第34話 赤い花

 あれこれ考えた結果、小熊は昨日、一昨日に行った学食で昼食を済ませる事にした。

 もう今日は大学での用を終えている。これからカブであちこち走り回り、明日から始まる講義や自宅リフォームに必要な物を買い回らなくてはならない。昼食はキャンパスの外まで食べに行くか、あるいは家に帰って食べても良かったが、今日は午前中のオリエンテーションで少々疲れていて、これから高級店から大衆店、あるいはテイクアウトまでより取り見取りな南大沢の駅前で、同じく昼食の時間を過ごす学生や社会人に混じりながら良さそうな店を探す気力を出せそうになかった。

 だからと言って昼ご飯を食べに家に帰るのは、自分が小学生にでもなったような気分になる。


 この大学は幾つかの学食があって、一つは軽食中心のカフェテリア、もう一つは最も大きいフードコート方式の共済食堂、他にフランス料理店なんてものもあるが、通りがかりに中を覗いたところ、馬鹿高価くないカジュアルな雰囲気ながら、学生の客はあまり見当たらず、学食というより学校経営の近隣住人向けレストランといった感じだった。

 単調な繰り返しになりがちな日々に何かしらの変化をもたらすべく、まだ行った事の無いカフェテリア学食に行こうと思ったが、昼休みの時間が始まり方々へと流れる人の動きを見ていた小熊は、きょうで三日連続の利用となる共済食堂に入った。

 

 出入口近くにある自動販売機でパスタの食券を買った小熊は、セルフサービスのカウンターで大盛のスパゲティ・ナポリタンとツナサラダを受け取り、空席を探した。

 一人席の並ぶ窓際を一瞥したが、まだ学内に知り合いや友達のいない新一年生があちこちで背を丸め、年長者だらけの慣れない場所で居心地悪そうな昼食時間を過ごしている大窓の前には、一昨日ここで昼食を食べていた竹千代は見当たらない。

 あの日は彼女に対する予備知識が何も無かったからか、一人静かに麦飯と豆腐を口に運ぶ竹千代の事を綺麗な人だと思ったが、あの女のケチな本性を知った今となっては、見つけても出来るだけ離れた席に座りたくなる。


 広い学食。一人席はそれなりに空きも目についたが、小熊は素通りして学食の奥にある、二人から四人の小さなテーブル席が並ぶ辺りに歩を進めた。トイレ前にあるテーブル席の横で立ち止まる。

「ここは空いている?」

 大窓から差し込む明るい陽光が自慢らしき学食の中、ドリンク自販機の影にある薄暗い席で鯵の干物をつついていた女が、顔を上げぬまま答えた。

「空いてる。誰も来ない」

 小熊は節約研究会の一年生メンバー、ペイジの向かいに腰を下ろした。


 新入生として同じオリエンテーリングに参加したはずのペイジを、小熊は講堂内で見つける事が出来なかった。

 入学早々サボりとはいい度胸をしている。きっとあの改造ジムニーでどこかに走りに行ったに違いない。そう思った小熊は、学食に入っていく女を見て、もしかしてと思い彼女の後を追った。

 遠くから観察しても確信は持てないまま彼女の席まで行き、声を聞いてようやくペイジに間違いないと思った。

 小熊の向かいで、あまり美味そうでない様子で焼き魚定食を食べているペイジは、昨日の印象とは大きく異なる姿だった。

 紺色のリクルートスーツに黒縁の眼鏡、特徴的だった赤毛の髪はきっちりと束ねてあって、昼の光の下ではくすんだ茶髪に見える。


 席に落ち着いた小熊は自分のスパゲティ・ナポリタンに手をつける前に、ペイジに声をかけた。

「一人で食べる事になると思っていたけど、知り合いに会えて安心した。夕べは楽しかった」

 小熊は昼食を一人で済ませた経験など幾らでもあって、それを嫌なものだとは思っていなかったが、今はなんとなくあの窓際に並ぶ一人客の中に加わりたくなかった。

 小熊の声を聞いたペイジが、啜ろうとしていた味噌汁の椀を置く。テーブルに置かれた盆に汁が飛び散った。

「き、昨日はわたし、久しぶりにジムニーで走れるようになってテンション上がっちゃって、せっかく竹千代さんのサークルに新しく入ってくれた小熊さんにも、変なことを言って、ごめんなさい」

 手を合わせ「いただきます」と言った後、タマネギ、ピーマン、マッシュルームのナポリタンを頬張った小熊は、ケチャップをしっかり煮詰めた味を堪能した後、誤りだけ正した。

「セッケンに入る気は無い」


 ペイジは小熊より味噌汁に映る自分の顔を見ながら答える。

「そうだよね。あんな改造車で夜遅くまで連れ回して、いけない事だよね、でも!竹千代さんと春ちゃんはいい人だから」

 小熊はスパゲティをもう一口食べた。今までナポリタンを喫茶店で子供が食べる物、あるいは弁当のフライやハンバーグに敷く物だと思っていたが、この学食のナポリタンは美味い。後で学食の職員に作り方を聞こうかと思った。

「私はあの竹千代という女を信用出来ないし、春目みたいな女を好まない。でも、私はジムニーに乗るあなたが好きだ。また一緒に夜の道を走りたいと思っている」

 ペイジがまた味噌汁をこぼした。人から好意を向けられるのに慣れていないんだろうかと思った。昨日会ったペイジは男物の服を着こなし、綺麗な赤毛を奔放になびかせていたが、今、目の前にいる女は、ただひたすら誰かに注目されないよう人目を避けているように見える。


 小熊は学食を見まわした。オリエンテーション帰りの一年生を多く見かける。その大半が、ペイジと同じく地味なスーツに目立たない髪型をしている。

 小熊は自分の着ているデニム上下と真っ赤なライディングジャケットを見下ろす。オリエンテーションでこの恰好は人目を引いたんだろうか。もしそうだとしても、自分は必要あってこの恰好をしている。大学での用を終えたらすぐに午後からカブで走り回らなくてはいけないし、高校時代に在籍していたバイク便会社の浮谷社長は、今この瞬間に緊急の仕事を小熊に頼んでもおかしくないタイプの人間で、小熊はそんな浮谷に好感を持ち、依頼があれば即応する積もりでいる。


 夕べの彼女が幻であったかのように口数少ないペイジと、他愛の無い話をしながら昼食の時間を過ごす。ペイジの話では、朝から姿を見かけぬ竹千代は昨日拾得した箱一杯のモデルガンをさっそく換金すべく動き回っているらしい。春目は午前の講義が終わるとすぐに自転車で山菜採りに出かけてしまったという。

 モデルガンを売った金の山分け分は当然小熊にも入るというので、それをきっぱり断った小熊は、一つだけ知りたい事をペイジに聞く。

「今夜も走りに行くの?あのジムニーで」

 ペイジは頷き、それから不安に駆られたように言い足す。

「今日は私一人だけど、昨日みたいに乱暴な走り方はしないから、だから小熊さんも、もし、いやじゃなかったら」

 バターの後味の香るナポリタンを食べ終え、フレンチドレッシングをかけたツナサラダで口の中をさっぱりさせた小熊は答えた。

「カブで行く。一緒に走ろう」

 ペイジは嬉しそうな、安堵したような笑顔を浮かべた。


 日暮れ後

 約束の時間より少し前に、小熊は節約研究会の部室があるプレハブの前にカブを乗りつけた。

 ペイジは既にジムニーの傍らで待っていた。

 月の光を受け、まるで人ならざる者のような赤みを帯びる長い髪。地味なカーキ色のパンツとシャツが、余計に赤毛を際立たせる。ペイジは猫のように光る瞳を隠すように、黄色いレンズのシューティンググラスをかけた。

 背後のジムニーは小熊にとって興味深い車だった。昼と夜では違う顔を見せる東京都下のドライブも魅力的。しかし小熊がここに来た大きな理由は目の前に在る、ただ美しい存在。

「さあ、走ろう」

 小熊はこの夜に咲く花に会いに来た。  

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