっているらしい。

 それぞれが自分の目的のため動いている。自分はどうなのかと思った小熊は、とりあえず今日一日を有意義な物にすべく朝食を作り始めた。


 ご飯、浅漬け、ジャガイモとニンジンの味噌汁、鯵の干物、冷凍物の菜の花で作った辛子和え。日曜の朝食としてはそこそこ良好な物が出来上がったと思いながら、小熊は皿や茶碗を手製のカウンターテーブルに並べた。

 壁のリフォームで明るくなった部屋でNHK-FMを流しながら和風の朝食を味わう。満たされた時間を過ごそうとした小熊は、カウンター前の椅子に座ろうとした拍子に、テーブルの足につま先をぶつけた。

 カウンターテーブルが大きく揺れたかと思うと、滑りのいい杉材のテーブルに乗せられた朝食が、次々に床へと落下した。


 少しの間呆然とした小熊は、溜息をつきながら割れた皿と散乱した朝食を片付け始める。

 床一面に広がった味噌汁を拭き上げ、陶器の欠片が混じった米と和え物をゴミ箱に捨てる。鯵の干物は原型を保っていたが、フローリングに落ちて床の汚れの付いた魚は食べる気がしない。

 これが綺麗に清掃され磨き上げられた木の床だったら違っていたのかもしれない。天使は清しき家に舞い降りるという言葉が本物なら、この家は天使も避けていく状態。

 幸いご飯も味噌汁も余分にあったので、割れた茶碗の代わりにメスティンの角型飯盒にご飯を盛り、味噌汁をかけて朝食をかきこむ。


 厳寒のキャンプなどでは体を温めてくれる命の糧の味がする汁かけ飯も、自らの不始末の結果として食べる羽目になると、なんとも味気ない。

 不完全な満腹感のまま朝食を済ませた小熊は、メスティンを洗って片付けた後、カウンターテーブルを憎々し気に見つめた。

 朝食を落としたのは自分のミスだが、バイクの操縦や整備でもそうであるように、物事の原因は常に複合していて一つではない。このカウンターにも問題があったのではないかと、腹いせのような気持ちを抱いた小熊は、テーブルを色々な角度から吟味した。


 まず天板に対し角材の足が貧弱すぎる。何かを乗せた時の強度は足りているが、予想外の力が加わった時に木材が撓≪たわ≫んで揺れる。強度ではなく質量のバランスが取れていない。

 バイクでいえば重心の高いトップヘヴィーな状態。コーナリングで車体を倒しやすいが、自然に倒れる力が強すぎて、復元力も弱い。

 天板を安価な規格品の2by12材で済ませたせいかもしれない。同じく安い端材で間に合わせた足を補強しようにも、全て作り直さなくてはいけない。そう思った途端、最初は気に入っていたバーカウンター・テーブルが色々と不完全な物に思えてくる。


 幅は一人で使うには無駄に広いが奥行きが足りず、大きな皿を載せると前にも後ろにも落ちやすい。表面仕上げをしていない杉材は醤油やお茶をこぼすとすぐに染み込む、だいたい真新しい木材は、木造家屋の重厚な床や柱の色に合ってない。

 このカウンターは作り直そう。小熊はそう思ったが、作るにしても材料を買い揃えなくてはならない。すぐに着手するのではなく、今は部屋の内装に比べ遅れ気味な他の作業を進めようと思った。 

 壁のリフォームを予定より早く終えた事で丸々空いた日曜。何から手を付けようかと少し考えたが、結局カブに触れているのが精神衛生上いいだろう思い、部屋を出てコンテナガレージに向かった。

 コンテナの扉を開け、中の灯りを点けると、小熊のカブ90が目に入る。いつだってバイクは、日々の暮らしで起きる波風に少々落ち込んだ気持ちを吹き飛ばしてくれる。


 整備済みの極上中古車として買った小熊のカブ90は、今のところ整備する部分が見当たらない。大学への通学だけでなく、それ以上の性能が求められる用途にも応えてくれる事は、ペイジのジムニーと一緒に走った時に確認した。

 そろそろエンジン洗浄を兼ねた初期のオイル交換と、新品のチェーンに起きる初期伸びの調整、ワイヤー類の給油、誰とも知れぬ整備士が機械任せで締めたボルトの締め具合も自分の手でチェックしなくてはならないと思ったが、それは今でなくてもいい。どうせ初めてしまえば一時間もかからない。

 小熊はコンテナの奥を眺めた。事故で損傷したカブ50。部品取り用に貰って来たが、色々と調べたところ車体や外装などは共有していても、主要部品の互換性は余り無い事がわかった。役に立たぬ原付をどうするか。無駄に場所を取るくらいなら、使える部品だけ剥いて処分したほうがいいだろう。


 小熊はコンテナの奥まで行き、仄かな灯りに照らされたカブ50に触れた。小熊が高校二年の春に買い、二年弱乗っていたカブ。

 スタンドを上げてハンドルを押した。歪んだ後輪のせいで抵抗はあるが、ただ押し歩いているだけでは、このカブがもう事故によるフレームの損傷で、修理費が評価価格を上回る全損廃車状態には見えない。死んだカブだということが信じられない。

 コンテナの外までカブ50を押し出した小熊は、陽の光の下でカブを見た。やはり目視でもわかるくらいにフレームが変形し、後輪の足回りも駄目になっている。外装部品も幾つか破損していた。


 小熊はカブをもう一度見る。でもこのカブは、エンジンが無傷。その次に値の張る電装部品も無事で、前輪の足回りは消耗部品を交換して間もなかった事で良好な状態。

 このカブは直るかもしれない。フレームの歪みが廃車に繋がる高額な修理費を要するというのも、プロに外注に出した時の話。手間をかければ自分でも直せる事を小熊は知っていた。その手間が得られる物に見合わないから、フレームの終わったバイクは潰されるが、こっちは時間や手間に余裕のある学生の身。フレームの修復修正も足回りや外装を中古部品で安価に直す事も、出来なくは無いし、方法を知っている。


 思えば自分は今まで、カブを実用品として安価に維持するため整備を行ってきた。そろそろ雑誌やネットブログに載っているバイク趣味人のように、実利や損得ではない、楽しみとしてのバイク整備や修復というものをしてみたくなった。

 小熊は部屋着のままカブ50の前にしゃがみこみ、作業の第一歩となる現車確認を始めた。自分は何でこんな事をしているんだろうかと自問したが、体が勝手にそうなってしまうんだからしょうがない。きっとバーカウンターの自作に失敗した事で、何かの埋め合わせが欲しくなったのかもしれない。


 世の多くのバイク乗りは小熊のような真似をやらかした結果、住居や駐輪スペースを無駄に狭くし、ゴミやガラクタを溜めこむこことで家族や近隣住人から悪評を得る。

 小熊は買ったバイクを捨てられないという、多くのバイク乗りが罹患する病を発症させてしまった。

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